二
農業と云うものは、科学技術の発展と共に日々進化している。そりゃあ、欧米諸国に比べたら機械化は進んでいないが、様々な作業を機械に頼れるようになったのは確か。
例えばの話をしよう。
俺が主に取り扱っている「きぬむすめ」。このうち、一等米を詰めたものを「ちゃんと」という名前で売らせて貰っている。この名前で売り始めたのはじいちゃんで、しばらくは近所の産直にしか置いていなかったのだが、俺が跡を継いでからは着々と販路拡大を図っている。
炊き立てはもちろん、冷めても美味い。弁当やおにぎりに向いている、と聞きつけて、飲食店からの注文も多い。まったく、ありがたいことだ。
さておき、そんな稲作だが、種籾を発芽させるために水を吸わせる樽は電気で温度管理ができるようになっている。それから、土を入れた育苗箱に種籾を巻くのだって専用の機械がある。苗が育つまでの間にもすることは様々あるが、ここではとにかくトラクターが大活躍だ。アタッチメントを変えながら必要な作業終え、いざ田植えの日になれば田植え機が登場。手で植えるのは、ほんの少しの植え直しで済む。他にも草刈り機だって使うし、最近はドローンで除草剤を散布することも覚えた。そして日々の管理を丁寧に行い、秋にはコンバインで黄金の稲穂を刈り取っていく。稲架掛けはしないのかって? コンバインと乾燥機のおかげで、もうすっかりしなくなった。
それらの全てを手作業でやるのなんて、小学生の稲作体験に田んぼを貸すときくらいのものだ。機械がない時代はこれほどの苦労があったのか。たった一枚、しかも一番狭い田んぼだというのに、凄まじい疲労が襲ってくる。二十人ばかりの小学生を相手にしている、というせいもあるかもしれないが。……自分も随分と鈍ったな。高校の頃は、もっと獰猛で厄介な連中の手綱を握っていたはずなのに。
まあ、こんなことを考えたところで誰に話すわけでもない。この手の話はとにかくウケが悪いのだ。酔っぱらった調子で取引先たるおにぎり宮の店主に滔々と語ったことがあるが、口をぽかんと開けたまま「はあ」としか返されなかった。
トラクターとかドローンとか、かっこええと思うんやけどな。
そんな個人的な感想はさておき、農業においても技術革新は常に進んでいるのは事実。その進化に遅れてしまわぬよう、最新の技術を学ぶ必要性は言うまでもない。
頭の中に叩き込んだ説明会要項を思い浮かべながら、地下鉄の階段を上っていく。
普段は地元の農協や農耕具メーカーが主催してくれる説明会に参加することが多いのだが、今年は少し趣向を変えることにしたのだ。
会場は、大阪。トラクター等の特殊車両の展示とあわせて、主に水稲についての研究発表も聞けるという。たまにはこういう場に行くのも悪くないだろう。それこそ、最先端の知識なんて、大学の頃で止まっている。更新するには丁度いい。
地下鉄の乗り換えは、おそらく地下道を通っていけばどうにかたどり着けるのだろう。しかし、こちとら都会の道には慣れていない。もとい、すっかり疎くなってしまった。改札がいくつもあるだとか、改札を間違えると目的の出口に行けなくなるだとか、厄介極まりない。もっとシンプルに構えてくれたらいいものを。
……田舎者の発想だな。あの田畑が広がる土地に移り住んでもう五年、いや六年になろうか。随分と、街を歩くのが苦手になってしまった。
とりあえずと地上に出れば、春の香りがする風が吹いていた。桜が咲くのはもうじきだろう。いよいよ俺の仕事も忙しくなる。種籾の発注をしつつ、他の苗も育てなければ。そういえば、去年は種籾がかなり余ってしまったな。今年は少し量を減らしてみよう。けれど、調子に乗って減らすと、今度は足りなくなるのだから難しい。
農業を始めてたった五、六年。こんなの、素人同然だ。先人の知恵を借りつつも、もっと、勉強しなくては。それこそ、こういう、勉強会を活用して。
辺りを見渡しながら、スマホで地図を呼び出す。行きたい駅の方向はどっちだ。くるくると道路の端で体の向きを変えてみるが、どちらを向いているのか、いつまでたってもよくわからない。なあ矢印、お前はどこを向いている。俺の思うほうを向いていないだろ、絶対。こうなると、通りの名前と建物の名称で判別したほうが早いな。
