白露
ぱち、と。目が開いた。辺りは薄暗い。けれど、夜の暗さではない。朝が迫ってきていると、わかる程度の暗さ。カーテンの向こうには、青色を取り戻し始めた空が広がっていることだろう。そりゃあまあ、曇っていたら話は別。でも、昨日の天気予報では今日は晴れと言っていた。記憶が確かなら、降水確率もゼロ。だからきっと、晴れている。雨を理由に、日課のジョギングを控える必要はない。
薄く目を開いたまま、ぼんやりと思考を巡らせる。布団の中は、随分と温かい。むしろ、ちょっと暑いくらい。一人で寝ていたら、きっと今被っている薄手の布団を跳ねのけていたことだろう。もしくは、目覚めて早々に「暑い!」と叫んで起き上がっているか。……去年のこの時期は、そんな調子で起きていたっけ。
「ん……」
小さく呻きながら、傍にある熱を抱きしめた。
いとおしい人を、抱きしめた。
その瞬間、ピ、甲高い電子音が響いた。目覚ましとして使っている、スマホのアラームだ。くそ、タイミングの、なんとまあ悪いこと。
次の「ピ」が聞こえる前に、片一方の腕を頭上に伸ばした。外すことなく、手の平は板状の端末を掴む。画面に触れて、素早く指を滑らせた。たちまち、だんまりと、その精密機械は黙り込む。余計な音を響かせる前に、無事、アラームを止められたらしい。
ついでに言えば、スヌーズだとか、追加のアラームの設定はしていない。こう見えて、朝には強いほう。必要さえあれば、いつだって、ぱ、と目覚めることができる。
……実家にいた頃は、おかんか治が起こしてくれるから、という理由で、なかなか起きられなかったものだけれど。この家に来てからは、毎朝、きっかり四時半に起きられている。腕の中にいる、この人の力も借りずに。
とはいえ、そのおかんや片割れにこの事実を伝えたって、信じてはくれないだろう。嘘吐け、北さんに起こしてもらってるんやろ・お前が一人で起きれるわけがない。げんなりとした顔をする二人が脳裏に浮かぶ。嘘ちゃうわ、と喚き散らす俺の味方は、北さんだけ。事実を知っている、この人だけ。淡々としたいつもの口調で言うのだろう。
ちゃんと起きてますよ、……俺より早く起きて、毎朝走りに行ってます、と。
いつか、俺の家族に、ぴんと背筋を伸ばしたこの人のコト、紹介したいな。高二のときの主将、ては知っていても、俺のいちばん大切で、一生手放さないと誓った人とまでは、知らないだろうし。
――あんたの愛、ぜんぶぜんぶ俺にください。
そう強請って、迫って、真っ赤な顔をしたこの人を「全部くれたる」と頷かせた日から、もう一か月。
恋人になって、ひと月だ。
一旦、布団の外に出した腕を、布団の中に戻した。そして、ぎゅ。再びその人を抱きしめる。こっそり項の辺りに顔を埋めて、すん、息を吸い込んだ。香ってくるのは、この人が使っているシャンプーの匂い。それから微かに汗の匂い。この時期にこれだけくっついて寝ているのだ、汗をかかずにいられるわけがない。
かといって、一緒に寝ないという選択肢も、ない。
だって、恋人らしいこと、したいから。
恋人になった日の夜から、この人と一緒に寝させてもらっている。頼んだ直後、正気か、という顔はされた。暑いて言うて蹴飛ばされるんちゃうか、とか、そもそも一緒に寝られるようなでかい布団ないわ、とかも言われた。けれど、そんなに寝相悪くありません、やら、二つの布団くっつけたらええやんか、やら、半ば駄々のような理屈を捏ね繰りまわして、強引にこの人を頷かせ、そして現在に至っている。
一応、一応はな? 一緒に寝始めたせいで北さんにストレスが溜まって、ぐったりしてしまうようならば、やめるつもりでいた。どうしても一人の時間がないとあかん人って、おるやんか。寝るときくらい、プライベートは確保したい、ていうような人。俺はどうも、二十四時間片割れが付きまとう生活をしていたから、全然、そんなのとは無縁なのだけれど。もし、万が一、北さんがそういう質だったら、一緒に寝るのはやめるつもりでいた。嫌がることを強いるほど、俺の人格はポンコツじゃない。
ポンコツじゃあないが、……この人が、そういう質ではなくて良かったと、心底思う。おかげで、今もこうして、一緒に寝られている。
ちなみにの話をすると、いつもくっついて寝ているわけじゃない。二つ並んだそれぞれの布団に寝ることもあるし、俺が強引に北さんの布団に潜り込んで引っ付くこともある。そして、北さんから、俺の布団のほうに、入り込んでくることも、ある。あるのだ。冗談ではなく。虚勢でもなく。本当に。
一緒に寝るようになって、一週間ほど経った頃だったろうか。まだ八月半ば、冷房もきっちりしっかりつけて寝ていた頃合い。たまたまその日は俺のほうが先に寝仕度ができてしまって、北さんがまだいないのに北さんのほうの布団に入るのも違和感があって、とりあえず自分の布団に寝転がった。寝転がったとなれば、当たり前のように意識は夢の中へと落ちていく。あの人を待とうとしつつも、睡魔に負けてしまったのだ。
ハッとしたのは、寝入って何時間か経ってから。
しまった、北さんの布団に潜り込みそびれた。
そう思った矢先の、感触。ぴと、り。鎖骨から胸にかけての辺りに襲ってきた熱は、二度と忘れられないだろう。
誰、これ、なんて思うくらいに、動揺もした。だって、北さんから俺にくっついてくれるなんて、考えもしなかったのだ。一緒寝たい、と言い出したときも、怪訝な顔をしていたし。仕方なく俺と一緒に寝てくれているはずの北さんが、俺の布団の中にいるなんて。いっそこれは夢なんじゃないかと思ったほど。
はくはくと口を震わせながら、傍にある体に触れて、間違いなく北さんであることを確かめて。
そんで俺どうしたと思う?
