梅雨
「へっぶしェいっ」
玄関の引き戸に手を掛けたところで、盛大なくしゃみが飛び出した。垂れてきそうな鼻水を、ずっと啜る。あわせて取り込んだ空気は、じっとりと湿っていた。
一昨日の天気予報曰く、関東は梅雨入りしたらしい。しとしとと、この三日間ずっと雨が降り続いている。梅雨とは、こんなにも雨が降る季節だったのか。俺の知っている梅雨と、少し違う。もっとこう、サウナみたいな蒸し暑さが、俺の思う梅雨。一方、東京の梅雨はそこまで熱くない。まあ蒸し暑くはあるのだが、構えていたほどの暑さにはならないのだ。
そういえば、五月の連休の頃も思っていたのと違う気温だった。真夏日を記録しておきながら、最低気温は十数度。寒暖差が二十度近くもあるとは、どういうことだ。テレビ画面に映る胸元がパッツパツのお天気お姉さんに対し、つい「ハァア?」と凄んでしまった。
『風邪引かんよう、気いつけ』
『北さんこそ気ぃつけてくださいね』
『おう、去年は酷い目に遭うたからな』
『えっ風邪引いたんすか』
『いや、インフルエンザ』
『この時期に!?』
そんな会話をしたのは、もう一か月以上前のこと。インフルエンザなんて、せいぜい三月いっぱいで旬が過ぎるものだと思っていた。それは災難でしたね、つーかだから北さん、高校に顔出してくれなかったんですね、俺めっちゃさみしかったあ。そんな俺のテキトーな出まかせは華麗にスルー。代わりに気をつけろと念押しをされた。
その甲斐あってか――いや、まあ関係はないか――俺も北さんも風邪を引かずに五月は過ごした。今月も、上旬までは好調だったと思う。寒暖差が縮まって、夏らしくなってきて、過ごしやすさすら感じていたくらい。
昨日、までは。
「ただぁいまぁ……」
戸を開けながらぼやいた声は、すっかり掠れていた。
風邪を、引いてしまった。関東の梅雨に体がついていかなかったせいか、気が緩んでいたせいか。単純に、新生活の疲れが現れたというのも考えられる。
垂れる鼻水。ぼんやりと靄のかかった思考。指先の感覚もおぼろげ。何年か前の自分だったら、それでも構わずに練習をしていたことだろう。愚行に歯止めをかけられたのは、かつてもらった冷ややかな言葉のおかげ。
『帰れや』
数年経った今でも、生々しく再生できる。思い出すだけで背筋が凍りそう。言われた直後は、この冷血! て心底思った。もし、そのあとの一つの出来事がなかったら、俺は北さんのことを嫌っていただろう。いや、そうでもないか。あの人は飛びぬけて上手くはなかったが、ミスもなかった。安定したプレーは、嫌いにはなれない。あのフォローがなかったとしても、生真面目すぎる仲良くはなれない先輩程度で済んだかも。……少なくとも、今ほど慕いはしなかったのは間違いない。
「北さあん」
そんな、頼りになるあの人の名を呼んでみる。けれど、返事はない。しん、と静けさだけが返ってくる。まだ、あの人は帰ってきていないらしい。
北さんより早く帰ったの、初めてだ。いつだって、俺がタダイマと言えばオカエリと返ってきた。しかし、今日はそれがない。そもそも、玄関にあの人の靴がないのだ。いないのは一目瞭然。
無性に、切なくなってきた。風邪を引いているせいで、人恋しくなっているのだろうか。この俺が? バレーをしたくてうずうずすることはあったとしても、誰かに会いたくて打ちふるえるなんて。自分らしくない、むしろ気色悪い。
ガシガシと乱雑に頭を掻いて、浮かんだ感情から目を背けた。だが、切なさはトテトテと追いかけてくる。靴を脱ぎ捨てようと、わざと足音を立てて廊下を歩こうとも、視界の隅に入り続ける。鬱陶しい、鬱陶しい、どっか行ってしまえ。ムッとしながら、洗面台の前に立った。
「ワ」
つい、声が漏れた。
なぜかって、きっと鏡を見てしまったせい。水垢一つない鏡に、綺麗に映し出された自分の顔と対面したせい。