一つ息を吐いたところで、位置情報の機能をオフにした。画面に映る地図を改めて見下ろして、駅までの経路を確かめる。すぐそこの横断歩道を渡って、真っ直ぐ。二本目をギュッと曲がれば目的の駅が見えてくる、らしい。たぶん。大丈夫、自分は方向音痴ではない。地図も読める。GPSにたぶらかされない限りは、なにも問題はない。よし。
どうせ時間は十分すぎるくらいに余裕がある。もしかすると、まだ会場が開いていないかもしれない、というほど。その時は、適当なところで待っていればいい。なんせ大阪は都会なんだから。いくらでも時間は潰せる。……といいつつ、黙々と植えようと思っている種を検索して過ごしてしまいそうだが。これも一種のワーカホリックなのだろうか。一次産業の従事者にも、この言葉をあてはめて良いのかは少々疑問。それに、冬の間は、のんびりしていたから、どうもピンとこない。
脳内に地図を記憶したところで、きちんと舗装された歩道を踏みしめた。どこに足をついても平ら。うちの田んぼの周りも、舗装し直さないと。何十年と前に舗装した道には、ところどころヒビや穴があいている。軽トラで通る度に、必ずガタンと揺れる場所があるのだ。躱そうとハンドルを切っても、必ず嵌る穴。少なくとも、あれはどうにかしたい。……と、思って早三年。畑が始まれば、道路なんて気にしていられなくなる。きっと、もう三年はそのままにすることだろう。
(お、)
ぐるぐると考え事をしているうちに、横断歩道の信号は赤から青に切り替わる。地元では珍しい、音が鳴る交差点だ。これだけ広かったら、音も鳴らすか。何より、青の時間も赤の時間もやたらと長い。
ああ、都会だ。何度だって言おう。ここは、間違いなく、都会だ。
黒と白が交互に塗られた車道のほうに向かって、歩道をとことこと進んでいく。周囲と同じペースを心がけると、つい早足になってしまった。歩くのも数年前に比べて下手になったものだ。地元でいくらしゃんとしていると言われようとも、田舎生活の習性がすっかり染み付いてしまっている。
高校生もいる。サラリーマンもいる。OLもいて、大学生と思しき恰好の人もいる。まさに様々な人が道路を渡っていた。自分もそれを構成する一人。一体自分はどういう風に見られているのだろう。とりあえず、作業服は避けたが、上に着ているのはヤッケ。土汚れがついていないのを選んできたから、悪目立ちはしていない、はず。
ほう、と息を吐けば、足の裏の感触が変わった。横断歩道に差し掛かる。
白と黒を進み始めてちょうど三歩。なんとなく、周囲の人々の歩く速度が上がったように思えた。おそらく、気のせいなどでは、ない。横断歩道を歩いているうちはもう少しペースを上げなければ。
けれど、いつまでもこの速度で歩くのも癪だ。歩道までついたら、いくらかペースを落とそう。一日中都会の調子に合わせていては、今日の集中が持つ気がしない。
斜め下方を向いていた視線を、ふと、持ち上げた。
――視界の端を、見覚えのある姿が掠める。
あれ、金髪やない。稲穂の、色や、ない。そりゃそうだ、去年だったか、一昨年だったか、ついに黒に染め直していたのだから。
そんな物思いに後ろ髪を引かれつつ、ほとんど無意識に振り返った。振り返ろうと、した。
「っ!」
肩越しに振り返る寸前、ばしんと手首を掴まれる。おかげで、振り返る前にびくんと肩を上下させてしまった。なんだ。どうした。何が起きた。ぽぽぽんと疑問が浮かぶ。それと同時に、ようやく肩越しに、背後を、手首を掴んでいると思しき男を振り返ることができた。
振り返らなければ良かった、と、思ったのは、ここだけの話。
「あ、……つむ?」
どうしてお前がここにいる。その質問を声にすることはできず、はくんと空気を食べて終わった。
「っ」
おそらく、向こうもそんな疑問を浮かべたのだろう。ひゅっと息を呑む音を立ててから、喉仏を上下させている。
ああ、そういえば、こいつは大阪が本拠地のチームでプレーしているんだった。であれば、こいつが大阪にいたって不思議じゃない。