『ぉあ、ぶ、ぅえ!?』
なんとも情けのない、奇声をあげてしまった。
あまりにも間抜けすぎて、忘れたいのに忘れられない記憶になっている。いや、あの奇声のせいで、北さんが起きてしまったからかも。もぞ、と身動ぎをしてから俺のことを俺を見上げ、睫毛を揺らしたあの人のことも、よく覚えている。
数秒ぼんやりとしてから、その唇が、ふるりと、開いたのも。
『なにしたん?』
『な、にて、う、きっきたさんが』
『ん、おれが』
『俺に、く、ついて、えっ、なんこれ、エッ夢?』
『……いややった?』
『へッ!?』
『いや、やった?』
半分寝ているような舌足らずな声。けれど、俺の動揺には気付いたらしく、すまんな、とぼやきながら俺から離れようと動き出す。
ちゃうねん、そんな、嫌なわけない。
咄嗟に離れようとする腰を捕らえて、ぎゅっと抱きしめた。まさか、まったく、滅相もございません。ただ、北さんからもぎゅってしてもらえるとは思わなくて、心の準備が追いついていなかったというか。
夜中の電気の消えた居間、クーラーの稼働音をBGMに早口でわやわやと捲し立てた。あの日、電気が消えていて本当に良かった。もし点けっぱなしだったら、カッカと火を噴きそうなくらいに真っ赤になった顔まで見られていたことだろう。
……見られたら見られたで、別の言葉で甘やかされたのかな、と思わないこともない。
だが、それはそれ。
とにかくあの日は、灯りが落ちていて、良かったのだ。
『あつむがいややないんやったら、このまま一緒に、寝たい』
『嫌なわけないです、むしろ、めっちゃ、うれ、ぅうッ、うれしぃ……』
『ほんま? 強がりせんでも』
『ほんまに!』
『……なら、甘えさせてや』
なんたって、北さんのほうから、俺に甘えてきてくれたのだから。
まったく、あんなこと言われて、ノーと言える奴がいたら見てみたい。
ああ、俺この人とほんまに恋人になれたんやなあ。自分から付き合ってくれと言っておいて、しみじみと自覚したのはあの晩だった。なんて、口が裂けてもこの人には言えない。言ったら、あの一世一代の告白は、一世でも一代でもなかったのかとストレートな疑問で殴られてしまう。
ふつふつと、ここ一か月の出来事に思いを走らせながら、腕の中にある熱を確かめた。
起きる気配はない。すぅすぅと、一定の感覚で寝息が聞こえてくる。そっと顔を覗き込めば、無防備な寝顔が見えた。すっかり、気を許されている。つい、頬が緩んだ。
もう少し、こうしていたい。寝入ったこの人を堪能したい。だが、自分の日課も、疎かにはしたくない。なんせ、バレーボールにのめり込むための、習慣なのだから。
名残惜しくも、そっと抱きしめる腕を解いた。それから、極力静かに布団から抜け出す。俺が這い出たせいでできた隙間を、ぽすぽすと叩いて埋めてから、抜き足差し足と居間を離れた。
廊下を進んで洗面所へ。顔を洗って、髭を剃って、歯を磨いて。簡単に髪を整えたところで、自分にあてがわれた部屋へと向かう。寝床としての機能がなくなったせいで、ここ一か月、ほぼ物置きになっている自室。ほぼ、というのは、着替えはここでするから。そのうち衣類も下に置くようになって、完全なる物置きになる日も近い気がする。
さておき、手早く着替えて、軽やかに階段を下りていく。今日はどの辺りまで行こう。走りながら、今日の調子と相談するか。
廊下に戻って十数歩、居間の前で足を止めた。ぴた、と隙間なく閉じている襖。つい先ほど、自分がそう閉めたソコ。いつもなら、ちらりと一瞥するだけで、そのまま走りに行くところ。
下手に物音を立てて、あの人を起こしたくはない。いや、そりゃあ、俺のこういう身支度をする音で、なんとなくあの人は目覚めるらしいけれど。でも、そこから覚醒にいたるまでが、北さんは長いのだ。
意外やろ、あの人、朝、あんまり強くないんやで。一緒寝るようになってから、余計にそう感じる。
朝に弱い、というより、寝起きがそこまで良くない、といったところか。目が覚めてから、三十分から一時間は布団の中でもそもそとしている。雨が強く降っていて、コレは走りにいけないな、という日に拝んだあの人はそりゃあもう可愛かった。俺がまだ寝ていると勘違いして擦り寄ってくるし。足まで絡めてくるし。甘えた呻きを漏らされたところで、こっちの我慢が効かなくなって、さも今起きましたという素振りをしてしまった。あんなん一時間も続けられたら襲ってしまう。寝起きで頭が働ききっていないあの人に無体を働いてしまう。それは、だめだ。俺は紳士に生きるんや。少なくとも、北さんに対しては。ぶっちゃけ、熱を出したあの日も、寝起きが重なったからこそ、ああなったんだろうな、と、思う。
じ、と。閉じた襖を見つめた。
このまま、つま先が向いているほうに進めば、昨日と同じ朝が始まる。外をぐるりと走って来て、「ただいま」と言って玄関を開けると、みそ汁の匂いとともに「おかえり」が聞こえてくる、朝。じゃあ、襖の引手に指をかけると? そうではない、朝がやってくるのだろうか。走って帰ってきたときの「ただいま」「おかえり」は変わらないだろうし、みそ汁の香りがするのも、きっと同じ。
じゃあ、何が変わるというのだ。
「……あー、」
考えるまでもない。
朝いちばんに交わす挨拶が「ただいま」じゃないものになるだけ。襖を開けて、おはようございます、と声を掛ければ、のろのろとその人は起き上がって、眠そうに瞼を擦りながら「おはよお」と言ってくれるだろう。あるいは、「いってきます」といえば、同じようにとろとろとした動きで「いってらっしゃい」と返してくれるに違いない。
ただ、それだけのこと。
大した変化では、ない。
ない、が。
つい、襖に手をかけていた。ず、と横に滑らせて、中を覗く。見える布団は、まだ丸く膨らんでいた。だが、先ほどのような寝息は聞こえてこない。とりあえず、目覚めはしたらしい。となると、あの微睡んでいる時間だ。布団から出ようにも、出られない、北さんが唯一ちゃんとできない時間。