――しんどい。その四文字が、顔面からひしひしと伝わってくる。俺、こんなに不細工な顔してたん? ずっと鼻を啜ると、いっそう不格好。みっともないにもほどがある。逆に北さんがいなくて良かったかもしれない。こんな無様な顔、あの人に見られたくない。ダサいところなんて何度も晒しているけれど、だからこそ、これ以上はと思ってしまう。俺も成長したんです、かっこよくなったでしょ、て言いたい。
流しの縁に両手をついて、深く息を吐き出した。梅雨の一言で片付けられないくらいの湿った空気が、口から零れていく。あわせて、全身から力も抜けていく。自分が思っていたよりも、気を張っていたらしい。まるで体温計で三十八・九の数字を目の当たりにしたかのよう。頭痛も眩暈も、ひどくなったような気になる。
静まり返った家に、ぽつんと、一人。鼻を啜る音も、浅い呼吸も、血を巡らす鼓動すらも、大きく聞こえる。
黙っていると、辛さと切なさがしんしんと積もってしまう。弱音なんて、口が裂けても言いたくない。なのに、柄にもない言葉は頭の中をぐるぐる駆け巡る。
ほっとレモンはない。のど飴もない。梅干しなんて、当然ない。いや、冷蔵庫開けたら入ってそう。けれど、確かめに台所に行く気力があるかと言われると、……ない。
真っ直ぐに俺のコトを見てくれる北さんも、いない。
「はよ帰って、」
きて。まで言う寸前で、口を覆った。声にしたらアカン。ただでさえサミシイのに、一層苦しくなってしまう。
クソッ。悪態を吐き捨てて、ぐらぐらする頭を持ち上げた。
まずは手を洗おう。両手を濡らす。石鹸をつける。洗い流す。余計なことを考えないように、目先の物を睨み付けた。泡を流したら次はうがい。歯ブラシの立てられたコップを引っ掴んだ。北さんのは水色で、俺のは白。買った時期が違うせいで、微妙にデザインの異なるソレ。すっかり同じ形の色違いだったら「同棲してるみたいですね!」なんて冗談言えたのに。
ひやり。手の甲に、濡れる感触。
はっと意識を引き寄せた。目線の先にあるコップからは、だばだばと水が溢れている。節水、筆で書かれた二文字が浮かんだ。まずい、北さんに怒られる。でも水気持ちええな。いやいや、だから北さんに怒られるて。
きゅ、水を止めてから、三度目のため息を吐き出した。北さんこと意識しすぎやろ、おかんや治ですらここまで意識せんかったのに。他人やからこそ意識してしまうんか。そういえば、治に釘を刺されたな、「俺とは違うんやから、遠慮せえ」て。……関係ないか、高校ン頃から北さんにはビビってたんやし。
うがいを済ませ、ちらりと階段を見やった。俺の部屋は二階。この、急な階段を上らなければならない。それすら辛く思えるのだから重症だ。階段上って、部屋に行って、そんで布団も敷かなあかん。
うわ、めんど。
そう思いながら、今度は居間のほうを見やった。ふらりと数歩、廊下を進む。ずるりと肩から、鞄が落ちた。ずんぐり重たい思考は、鞄のことなど気にも留めない。
居間の襖を開ければ、畳とちゃぶ台、それから二枚の座布団が見える。さらに奥にある襖の向こうは北さんの部屋。布団敷いてあるかなあ。いや、絶対畳んでる。そんで押し入れン中しまってる。勝手に入って、そんで布団まで引っ張り出して、北さんに見つかったら大目玉食らうに違いない。
もう、居間でええか。かけるもんないけど、風邪引くような気温でもないし。そもそも、もう風邪引いてんねん、どこでも一緒や。
膝をつきながら居間に入り、座布団を一枚引き寄せた。起きたら、良くなっていますように。せめて、この熱っぽい頭だけは治っていますように。
二つに折りたたんだ座布団にごすりと額を押し付けた。しまった、うつ伏せだ。息苦しい。だが、寝返りをする気力すら、湧いてこない。
そのまま瞼を閉じて三秒。ぷつり、意識が途切れた。
◆◇◆◆
「あつむ」
角のとれた声がした。意識の糸が揺れる。現実に結びつきそうになっては、夢との結び目を固くする。まだ寝ていたい。微睡んでいたい。そんな思いもあって、揺れる意識は夢に傾いていく。
「あーつーむ」
「んん」
すると、体が揺れた。なんとなく、左肩を触られている感触がする。いやや、まだ寝てたい。なんで起こすん。振り払うように左肩を捻った。あわせて低く呻く。と、反抗の意志が伝わったのか、感触が遠のいた。これでまた寝られる。一瞬強張った体から、力が抜けていった。