だが、まさかこんなところで出会うと、誰が予想した。いくら大阪の面積が小さいとはいえ、人口はとんでもない。待ち合わせもしていないのにすれ違う確率とは、一体どれほどのものだろう。
ざり、とそいつの指は俺の手を擦った。バレー選手ということもあって、その指は骨ばっていて、自分のよりずっと太い。けれど、テーピングをしているわけではなく、さりさりと手の甲を擦られる感触は、確かに皮膚によるものだった。
ざわりと、背中が、震える。
それに気付いたのか、そいつは吐息だけで笑った。ふ、と、一つ分の息が吐き出される。一つだ。二つじゃない。フッフ、とよく笑っていたのに。
(大人に、なった、なあ)
と、鼓膜に信号の点滅する音が飛び込んでくる。一瞬にして我に返った。返らされた、ともいう。
しかし、そいつは俺の手首を掴んだまま。動く気配がない。なぜ? もう、信号が。まだ点滅を続けているとはいえ、そう長くはないはず。ああほら、赤になる、なってしまった。
仕方あるまい。そいつにしっかりと手を掴まれたまま、急ぎ足で三歩引き返した。足の裏には再び歩道の感触が戻ってくる。
これで轢かれる心配はない。が、この掴まれた手首をどうにかする手段を考えねばならない。そもそもこいつは本当に侑か? そっと顔を盗み見ると、確かにあの顔をしていた。ほんのりとウェーブのかかった髪。髪色こそ金から黒になっているものの、見覚えがあるのは間違いない。
侑、なのか。いや、治? 違う、俺がこいつらを見間違えるはずがない。目の前にいるのは、俺の手首を掴んでいるのは、まさしく宮侑だ。
それでも、信じられないのは、こんな大都会のど真ん中で遭遇してしまったからだろう。まるで夢心地。ついさっきまで、家業のことで頭がいっぱいだったのに、突然現れるだなんて。頭がついていかない。
あつむ? もう一度、確かめるべく名前を呼ぼうとした。
しかし、それよりも早く、腕を引かれる。農業に精を出し始めて体幹は強くなったと思っていたが、混乱のせいで、いとも簡単に体はそいつのほうへと傾いていく。
侑にしか見えない男の胸の中に、吸い込まれて、いく。
ぱく、り、と。
唇を、塞がれた。
「っ、」
触れていたのはほんの一瞬。にもかかわらず、顔に血が上ってきた。いや、こんな、公衆の面前で口付けられたのだ。赤面せずにいられるわけがない。
待て、その前に、だ。どうして口付けられた。なぜ、こいつは俺にキスをした。すぐに離れていった顔は、俺に縋りついてきたときを思わせる情けのない顔をしている。
その、顔を、やめろ。また、絆されそうになるだろうが。
折角、折角、関係を経ってからの五年としばらくで、こいつへの想いをゆっくり薄めさせていたところなのに。
せめて、苦言の一つでも発することができればいいのだが、カラカラと乾くばかりで喉には何一つ言葉が降ってこない。脳みそは、舌に乗せる言葉を探すことすら、してくれない。
どうしよう。
まったく使えない五文字が浮かんだところで、そっと頬に指を添えられた。その指先は、この季節にしては温かい。血が、しっかりと巡っている。自分のように、乾いているふうでもない。
バレーボール選手の、セッターの、……愛した指だ。
「あんな、北さん、おねがいがあるんです」
幼児が食べるようなチョコレートを思わせる、甘ったるい声が響いた。その声で、さらに目の前にいる男が「宮侑」だと自覚させられる。
よりにもよって、そんな甘い声を出すなんて。時間の経過と共に薄れていた記憶がとろとろと蘇ってくる。記憶の引き出しに鍵なんてない。どんなに忘れたと思っていても、人間の脳みそは優れた力を持っているのだ。きっかけさえあれば、ふわりと思い出は蘇る。
その、甘い声が真っ先に呼び起こしたのは、――あの夜のこと。最期にこの男の部屋で過ごした出来事だ。
「もういちど、」
あかん。それ以上こいつに喋らせたらあかん。
脳内でガンガンと警鐘が鳴り響くものの、纏わりつく甘い思い出のせいで、なかなか危機感が表に出てこない。一刻も早く、こいつの腕を振り払って逃げなくては。
逃げる?