あの人に甘やかな声を浴びせられるとき、こっちは十中八九動揺を極めている。動転し過ぎて、頭がくらくらと揺れていることも少なくない。そんな有様なのだから、あの人に情けない姿を晒しまくっている。ただでさえ、北さんに振り回されて、みっともないところを見せているというのに。
じゃあ、今、なら。
あの人がぽやっと呆けた顔をするのは間違いない。そういう顔をされると、身構えた上で、見ることができる。心の準備ができるのだから、さほど動揺することなく、あの人の可愛いところを見られるのでは? ずるいやり方なのはわかっているが、それなりに落ち着いた状況下で、ふわふわと蕩けた顔をするあの人を見たいのも事実。
疼く欲のままに、そろそろと居間の中に足を踏み入れた。靴下ごしに、ひやりとした畳の感触がする。あっという間に布団の横に辿り着いて、もそもそと身じろぎをするその人の枕元にしゃがみ込んだ。
すっぽりと頭まで布団を被ってしまっているがために、ご尊顔を拝むことはできない。捲ってしまおうか。でも、変に機嫌を損ねられるのも嫌だ。
ああ、そうか。声をかけたところで、なんやねんうるっさいわ、と機嫌を損ねられる可能性もあるのか。
北さんのことだ、しばらくして意識が覚醒すれば、やってしまった・すまんかったと反省してくれるのだろう。だが、それはそれ。嫌な気分にさせたくはない。そうなる可能性は、極力排除したい。なんでって、この人に嫌われたくないから。この人に、心底好かれていたいから。
やめよ。いつもみたいに、フツーに行ってこよう。イッテキマス・イッテラッシャイは、別に早朝じゃなくたって交わせる挨拶だ。それに、この先ずっとこの人と生きていく予定でいるのだ、微睡んだ声で送り出してもらう機会は、今日だけじゃあない。
もそもそと布団との戦いを始めようとするその人を見下ろしながら、はくり、口を開いた。けれど、吐き出すのは空気だけ。声は乗せずに、唇だけを動かした。
(いってきます)
当然、いってらっしゃいの返事はない。
ふ、吐息だけで静かに笑んでから、腰を持ち上げた。
「ん、ぅ」
「っ」
「ぅ……、んん?」
すると、呻き声。起こした? 脳裏に不安が駆ける。ほんの数秒前まで起こそうとしていた奴が、何を言う。いや、起こすん、やっぱやめとこて思ったとこなんやもん。
ぎくりと体を強張らせながら布団を見つめていれば、薄手の布団がもそもそと動く。その人が寝返りを打つのにあわせて捩れる。
「ン」
鼻にかかった声がしたところで、ようやく布団が持ち上がった。薄手のそこから、愛おしい人が顔を出す。カーテンを閉めたままの薄暗い室内。けれど、夜と違って表情が全く見えないわけではない。まだ重たい瞼を開けずにいる顔が、よく、見える。
「ぁつ、む?」
「……おはよ、きたさん」
「ぉはよぅ……」
か細くその両目が開いた。だが、いつものアーモンド・アイには程通い。ほとんど線。凛とした威厳はどこにもない。もしかすると、無意識に限りなく近い状態なのかもしれない。走って帰ってきたら、聞いてみよう。今朝、「おはよう」て言うてくれたの覚えてますか、て。
うつらうつらとしながらも、その人は布団に戻ることなく俺を見上げている。いや、視線はあちこち彷徨っているのかもしれない。ほとんど開いていないせいで、どこを見ているかわからないだけで。……そんなわけないか、これだけぼんやりとしながら、あちこち眺めているとは思えない。きっと、視界の中央に俺を置いて、そのまま寝ぼけている。考えていることなんて、せいぜい「あつむがおるなあ」くらい。
あの北さんが、寝ぼけた顔を、隠すことなく晒している。俺に見せてくれている。
よくよく見てみると、唇に隙間ができていた。半開き、というほどの開き加減ではないが、緩んでいるのは確か。普段だったら、こんな顔、絶対に見られない。珍しい。角名が見たら、喜々としそう。あの北さんがこんな顔するなんて、とカメラを向けてくるに決まっている。……見られたくないな。俺だけに向ける顔であってほしい。これまでがどうであったかはとりあえず置いておいて、少なくとも、これからは。
そんな北さんを見下ろしていると、ゆっくりとその頭が俯いていく。微かに開いていた瞼も、どうやら閉じたらしい。重力に従って、かく、と垂れると、そのまま北さんは固まった。座り姿勢のままで、辛くないのだろうか。どうせ寝るのなら横になればいいのに。……横に、してやればいいのか。ふぅ、と一つ息を吐いてから、その人の傍にしゃがみなおした。
と、垂れていた首が、もったりと浮く。
線、よりかは開いた目が、とろんと俺を見つめた。
「いまなんじ」
すっかり丸くなった声が鳴った。唇はほとんど動いていない。舌もろくに回ってはいないだろう。拙い。何度も言うが、あの北さんが、寝ぼけている。俺に、寝ぼけたところを、晒している。
もにょり、頬が緩みそうになる。口元が、にやけそうになる。顔が、だらしなく歪みそうになる。
ああもう、かわええなあ、この人。
「四時半。まだ寝てて良いですよ」
「んぅー……」
北さんにつられて、こっちのトーンも柔らかくなってしまった。角なんてどこにも見当たらない、どろりと甘ったるい声。我が声ながら、胸焼けしそう。
そんな甘さに気付いているのか、いないのか。北さんは呻きながら右へ左へ頭を揺らす。起きているのがやっとの様子。もう、眠いなら布団戻りましょ。今日はバイトない日なんでしょ。俺も今日は自主練日。弁当はいらない。それに、自主練日ということになってはいるものの、オーバーワーク気味だから休めと個人的に指示されてしまった日でもある。となれば、体育館には行けない。俺にとっては、紛うことなき、休養日。だから、北さんも今朝はゆっくりしていいんですよ。俺に変な気、使う必要、ないんですよ。
ほら、二度寝しちゃいましょ。なんなら、俺が戻って来ても、まだ布団の中にいたって、構いませんから。
そんな思いを込めて、寝ぐせのついた髪を撫でつけた。
「……あつむ、」
「ん?」
と、おもむろにその人の腕が浮いた。どうにか体を支えていた腕だ、浮かせて大丈夫なのだろうか。つい、こてんと倒れてしまわぬように、胴に手が伸びる。と、その人の腕と交差した。と、と指先が北さんの脇腹・腰にかけてのあたりに辿り着けば、向こうの手指は俺の頭に届く。かさ、と、指先が耳を掠めた。そのまま北さんの指が、俺の髪をくぐる。後頭部にまで回る。