「起き、布団敷いたから」
ふとん。
その三文字を聞いた途端、意識が戻ってきた。布団。畳の上よりは、柔らかい気がする。こんな硬い座布団と違う、柔らかな枕もある気がする。さらにはふんわりとしたタオルケットや羽毛布団なんかを被れるのでは。
子どもの頃は、よくひょいと抱きかかえられて二段ベッドに放り込まれた。けれど、この図体になってからはそうもいかない。どうにかして部屋に連れていくよりは、そばに布団を敷いたほうが早い。このまま居間に寝転がってたら、治に蹴っ飛ばされてしまうしな。布団にさえ入っていれば、一応気を遣って蹴らずに跨いでくれる。
のろのろと、体を起き上がらせた。瞼はまだ開かない。
なあ、布団どっち。
「ぁりがとお、おかん」
「おかんちゃうわ、ほらこっち」
「んんん?」
左手でぐしぐしと目を擦っているうちに、右手の指先を掴まれた。ひやりとした体温が伝ってくる。
やっとの思いで瞼を開くと、骨ばった手が右手を引いていた。自分の手より一回り小さいか、同じくらいか。確かにこれはおかんの手ではない。大きさが違いすぎる。これくらいの手の大きさで、布団を敷いてくれそうな奴といえば。
まさか、とも思うが、アレしか考えられない。
ずりずりと膝立ちのまま進みながら、心当たりを口にした。
「サム?」
「治でもない」
「んぇえ」
じゃあ誰やねん。
垂れてきた鼻水をズッと啜った。そういえば風邪を引いたんだった。頭はぐらぐら揺れるし、熱っぽくてぼーっとする。手を引いてもらってやっと動ける、というくらいに体も重い。
眉間に皺を寄せながら、繋がれた手をよくよく見つめる。やはり大きさは同じくらいか、少し小さい。指の筋肉は俺ほど発達はしてなさそう。極端に荒れてはない。かといって、丁寧に手入れをしているふうでもない。唯一見える人差し指の爪先は、綺麗に切りそろえられている。
ふと、膝に木の感触がした。視線をさらに下に落とせば、敷居が見える。居間から、移動したらしい。居間から? 実家の居間はフローリング。畳じゃない。そもそも俺が今いるのだって実家じゃない。先輩の、家。
ハッとすると同時に、顔をあげた。
「きたさん」
「おう、寝るならここ使い」
「きたさんやあ」
視界の中央に、その先輩の姿。眉をハの字にしながら、俺の手を引いてくれている。背景にはその先輩の部屋。本棚一つと机が一つ。下のほうには、敷かれた布団。
もふ、と膝が羽毛布団を踏みつけた。同時に北さんの手が離れて布団を捲る。
「ほら」
真っ白いシーツに指先が触れる。それから、とんとんと二回ばかり敷布団を叩いた。
布団が待っている。北さんが待っている。――自然と、両腕が伸びた。
「は?」
疑問符のついた一音が耳元で響く。吐息がかかってくすぐったい。身じろぎをするように、北さんの首筋に擦り寄った。ほんのりと汗ばんでいる皮膚。六月なんてほとんど夏だ。そんな時期にぎゅうとひっついたら暑いに決まっている。しかも、片方は熱がでているときた。これで暑くならないほうがおかしい。
かといって、離れようという気は起きない。俺よりも、たぶん少しだけ体温が低いだろう北さんにひっつくのは心地いい。それに良い匂いがする気がする。気のせいやろか。シャンプーも同じ、柔軟剤も同じ、だったら自分の匂いと変わらないはず。けれど、安心する匂いがするのだ。自分と同じ匂いがするからこそ落ち着くのだろうか。
心地いい。気持ちいい。ぎゅうとひっついたまま体重を預けていくと、ゆっくり、身体は傾いていった。
「わっ」
今度聞こえてきたのは、北さんにしては珍しい声色。大声にはなっていないけれど、驚きの色を含んでいる。北さんでもそういう声あげるんやなあ。初めて聞いたわ。
「おい、侑、」
相変わらず、北さんの声は耳元でする。キンキン響くような高い音程でもなければ、地を這うようなデスボイスでもない。基本穏やかな、耳に馴染む音程。匂いだけじゃない、声にも安心してしまう。昔はあんなに怖いと思ってたのになあ。いや、今もちょっと怖いか。真顔で見つめられると、何言われるんやろかと背筋伸びるし。