どこに。俺が行こうとしている駅はこの横断歩道の先。ここまで来て引き返せというのか。それとも、地下道を通って、どうにかこうにか目的の駅まで走るか。
……どちらにせよ、こいつから逃げることは、きっとできない。なんせ地の利は向こうにある。身体能力だって、現役のスポーツ選手に敵うわけがない。
逃げることなど、できないのだ。
そいつの唇が、ゆっくりと動いていく。なぜか世界はスローモーション。あわせて、こいつとの記憶がぐるぐると脳内を駆け巡るときた。これが俗にいう走馬灯というやつか。死に際ではなくても見られるだなんて、知らなかった。
「やりなおしてみませんか」
囁かれた言葉はやたらと省略されている。しかし、こいつが何を言わんとしているか、一瞬でわかってしまう自分が憎い。
もう一度、やり直してみませんか。
『俺と』もう一度、『恋人として』やり直してみませんか。
勝手に頭の中で付け足した言葉は、間違ってはいないだろう。むしろ、こいつの情けのない顔を見ていると正解としか思えない。
もう一度、やり直す、だと。
ほんの数秒だというのに、情報量が多すぎる。俺はただ、農業をもっと深く勉強するために大阪にやってきただけなのに。
――こんなにも、未練が深く根付いていたと、思い知らされるとは。
固まったまま顔を真っ赤に染めている俺を、そいつはどう捉えたのだろう。気付くと両手は解放されていた。だが、俺の足はぴくりとも動かない。そいつの両手に、ふわりと頬を包まれるのを待つことしか、できなかった。
そのまま顔を上に傾けられるのかと思えば、くんっとそいつの腰が折れ曲がった。腰だけじゃない。膝も曲げたのかもしれない。たちまちにして身長差が逆転する。下方から、じ、とそいつに見つめられる。
そうして、掬いあげるように、唇を、奪われた。
触れるだけのキス。それでも、そいつの香りは強く漂ってくる。髪から香るシャンプーはもう自分の知っているものではなくなっていた。ジャージに使われている洗剤や柔軟剤も、かつてのものとは違う。まるで知らない、匂い。
なのに、その中身はよく知った、刷り込まされた侑の匂い。ほんのりと汗ばんでいるせいもあるのかもしれない。知らないものと知っているものが入り混じって、思考がふわふわと宙に浮きだす。
「あれって、バレーボールの……」
突如、意識は現実に引き戻された。信号のときもそうだったが、こいつに惑わされようとも、外界の音を認識できるだけの理性は保っていられているらしい。
ど、と目の前の男の胸を押す。目一杯の力を込めることはできなかったが、ちゃんとそいつは離れてくれた。
ど、ど、と心臓が逸り出す。甘ったるい記憶に流されていたが、こいつはもはや日本代表のバレーボール選手。この見目なら、目立ったって何もおかしくはない。
見られた。男同士でキスしているところを、見られてしまった。その事実がどくどくと拍動を加速させていく。は、は、と息まで上がってきた。
やめてまえ。と言いそうになった次は、同性愛の枷をかけてしまう? そりゃあ、同性愛に対する偏見はだいぶ和らいできたけれど、一部の層に根強く残っているのは確か。……落ち着け、見られたのはほんの僅かな人数だけだ、今、この場で誤魔化して逃げてしまえば、こいつに害はない、はず。パパラッチにあっていたら別だけれど、でも、でも。ああ、くそ、頭に酸素が回らない。
ぎゅ、と、自分の両肩を抱きしめた。
「北さん?」
「ぅ」
「……こっち」
「え?」
穏やかな声に上げると、再び手首を掴まれていた。それとほぼ同時に、侑は足を進めだす。どこに向かおうとしているのか、土地勘のない自分にはさっぱりわからない。もう、そいつにされるがまま。
どこ行くん、くらい、尋ねれば良いものを、混乱しっぱなしの頭は質問の一切を発しない。ただ、侑について行くことしかできなかった。
転びそうになれば、しれっと腰を支えられる。きちんと立てるようになったところで、ふわりと微笑まれて、手を引かれる。また躓いては、その繰り返し。いつの間にか、指を絡み合わせるような繋ぎ方までされていた。
おかしい、こいつはこんなにも紳士的な男だったか? もっと、粗雑で、礼節を欠いていて、注意されてやっと僅かばかりに改心する性質の奴だったのに。
変わった、のか?