引き寄せ、られ、る。
「ん」
「え、わ」
抵抗しようと思えばできる力加減。かといって、無下にもしにくい。……なんせ、北さんから抱き付かんと腕を伸ばしてくれているのだ、突っぱねられるものか。そんなもったいないこと、できるわけがない。
されるがままに顔を寄せた。なんだか、近い。あれ、近いな。えっ、いくらなんでも、近すぎませんか。
くに、鼻先がぶつかったところで、ぽやっと開いていたその人の目が、ぱたん、瞼に覆われた。
「んっ」
「ッ!?」
――ふにゅり、唇が、沈み込んだ。
「いってらっしゃい、き、つけてな」
「ぁ、はぃ……、いって、きま、す」
「ん」
かと思えば、すぐに唇は離れた。ふにゃり、脱力するかのようにその人は笑って、腕もぽったりと布団に落とす。いや、腕だけではない、胴も、か。もすりと布団に沈み込み、……十、数えるより早く、すよすよと穏やかね寝息が聞こえてきた。
え、今、俺、ナニされた?
北さんから、キス、された?
熱を持った心臓が、ドッと跳ねた。
「~~っぁあもお、」
どうしてこの人は、こんなにも俺を心を掻き乱すのが上手いのだろう。べち、と顔を覆いながら天井を仰いでみるものの、顔の火照りは失せてくれない。
敵わない。とてもじゃないが、太刀打ちできない。せいぜい、まろい声で「いってらっしゃい」と言われたらいいなという程度だったのに。まさか、この人から「いってらっしゃい」のキスをもらえるとは思わないだろう?
不意打ちだ。その不意打ちに耐えるだけの心の準備は、さっぱりできていなかった。ドクドクと心臓は喧しう騒ぎ続ける。いっそ痛いくらい。いつか、この人からのキスを平然と受け止められるようになる日は来るのだろうか。……来ないと、あまりにも格好が悪すぎる。なんとしてでも、強心臓を手に入れなければ。
ずるずると、手の平が顔の表面を滑る。まだ、顔は、歪んでいる。情けなく緩んでいる。鏡を見なくたってわかる。どうしてくれよう。このまま外に出たら、間違いなく不審者になってしまう。せめて、引き締めてから、いかなければ。……そう思いはするものの、北さんの緩んだ顔だとか、ふにゅ、と沈んだ感触を思い出すと、もにょもにょと唇が波打ってしまう。ああくそ。くそ。幸せや。
息を吸い込んで、吐き出して、もう一度深く吸い込んで、長く、吐き出した。よし。胸の中はまだ喧しいけれど、いつまでもここで幸せに浸っているわけにもいかない。
走りに、いこ。ついでに、頭、落ち着かせよ。
そんで、帰ってきたら、ただいまと言って、この人の腰が抜けてしまうようなキスをしよう。そうでもしないと、気が収まらない。
むにむにと顔を揉んで、どうにかいつもの自分らしき表情を取り繕ったところで、ぐ、腰を持ち上げた。
◇◆◇◆
ただいま、と声をかけながら玄関をくぐり、履いていた靴を上がり框の端に揃えて置いた。
その間に、台所のほうから穏やかな「おかえり」が聞こえてくる。ふんわりと香ってくるのは、やはりみそ汁の匂い。今日の具はなんだろう、冷蔵庫の中にある葉物のどれかと、残り五センチになっていた人参と、豆腐あたりが入っていそう。そこまで鼻が良いわけではないから、匂いじゃ答え合わせはできない。あの人の隣に立って、鍋の中をそっと混ぜる手元を覗いてみないことには、わからない。
起きた時に比べて、いくらか気温が高くなってきた室内に意識を取られながら、ひょい、台所を覗き込んだ。案の定、そこにはすっかり見慣れた背中がある。授業のある日や、バイトに行く日はちゃんと着替えているが、今日は寝間着のままだ。今日はゆっくりでいい、朝飯さえ作れば良し、普段のように弁当を詰める必要はない。そうわかっているからこその、この緩い恰好なのだろう。
エプロンすらつけていない後ろ姿にひたひたと近づけば、ちら、肩越しに北さんはこちらを振り返った。
「おかえり」
「ただいま」
玄関で聞いたのよりは、ずっと控えめな声量。けれど、じんわりと耳に残る響き。寝起きの蕩けてぽったりと布団に吸い込まれる声と異なり、滑舌ははっきりしている。
お目覚めですね。完全に、覚醒しましたね。ねえ、北さん、あんた今朝のこと覚えてますか。そのしれっとした横顔から察するに、覚えていないでしょ。なんとなく、侑に声をかけたかもしれない、というくらいしか、覚えていないでしょう。
にんまりと口元に笑みを浮かべたまま、そ、腰を抱いた。
その瞬間、かち、とガスコンロの火が消える。左手の指先は、流れるようにコンロから上へと移動、換気扇の切ボタンを押した。がくん、と仰々しい音を立てて換気扇が止まれば、自然と辺りは朝の静けさに包まれた。かた、と、みそ汁の鍋に蓋をする音がよく響く。……あ、しまった、蓋されてもた。中身、確かめてへんのに。三角コーナーに、小松菜と思しき根元と人参の皮が入っているから、その二つは入っているのだろうけれど。……いや、みそ汁ではなくお浸しだったりして。ああもうわからん。今日の朝飯なんですか。
なんて、ぽこぽこ浮かんでくる疑問は別にどうだっていい。この人に近付いたのだって、腰を抱いたのだって、鍋の中を覗き込むためにしたわけじゃないのだし。
「なん」
やねん、と、言いたかったのだろう。
く、北さんは首を捻りながらも俺を見上げてきた。上目遣いではなく、微かに顎が浮かせている。ちょうどいい角度だ。
何にちょうどいいって? 決まってる。
キスをするのに、ちょうどいい、角度だ。
「んっ!?」
ふく、と尖った唇に、ばっくりと噛みついた。
腕の中にある体が跳ねる。おたまを持っていないほうの手が、ど、と俺の胸を押した。けれど、その程度で退く俺じゃあない。腰を抱く手に力を込めつつ、口付けを深くしていく。いやあ、コンロの火を消してくれて良かった。火傷をするとか、服に燃え移るとか、そういったことを気にせず貪れる。熱を持つ口内を、存分に堪能できる。
引っ込み思案な舌を強引に絡めとって、きゅ、ちゅ、と吸い付いた。それにあわせて腰が震えるのは錯覚ではあるまい。感じてる? 感じてくれてる?