すん。匂いを嗅ごうと鼻を鳴らした。
「ンズッ、ぅ、……うん?」
「……さっきからお前ぐずっぐずしよって、ちゃんと噛めや」
「へ?」
しかし、匂いを感じる前に鼻が詰まる。ずるずると鼻水が垂れてきそうになる。ということは、さっきの匂いは本当に錯覚だったのか。じゃあ、声を心地いいと思ったのは? 嗅覚とあわせて聴覚も狂ってしまったのだろうか。鼻水がひどいと、耳もおかしくなってしまうし。
ぐ、と首を捻った。
つん、と。鼻先が、触れる。
うっわ、北さんの顔、めっちゃ近い。
「~~ッどぅええ!?」
「やかましい、この距離やぞ、ンなでかい声出さんでも聞こえるわ」
「だっ、だ、……だって!?」
なんやこの体勢。
まるで北さんに抱き付いているみたいだ。いや、みたいじゃない。抱き付いている。首から肩のあたりにぎゅうと腕を回して、完全に抱き付いている。その上、布団に押し倒しているときた。
なんや、この体勢。
状況を把握すると同時にカッと顔が熱くなった。ただでさえ熱っぽいというのに、これ以上熱くなるなんて。発火しようとでもいうのか。ここで燃えたら、北さんの顔面にでかい火傷つくってしまうなあ。せっかく綺麗な顔してるのに。綺麗? いやいやいや普通やろ。フツー。どっちかといったら俺のが顔面偏差値高ない? そんなことない? 『ないわ』。うっさいクソサム、すっこんでろ。脳内にいるお前と喋ってる暇ないんじゃこっちは。
なんやねん、この、この体勢は!
頭の中で叫び、これまた頭の中で俺をせせら笑う治を殴り飛ばす。
「す、んませ、ん、ねぼけて……、かぜひいて?」
アグレッシブな脳内とは打って変わって、現実で発したのはつっかえつっかえの声。なんて理由を言えば許してもらえるのか、見逃してもらえるのか、熱暴走しそうな脳みそで必死に考える。
具合悪くして居間でくたばっていた俺を見かねて、布団を敷いてくれた。なのに、俺は「きたさんやあ」なんて間抜けな声出して抱き付いて押し倒したて、なんでやねん。自分がそう動いた意味がわからん。なに晒しとんねん、俺。数秒前の自分を殴り飛ばしたい。殴りたいのは治やない、自分のほう。
あの北さんと、鼻先がくっつくほどの距離で、目を合わせていられる奴がいようか、いや、いまい。
「はあ」
目を泳がせていると、ため息を吐かれた。超至近距離でその息遣いはアカンて。まず、ふ、て唇に息がかかるのがくすぐったい。そんで、心の中を読み取られたみたいに心臓がガタガタ震える。
このまま目を逸らしていたい。けれど、北さんの様子も窺いたい。呆れているだけなのか、お怒りなのか。そもそも、自分よりゴツい野郎に乗っかられて、機嫌がいいわけがない。機嫌悪いんやったら、やっぱりこのまま目を逸らしていたい。堂々巡りだ。
じぃ、とすぐそばから視線を感じる。睨んだり、凄んだりしてはいないと思う。だが、ガン見されているのは確か。この距離でガン見にならんほうがおかしいか。
すんません、だってなんか、嬉しくなってしまって。そんでぐわあああ昂って、飛びついてしまったんです。寝ぼけたせいもあるんで、ほんと、許してください。
あれこれ理由を並べるくらいなら、さっさと北さんの上から退けという話。わかっています、起きようと思っています。思てるんです。なのに、力が入らない。なんで? 風邪の、せい。ああ、そう。クソが。
「ッ北さんあの、いま、ぃま退きます」
「侑」
「退きますんで、」
「あつむ」
とん。背中を、軽く叩かれた。緩やかかつ穏やかに、とん、とん、と叩かれる。まるで赤ん坊をあやしているときのよう。北さんにひっついて身動きが取れなくなっているのだから、実質乳幼児と同じようなもんか。図体ばかりでかい十八歳児。
おずおずと、見ないようにしていた北さんの目に、ピントを合わせた。
「は、ぁい」
「……喉痛いんやったら無理に返事せんでもええ」
「ぁい」