そりゃあそうだ。こいつと別れて、もう何年経ったと思っている。もう一度やり直したいなんて馬鹿なコトを抜かしたとはいえ、それだけの期間があれば彼女の一人や二人、できたことだろう。……自分だって、女性との交際はしたのだし。結局、上手くいかずに、今は独り身なのだが。
人を躱しながらも歩く背中は、嘗てよりずっとたくましい。自分だって、農家の男と言えるだろう体付きにはなったものの、筋肉の付き方がまるで違う。
目の前にいる男は、本当に俺の知っている男なのだろうか。ふと、一抹の不安が走った。香ってきたそいつ自身の匂いこそ同じとはいえ、体格も、態度も、記憶の中のソレとはあまりにも違い過ぎる。
おそらく「宮侑」だろう。その思考に従って、俺はとろとろと慣れない道を歩いている。歩かされている。
でも、俺の愛した「宮侑」ではなくなっていたら? 過ったそれに、ゾッと冷や汗が走る。まさか、ほんの五年としばらくで人格が変わるものか。治に聞いていたコイツは、かつてとそう変わらないようだったし。よう、だった、し。
頼むから、本当に頼むから、俺の愛したあいつであってくれ。だったら、もうどこに連れていかれても諦めよう。どうせ未練を断ち切れずにいたのだ。もうどうにでもなってしまえ。
でも、……もし、あの男から、変わり果てていたら。もう、愛せない存在になってしまっていたとしたら。この未練は、どうしたらいい。墓場まで連れていく? それとも、思い知らされることで、未練を断ち切れることができる?
イレギュラーばかりで、どうしたらいいかわからない。いっそのこと、勉強会なんて参加しなければ良かった。後悔、先に立たずとはこのことだ。
いつもどおりの時間に起きて、顔を洗う。新聞を読んで、朝飯を食って、歯を磨いた頃にケンケンと外から鳴き声が聞こえてくる。昔、ばあちゃんが拾ってきた猫だか犬だかよくわからない動物だ。俺が引き取るときに去勢をしようと動物病院に連れて行ったら、まさかの狐と判明した。だが、まあ、鼠を追い払ってくれるからそのまま飼い続けている。冬の寒い時期は、家の中に入れていたのだが、夜中おもむろに枕元へ蛇やら鼠やらの獲物を見せに来られて頭を悩ませたものだ。さておき、その狐・マルの散歩がてら畑を見て回って、ご近所さんに挨拶をして帰宅する。……そんな、いつもどおりの生活をしていたら。
思ったところで、どうにもならない。手を引かれるままに、俺は侑の後ろをついて行った。
◇◆◇◆
辿り着いたのは、口を半開きにして見上げてしまうほどの高層マンションだった。真っ先に、いくらするのだろうと考えてしまったのは、金勘定にシビアな生活をしているせいということにしたい。
指は相変わらず絡んでいる。慣れた調子で、侑はエントランスを通り抜けた。受付と思しきカウンターにはとても見栄えの良いスーツの男が立っている。管理人、と呼んで良いのだろうか。それにしては、ホテルマンじみている。おそらくカタカナ語で相応しい呼び名があるのだろう。
その男を一瞥すると、迷いなく侑はタッチパネルを操作し、エレベーターへと乗り込んでしまった。当然、手を繋がれているのだから、俺も同じようにエレベーターへ引き込まれる。引きずり込まれた、と、表すのが正しいかもしれない。
「わ、」
「北さん」
「っ」
ぐんっと、一際強く腕を引かれた途端、ソイツの胸の中に閉じ込められていたのだから。
「あ、ほ、誰かに見られたら」
「構いません」
「俺は」
「構ったとしても知らん」
知らんやと。カチンとくるものも、あるが、エレベーターの扉がまだ開いているせいで、とにかく気が気じゃない。別の住人が乗り込んでくるのではないか。先ほどの、管理人と思しき男が様子を伺いにやって来るのではないか。
口付けをされたときのように、胸を突き飛ばしてしまおうか。高層、かつ高級そうなマンションのエレベーターは奥行きもある。突き飛ばして、距離を取って、そして、……そして?