やんわりと腰を撫でれば、とろ、と唾液が滲んできた。舌に絡みついて、自然とやらしい水音が鳴る。ここで耳を塞いだら、わんわんとえっちな音が頭の中に響きそう。そしたら、北さん真っ赤になるんちゃう? やってみたい気もするが、腕は腰に回していたい。片手だけじゃ、両方の耳を塞ぐことはできない。なんとも惜しいが、そうするのはまた今度にしよう。
ぷちゅ、一旦口を離すと短い銀糸が伸びる。けれど、それも束の間。は、とその人がか細く息を吐くと同時に、その糸は雫となってその人の唇に落ちた。ぽってりと濡れた、ソコ。ぎゅ、と押し付けたのもあって、じっとりとした赤みを帯びている。
美味、そ。そう、じゃないな、コレは美味い。もう、覚えた味だ。引き寄せられるように、再び、その人の唇を塞いだ。
「ンッ」
「ん」
向き合って、身体を寄せて、ぐずぐずと口内を蕩けさせていく。気付くと、胸を押しのけようとしていた手は俺の胸元を必死に掴んでいた。円を描くように腰を擦れば、かすかに下肢が震えだす。
腰が抜けるまで、あとどれくらい? 背筋や腕も震えだしたから、ほとんど秒読みかもしれない。縮こまっていた舌も脱力し始め、俺にされるままに嬲られている。鼻に抜ける音だって、すっかり色を孕みだした。
ぐ、下腹のあたりを押し付けるように抱きしめながら、尖らせた舌先で上顎を掠めた。
「~~ンぁッ」
「っと、」
ぴく、と、抱いていた身体がわかりやすく震える。それから、ずん、と腕と体に圧し掛かってくる重さ。それから、カコン。軽やかな音を立てて、その人の手元にあったお玉は床に落下した。
抱きしめる前よりも、とろっと潤んだ瞳。濡れたそこには、混乱も滲んでいる。なんでこんなことをされたのだ。気持ちよかったけれど、朝っぱらからなぜこんなキスをされたのだ。は、は、と浅い息を繰り返しながらも、その人は顔いっぱいに疑問符を浮かべる。
真っ赤に顔を染めながら、口内の紅を覗かせながら、困り果てている。
「かあわい」
ぼたり、甘ったるい声が漏れた。
「な、んなん、いきなり」
「おかえしです」
「なんの」
「今朝の」
「けさ?」
「そ、今朝。今朝のおかえし。北さん、寝起きに俺にちゅーしてくれはったでしょ、アレめっちゃビビったんで、その、おかえし」
「はぁ?」
依然として口からは砂糖菓子を思わせるトーンがほろほろと落ちてくる。その間も北さんの腰には腕を回したまま。がっちりと、体を抱き寄せたまま。
困った顔をした北さんは、俺と、床に転がったお玉とを交互に見やる。拾いたい、が、俺に抱きしめられているせいで拾えない。訳の分からないことを言う奴の話を聞くより、みそ汁の雫ごと床に落ちたお玉をどうにかしたいのに。ぴったりとくっついているからか、この一年と半分を一緒に過ごしてきたからか、北さんの考えていることが手に取るようにわかる。
「覚えてません?」
「おぼえてへん。……は? ほんまにそんなんしたんか」
「えへへ、してくれたんですよお!」
ほんの小一時間前に思いを馳せるだけで、頬が緩んでしまう。でれ、とだらしのない笑みを浮かべると、すぐ傍にある北さんの顔は、対照的に怪訝に染まった。先ほどまでの困惑はどこへやら。眉間に皺を刻んで、胡乱な目を向けてくる。
あれ、もしかして、俺の妄言だと思ってます? 事実ですよ、紛れもない、事実。証人が俺しかいないから、説得力に欠けるけれど、あんたのほうから可愛いキスをしてくれたのは本当。
漏れた唾液で、ぬら、と艶めく唇を見つめた。この唇に、キスをされた。ふにゅり、なんて、子ども同士でもできるような軽いキス。それでも、北さんからのキスという貴重すぎる体験であったのは違いない。ほんの十数秒前までねっとりと貪ったはずなのに、あの軽やかな感触のほうが鮮明に思い出せる。なんたって、北さんからの、キス。あの北さんから、寝起きでぼんやりしていたとはいえ、キスをしてもらったのだ。おいそれと忘れられるわけがない。
一方で、どうして北さんはこうも覚えていないのだろう。寝起きだったから? ……それ以外に思い当たる節がない。キスをして、いってらっしゃいと言ったあと、この人はすぐに布団に倒れ込んでいた。寝息だって、聞き届けたのだ、兎にも角にもあの瞬間の北さんは眠たくて仕方なかったのだろ。
……あれこれ考えていたら、またキスをしたくなってきた。それとなく腕に力を込めつつ、こつ、額を重ねた。
「あかん、まったくわからん」
「ん~、でもしたんですよ、俺に、ちゅって」
「……」
「そんで、いってらっしゃいて」
「いってらっしゃい……?」
至近距離にある北さんの眉間に、さらに深く皺が刻まれる。これっぽっちも身に覚えがないという様子。……そんな顔すら、愛おしくて堪らない。ぽってりと濡れた唇がすぐ傍にあるから、余計に堪らないのかもしれないが。互いの呼吸がわかる距離、一センチに満たない近さ。ちょっとでも口を尖らせれば、ふわりと触れられる。