目が合う。視線が、絡む。その瞳に、怒りの色はない。呆れも、あまりないように見える。背中に触れる手と同じくらい、穏やか。こんなでかい男にのしかかられて、息苦しいでしょうに。
とん。背中を叩く手が、一時停止。それから、ぐぐ、と体が傾く。……一方の肩が、布団に沈んだ。あわせて、北さんも横向きに。あれま、北さん、俺を動かすだけの力、あったんですね。そら男やもん、下敷きになっている体勢から脱するだけの力はあるか。知らんけど。
「ええか、」
横向きになって、やっと鼻先が離れた。北さんとしては願ったり叶ったりだろう。こんな風邪引き野郎と密着して、うつされたらたまったもんじゃないだろうし。
思い出したように鼻を啜った。ずずっと鈍い音がする。またお前は、と一瞬北さんの顔に呆れが滲んだ。しゃーないやん、ティッシュどこにあるんですか。
北さんに腕を回したまま、む、と口を尖らせた。
と、額に北さんの指先が触れる。いつの間に背中から離れたんやろ。転がしたタイミングか。
「次は、そんなんなる前に連絡し」
――やっぱり、北さんの声は耳に馴染む。鼻は間違いなくおかしくなってるけど、耳はおかしくなっていない。この人の声を聞いていると、安心する。目線には、あんなに緊張すんのにな。不思議やわ。
瞼を閉じると、さんざん慌てふためいていた思考がストップする。熱暴走からの冷却作業に入ります。冷やっこい北さんの人差し指は、その後押しをしてくれる。額に張りついた前髪を払うように、一回、二回と撫でられる。
ああ、気持ちええなあ。
そんなことを思っていたら、ぺたり、今度は額を覆われた。冷却シートを、貼られたかのよう。いや、それよりはずっとぬくい。俺の体温より、二度とか三度、低い程度。ほどよい冷たさだ。頭にキーンと響かない、そのままずっと触っててくださいって頼みたくなる温度。
「死んだかと思ったわ、アホ」
「ふふ、かってにころさんといて」
ふにゃりと言い返した。尖らせたはずの唇は、すでに緩んでいる。断言できる、今、未だかつてないくらいに気の抜けた顔してるて。
「それもそうやな」
ぽつり、呟くみたいに北さんの声がする。なあ、それどんな顔して言うてるんですか。俺に負けず劣らず、気の抜けた声してますけど。
確かめようにも、瞼が重いったら。
「……おやすみ」
つん、と、また鼻先が触れたような気がした。
◆◆◇◆
あれから、何時間経ったろうか。ぱちんと意識が覚醒した。小玉電球はオレンジに光っているが、天井の色は暗くてグレーにしか見えない。のっそりと起き上がって、今度は窓のほうに目を向けた。閉められたカーテンの向こうが、明るい気配はない。
チッチッと時計の秒針の音が響いた。そうか、時計。それを見たら今何時かわかる。咄嗟に室内を見渡した。が、暗いせいで、時計がかかっているだろう位置はわかっても、何時かまでは読み取れない。……これだけ暗いのだ、朝になるのは、もっと先。きっとそう。そういうことにしよう。
心に決めて、もすり、布団に戻った。
「へぁ?」
戻ろうと、した。
しかし、中途半端に寝ようとした体勢のまま、ぴたりと固まってしまう。さらには、どっと汗が噴き出てきた。目をこれでもかと見開いて、口も半開き。たら、と鼻水まで垂れてくる。
俺が、潜ろうとした布団の、隣。ほとんどくっつくように位置に、もう一枚の布団が敷いてあった。その上には、毛布を被って穏やかに上下する塊。耳を澄ませば、秒針の音に交じって寝息が聞こえてくる。
風邪を引いている奴と、同じ部屋で寝るのか。うつされたらどうしようとか、思わんの。あと、その布団どこから出したんですか、まさか俺の部屋から持ってきたとか言いませんよね。さすがにそれはないか。持ってくるくらいなら、そのまま俺の部屋で寝たって良いはず。きっと、どこかから客用布団を取り出してきたんだ。そうに違いない。
……なら、居間で寝ても良いでしょうに。どうしてここで寝ようと思ったん。俺めっちゃびっくりしたんですけど。心臓、口から飛び出るかと思った。
「ん、」
「ッ!?」
思った? なあ、ちょっと、俺の心臓まだ体の中におる? 口とか喉のほうに出てきてないよな?