キス、したい。したばかりだが、もっとしたい。触れるだけのも、押し付けるのも、唇を割り開いて舌を絡めるのも、したくて仕方がない。この人を相手にすると、やりたいことだらけだ。欲は尽きることなく浮かんでくる。
その欲のまま、再び唇を重ね合わせた。じり、と表面が擦れる。濡れているせいもあって、感触は滑らか。でも、きっと冬になると、かさかさと皮が捲れだす。生活習慣はきっちりしているくせに、唇が荒れるのには無頓着なのだ、この人は。これからの季節は、徹底してリップクリームを塗ってもらおう。夜は、ワセリンとか使って保湿もちゃんとして。あとは何をしたらいいだろう、北さんの唇を、ぷるっぷるにするには。つい、キスしたくなる唇になってもらうには。
ぐるぐるとやりたいことに思いを馳せる。乾燥しらずの、潤・艶・ぷるん! な唇をした北さん。うわっ、最高やん。北さん、てだけでキスしたくて堪らないのに、そんな口元になったらもう敵う気がしない。延々と貪りたくなってしまう。
疚しさが、腹の底で渦を巻く。熱が、じんわりと下肢に滲み出す。
「っ、ッンく……、ぉい、」
「ん?」
「も、やめぇや」
「えぇ、ぜんっぜん足りん」
「ぁ、わ、」
いっそう強く体を抱きしめつつも、後頭部にそっと手を伸ばした。さり、襟足をくすぐると、一瞬北さんの意識がうなじに向く。くすぐったいのか、はふ、と掠れたような吐息が漏れた。必然的に、開いた、唇。据え膳食わぬは男の恥、もう一度深く貪ろうと、口を開けた。
「ま、って、」
「ぶ」
と、唇に、感触。これまで重ね合わせた柔らかさではない、感触。
……その人の指、一本が、俺の唇に押し当てられていた。押し当てられる、というのは正しくないか。こっちの唇を、その人の指に押し付けている、というほうがしっくりくる。キスしようとしたところに挟み込まれたのだし、表現するなら、そのほうが相応しい。
キスの邪魔をするその指に続き、頬にも他の指が触れる。これ以上は、やめろ。離れろ。北さんの右手は、健気にそう訴えかけてくる。
そのくせ、その人の左手は、というと。
――ぎゅうう、という音が聞こえてきそうなくらい、しっかりと、俺の胸元を掴んでいた。まるで、離れたくないと縋られているかのよう。ねえ北さん、どうしてほしいんですか。やらしいこと、したいのか、したくないのか。大人しくやめてほしいのか、強引に続けてほしいのか。いっそ、唇に当たっている指先を舐ってしまおうか。
ちろ、そっと舌先を尖らせた。
「ッなあ、」
「なんすか」
たちまち、ひくんと腕の中の体が震えた。
ちょん、と軽く触っただけなのに。舌を這わせたらどうなることやら。疑問とともに、意地の悪い自分が顔を出す。咥えてしまえ、ぱっくりと指を嬲ってしまえ。にやつきながら、そいつは俺に囁いてくる。
確かに、そうしたい気持ちもある。北さんの指を、慈しみながら、たっぷりとしゃぶってみたい。あ、でもな、どちらかというと、俺の指を咥え込んでもらいたい。北さんの、強かではあるが決して大きくはない口内に捻じ込んで、柔い粘膜をかき回してみたい、かも。……指を捻じ込みたいなんて、高校生の頃じゃ考えられないことだ。なぜ、セッターの命ともいえる指先を、ずらりと歯が並ぶ口の中に突っ込むのだ、噛まれたらどうする、と。そりゃあ、噛まれるのは嫌だ。けど、北さんやぞ、歯ぁ突き立てるような真似、するわけないやん。きっと、甘噛みすることもできずに、必死に舌先で押し出そうとするのだろう。けれど、その舌を俺の指で弄ばれて、吸い付くしかできなくなって。……なんか、えろいな。北さんに指しゃぶられるとか。
そもそも、しゃぶる、て言葉が、なんだか。
いやいや、思春期じゃあないのだから。第二次性徴期の、箸が転んでも「おかしい」ならぬ「ドスケベ」と変換する脳みそは、もうとっくに過ぎ去っている。
「もうやめえや、ストップ、」
「なんでですか」
「なんでも」
「理由になってません」
「っ」
このくそ野郎、とでも言いたいのだろう。丁寧なようで、北さんは荒っぽい語彙も豊富である。便所をお手洗いと呼ぶことはない。お尻というよりかはケツという。くそ野郎くらい言ったってなにもおかしくはない。
そんな北さんが、真っ向から俺に悪態を放り投げてこないのは、恋人という特別な関係にあるからだろうか。それとも、言葉を選ぶだけの余裕があるということ? もし後者なのだとしたら、どうにかしてその余裕を崩したいものだ。
キスでだめ、となると、正直一つしか方法は思いつかないのだが。
いつか、この人とセックスできる日は、やってくるのだろうか。
「も、」
「ん?」
ぽつり、零れた声に、意識が戻ってきた。アレ、俺、今、なに考えてた?
北さんと、セックス、するだって?
せ、っくす?
「もう、……たってられへん、から」
掠れた、欲の乗った声が、鼓膜を震わせた。
ぞわ、と、全身が粟立った。あれ、粟立つ、というのは悍ましさを感じたときに使う表現だったように思う。そういう、不快感で鳥肌がたったわけじゃない。もっと別のもの、……劣情に駆られたことによるもの、だ。
掠めた単語が、思考にぴったりとくっついて、じわじわと浸蝕をはじめる。北さんと、セックス。誰が? そんなの「俺が」に決まっている。恋人同士なのだ。一緒に過ごす時間が増えて、抱きしめるのも許され、キスも許され、深ぁいキスも許されたとなれば、他にすることは、一つ。いや、身体の関係を持つことだけがすべてじゃない。わかっている。だが、俺はこの人で欲情するし、なんならこの人も俺で体を火照らせてくれる。となれば、やることの一つとして、ありえないことは、ない。
今がその、タイミング?
「あつむ?」
「へ、あ、はい」
「はい、やなくて」
「はぃ」
「も、きすすんの、やめて、腰ぬけそ……」
その言葉のとおり、北さんの体重はすっかり俺に預けられている。まだ腰は抜けていない、とのことだが、回している腕を離してしまえば、すぐに床にへたりこんでしまうことだろう。
北さんの指越しに、声と、吐息が、かさり唇にかかる。
「こんなん、……朝っぱらからすることちゃうやろ」
「……それ、て」
朝やなかったら、しても、ええの。
喉元までやってきた言葉を、どうにか舌に乗る前に飲み下す。別に言ったところで、大した問題はないだろう。北さんのことだ、ちょっと顔を赤らめながら「ええよ、夜、なら」と返してくるに違いない。変につんけんとして「しない」と言い張ってくることは、まずない。
かといって、「夜なら」と言われたとき、俺はどうしたらいいのだろう。今晩が初夜になってしまうのか。そしたら、今日の夜、北さんとえっちできるん? 嘘やろ? ほんまに? 嬉しい、けど、いざ今日と言われると心の準備が、……そりゃあやれるのならいつでも大歓迎やけど。
北さんは、ええの。あんた、こつこつ地道に積み上げてから何事もやるタイプでしょ。付き合って一か月そこそこで体許しても良いっていうんですか。それとも、ずっと好きだったから、もう手を出されるための積み重ねは終えているとでも?
あかん、頭の中、ぐっちゃぐちゃや。
結局のところ、俺はどうしたいん? 北さんと、えっち、したいのか、したくないのか。
――したいに、決まってる。
こんな可愛い人とセックスできんねんで? したくないわけ、ないやんか。
「ふ、」
北さんの指に、速い吐息がかかった。また舐められるのか、腕の中にある体がわずかに強張った。安心してください、それはもうしません。だって、そういうことしたら、立っていられないんでしょう? 腰、抜けそうなんでしょう? くったりと床にへたりこむ北さん、見たいは見たいけど、こんな「朝っぱら」にすることでも、ないんでしょう?
「ふっふっふっふ、」
「なに笑てんねん」
「だって、フ、フフ、かわええなあと」
「男相手に使う言葉ちゃうやろ」
「最近のかわいいって何にでも使えるんで!」
「女子高生か」
「女子中学生かも」
吐息を過分に含んだ笑いを浮かべながら頭と頭の距離を離すと、北さんの紅潮した顔にそっと安堵が浮かんだ。もう、そういう顔する。俺がどんなこと考えているかも知らないで。
……いや、実際のところ、ちゃんと考えはまとまっていないし、できることなら北さんとえっちしたいなあ、くらいのもん。今晩、あんたを抱く、と断言できるレベルの決意には至っていない。でもまあ、不埒なことを考えているのは事実。そんな俺の脳内会議を知らないで、安堵して見せるなんて。自分の貞操の危機にふにゃふにゃ安心した顔見せたら、駄目でしょうが。
ああもう可愛い。なんやねんこの人。にやける。
しばらく喉で笑っていると、俺にもたれかかってきていた体重もほんのりと軽くなった。下肢の感覚が戻ってきたのだろう。正直、まだ離したくはない。なんなら、ずっとぎゅっとしていたい。けれど、北さんの動揺はほとんど落ち着いてしまっている。そろそろ離さないと「朝飯、冷めてまう」と言ってきそう。
「侑、いつまでひっついてるつもりなん、朝飯冷めてまうで」
「……ふ、ふ、やっぱり」
「はあ?」
「そろそろ、朝飯冷めてまう、て言われるかなと思ったら、北さんそのとおり言うから」
「……言われる前に行動しようとは思わんの」
「いやあ、ぎゅってしてたくて!」
にんまりと口角を持ち上げて笑みを見せてから、そろり、その人に回していた腕を解いた。その瞬間、くら、北さんの足がよろめく。やば、転ぶ? 咄嗟に腕を戻しかけるが、すぐに北さんの背筋はしゃんと伸び、足の覚束なさも消えうせた。
大丈夫ですか・おん、大丈夫。
アイコンタクトでやりとりをすれば、とりあえずと北さんは床に転がったお玉を拾い上げた。あ、みそ汁垂れてる。上にある棚に引っ掛けているキッチンペーパーを切り取って、屈んだままの北さんに手渡した。横顔は、ほんのりと赤い。大分薄れてはきているものの、色気もまだ残っている。
静かに、床を確かめる北さんの隣にしゃがみ込んだ。
「ね、北さん」
「なんやねん、あ、鍋、居間に運んでええよ」
「はあい。……や、運びますけどね」
こて、と小首を傾げながら言うと、北さんの顔に「あざと」と呆れが浮かんだ。でも、嫌いじゃないでしょ、俺のこういう仕草。
やっぱり、確認したかった。先ほど喉元までやってきた、あの言葉。一度落ち着いたこの人相手じゃ、さらなる呆れを重ねられるかもしれない。それでも、聞いておきたかった。
だって、恋人やんか、俺ら。そしたら、そういうことをいつするか、って、結構大事なことだと思うんですよ。
じ、と。目を合わせて三秒。鍋を運べという会話から目があわせていたのを思えば、七秒か八秒は経っているのかもしれない。サーブを打つまでの猶予と同じか、少し長いくらいの時間。
ああ、俺、こんなに長く北さんと目を合わせても、心臓縮まんようなったんやなあ。
「朝やなかったら、――腰が抜けるようなコト、シてええの」
さすがに、セックス、と具体的な言葉は使えなかった。だが、この人の勘はそれほど悪くない。ちょっと臆病というか、石橋を叩いて叩いて叩きまくるほどの慎重さは持っているけれど、恋人同士と認識しているからには、通じるはず。
朝じゃなかったら。例えば、夜だったら、夜中だったら。あんたのこと、抱いても良いんですか。
僅かに見開かれた目は、すぐに、きゅうと細くなった。
あれ、なんか、地雷踏ん、だ?