ひゅっと息を吸い込めたのを思うに、心臓はまだ胸骨の裏に収まっている。ドクドクと脈打っている感覚だってするから、体の中央で生命活動をしてくれている。ああ良かった。
胸を押さえながら、その人のほうを見やる。ただ、寝返りを打っただけ。ちょうどこっちを向くように転がったせいで、寝顔が見える。……この部屋が、明るければ。薄暗い室内じゃ、寝ているということ以外、よくわからない。
ならば近付いたらどうか。顔を寄せたら、いくらか表情がわかるようになるだろうか。なんたって北さんの寝顔だ。見る機会が、これから巡ってくるとも限らない。
おずおずと、北さんに、近付いた。
「……きーたさん、」
ぽつり。口から零れた。あれ、俺なんで今、北さんのコト呼んだん。呼ばんでもええやろ。起きてしまったら、寝顔、見られへんやん。
ボール一個分の距離をあけて、北さんの顔を眺めた。とりあえずのところ、起きる気配はない。寝息が浅くなった程度。ということは、じきに起きるということか。
起きてしまう前に、よく北さんの寝顔を拝んでおこう。腕を枕にして、近いところに寝転がった。じぃ、と、迫力のない、どこかあどけなさすら感じる顔を見つめる。
「きたさん」
再び、その人を呼んだ。それだけで、……なぜだろう、胸がきゅうと締め付けられるような感覚がやってくる。いや、これは腹の音か。そういえば夕飯を食べていない。腹減ったなあ。今日の夕飯、何やったんやろ。北さん、今日のゴハン、なににしたん。俺の分、ありますか。
ねえ北さん。北さん北さん。
「しんすけ、さん」
「――ぁつむ?」
びくり、肩が震えた。目の前にいる人が、じゃない。俺のほうが。まさか、名前を呼んだ瞬間に起きるとは思わないだろう。出来過ぎたタイミング。驚くなというほうが無茶だ。
呆けていると、うらり、その人は視線を彷徨わせる。目が慣れていないせいで、俺を探せないのだろう。一秒、二秒、それから三秒。四秒にかかるか、といったところで、カチン、視線が交わった。
ふ。吐息だけで笑う気配。
「すこしはよぉなった?」
甘ったるい声がした。べたべたすんなや、鬱陶しい。そう、一蹴してしまいかねない甘さ。けれど、その甘さを享受したいと思う自分もいる。
頭が、またカッカしてきた。心臓も喧しい。あと鼻水垂れるし。風邪の症状、極まれり。じゃあ、北さんから視線を離せないのも、風邪のせいなのか。
「しんぱいしたんやからな」
拙い声で言うと、北さんの瞼は閉じた。少しの間を経て、寝息も聞こえてくる。
ごくりと、唾を飲み込んだ。今の、顔、なに。なんなん。声に負けず劣らず、蕩けて、緩んだ、顔。かじったら、甘ったるさでうんざりしそう。
でも、空腹感のある今だったら、とびっきり美味しく食べてしまえそうにも思える。いやいや、北さんやで。先輩を食うて、どういうこと。雑食にもほどがある。これじゃあ、治を馬鹿にできない。
北さんに背を向けるように寝返りを打ち、ぎゅうと目をつぶった。心臓は、今もなお騒がしい。
「ぅぅう」
寝よう。寝ないと治るものも治らない。寝よう、寝ろ、寝てしまえ。
そんな理性の指示を完全に無視し、感情はふわふわと舞い上がった。