「ええよ」
ど、と。低く、深く、そして大きく、心臓が跳ねた。
「へ」
「ええよ、そういうこと、して」
「ひょ」
「腰抜けて、次の日まで響くような、スゴイコト」
「ホ」
「しても、……ええよ」
ぞくぞくと、腰の辺りから痺れが上ってくる。流暢に紡がれる音は、全部耳で拾っているはずなのに、なぜ腰だとか、下腹だとか、……体の中心だとか、そういうところへ絶大な痺れとなって襲い掛かってくる。
地雷だ、コレは地雷を踏んだ。この人が感情を激しくぶつけてくる、というのではなく、こっちが派手に吹っ飛ぶという意味での、地雷。みるみるうちに、頭に血が集まってきた。せめて、ぽ、と羞恥を滲ませながら言ってくれたら、かわええな、とも思えたろうに。……あろうことか、色香をたっぷりと乗せて発せられるだなんて。
あかん、たちそう。
気付くと止まっていた息が、ひゅ、不意に肺の中へと入り込む。と、たちまちにして酸素が脳みそへ。言われたことの重大さを、理性が、受け止める。
わな、と、口が震えた。
「~~きたさんのすけべえ!」
「そら俺も男やからな」
「……アレッ俺もしかして抱かれてまう?」
「それやったら今晩は無理やな、抱くほうは想定してへんし」
「ッいや! エッ、あの、えっ」
淡々と発せられる言葉に衝撃が止まらない。普段の正論パンチよりもずっと殺傷能力が高いのではないか。くそ、やっとこの人の正論責めに慣れてきたところだというのに、今度はこんな誘惑を受けるだなんて。
据え膳食わぬはなんとやら。そう思って先ほどはこの人の唇を貪ることができたが、見たこともない御馳走が相手になるとそう上手くはできないらしい。どうやって手をつけたらいいのか、さっぱりだ。適切な食べ方がわからない。食べることには変わりないのだから、上品下品を考えずに齧り付けばいいだろうって? できるかそんなん。飯は、正しい食い方で食うのが一番美味いんやぞ、不作法な真似、できるか。
どうせ食うのなら、最も美味いやり方で、骨の髄まで味わいたい。
手を出せないまま固まっていると、ふ、笑みを一つ落とした北さんは、ゆっくりと腰を持ち上げた。あ、待って、追いかけるように視線を擡げる。腕が、その人の腰元に伸びる。
「だっ、抱かれるほうやったら、今晩でも、良いんですか」
「……まあ、おう」
「今晩て、今日の、夜、ですよ」
「他にないやろ。どしたん、そんなビビるなんて、珍しい」
「び、びります、よ」
「……」
「意外~みたいな顔やめて! さっきも言うたやん、寝起きの不意打ちちゅーにもビビったって!」
「いや、それは覚えてへんねんて」
「したんですぅ、あぁあもうなんやねん今日! 厄日か!?」
「嫌やった?」
「嫌つーか、」
アレコレ喚きながらも腰に引っ付けば、もすんと頭を撫でられた。そのままよしよしとあやされる。いつもの淡々とした顔を浮かべているが、邪険に思っているふうではない。むしろ、かわええなコイツくらい、思ってそう。
可愛いのはどっちだ。そう思うものの、今、目の前にいるこの人に可愛いなんて幼気な言葉は似合わない。ほんの数分前までの、俺に好き勝手キスされて腰が砕けかけたあんただったら様になるけど、今俺が引っ付いているこの人には、どうも使いにくい。強かで、ずるい。そういう言葉のほうが、似合ってしまう。
いつだってそう、俺が主導権を握ったと思わせて、ぐるんとひっくり返される。いつだって、というのはいくら何でも語弊があるか。稀に、最後まで俺に振り回されて北さんが蕩けることもあるのだし。……あった、ろうか。あった、あったて。たぶん。それこそ、恋人になった日のこの人は、そう。他にパッと思い当たらないのが、情けない。
それに。
「恰好、悪い……」
非常に頼りない声を漏らしながら、北さんの腰に顔を埋めた。と、俺の頭を撫でていた手が、ぴたり、止まる。
「ふはっ、お前も十分かわええわ」
「もぉおお、皆まで言わんといてくださいよ!?」
「しゃーないやろ、かわええんやから」
「かといって俺に言います!?」
「最近のかわええは何にでも使えるんやろ?」
「女子かッ!」
二度目となるやりとりを繰り広げれば、からからと頭上から笑い声が降ってくる。屈託のない、笑顔。視界に入った途端、きゅん、と胸が高鳴った。
……待て待て待て、なに流されかけてんねん。いつあんたとセックスするのかって話を、俺が可愛い・あんたが可愛いに置き換えられてしまうところだった。
ハンッと熱の溜まった空気を吐き出して、ぐっと足に力を入れた。立ち上がれば、必然的に俺のほうが目線は高くなる。見下ろす体勢。けれど、北さんが怯む気配はない。むしろ、余裕綽々の表情で小首を傾げられる。ウッそれ可愛いからやめて。ドキッとする。言おうとしたこと、吹き飛びそうになる。
彼方に飛んでいきそうな言葉をどうにか引っ掴み、喉に引き寄せた。
「北さん!」
「ん?」
「今晩」
「おう」
「シま、す、のでっ」
「おう」
「よりょし、ろ、よ」
「ふっふふ、」
「~~ッよろしくおねがいします!?」
まったく、どこまでも格好がつかない。この人の前で、格好いい自分を取り繕うことができない。
「お手柔らかに頼むわ」
けれど、そんな俺を厭うどころか、好ましいと言わんばかりに穏やかな顔を向けてくれるこの人には、本当に、敵う気がしない。