思い出せ、自分は農業の勉強をしに来たんだ。この男との逢瀬のために、ここまで来たんじゃない。それどころか、この男とは、とっくの昔に破局しているじゃないか。こいつに何を言われたって、自分が辛くて仕方がない。だから、別れてくれ。そう言って、離別したんじゃないか。
にもかかわらず、ここまで連れられてきてしまったのは。抱きしめられたまま、エレベーターの扉が閉まっていくのをただ待つことしかできないのは。その男の肩口に、額を乗せてしまうのは。
体の芯にまで染み込んでしまった、こいつへの愛おしさのせい。
歩かされていたときとは比べ物にならない速度で心臓が早鐘を打つ。ドッドッ、なんて促音は挟まない。工事現場の騒音を思わせるほどの心拍数。今、血圧を測ったら、とんでもない数値が出るに違いない。
鼓動が高鳴るのに合わせて、身体も火照ってくる。頭のてっぺんから足の先まで、すみずみに熱された血液が行き渡る。その上で、呼吸をすれば、いっぱいにそいつの匂いがするのだ。早歩きをしたせいで、先ほどよりも汗の匂いが強くなっている。何年も前に、覚えた、侑の、匂い。
「俺、何されるん」
「ここまで来てそれ聞きます?」
「……俺は、お前の提案に乗るとも乗らんとも言うてへん」
「わざわざ言葉にする必要ないでしょ」
「は?」
「顔に、書いてありました」
こいつは何を言っている。赤面こそすれど、やり直したいともやり直したくないとも浮かべた覚えはない。あのとき考えていたのは、まだ、こんなにも宮侑という男に未練があったのかという悔いがほとんど。
まさか、紅潮した頬を了承と捉えたのか。いくらなんでも、手が早すぎる。……いや、こいつはそういう男だ。「そう」と思えば、すぐに走り出す。決めつけて、標的目掛けて全力疾走。
そういうところは、昔と、変わらないのか。
「――俺のこと、まだ、好き、て」
「っ、」
ぶるりと体が震える。妙な声が出そうになった。耳元で、俺だけのために紡がれた言葉が、じんっと脊椎を駆け下りていった。痺れを伴ったソレは、尾てい骨を過ぎて足にまで達する。腰が抜けそう。膝が折れそう。エレベーターが上昇する浮遊感も後押しして、いっそう足元が覚束なくなってきた。
「あほ」
「なんで」
「好きやから、別れさせろて、言うたやん」
「……うん、」
ぽそぽそと話しかけながら、恐る恐る侑の背中に腕を回した。そっとジャージの布に指を引っかける。これ以上は、力を煎れたくない。そうしたら、二度と離れられなくなってしまいそうだから。
好き。そう顔に書いてあった。……そんなの、否定できるわけがない。好きか嫌いかなんて問いすら愚問。好きに決まっている。
別れてからも、ずっと侑の動向は探ってきた。関連する雑誌は必ず買ったし、有料チャンネルに登録して、しょっちゅう試合は見ていた。それどころか、こいつの普段の様子を知れるらしいというだけで、SNSにまで手を出した始末。
どうしようもなく、好きなのだ。一ファンとしても、先輩としても、そうじゃない目線、でも。
第一、別れてから故意的に避けていたのはお前のほうじゃないか。治の店でも会えないし、高校のOB会にも顔を出さないし。それが突然、しかも偶然出会った瞬間に口付けて拉致をするとはどういう了見だ。
「けど、俺、考えたんです」
湧き出る不満が囁く声で堰き止められたところで、エレベーターは到着のベルを鳴らす。随分の長い間乗っていたような気もするし、あっという間だった気もする。一体、ここは何階なのだろう。つか、どこやねん。
「ッぅわ!」
「ん、ぐ」
「ちょ、は? 侑おまえ、なにして」
「じ、っと、しててくだッ、さ、い!」
他人行儀な思考が脳裏を掠めた瞬間、震えていた足腰が崩れた。というか、宙に、浮いた。なぜ? 考えるまでもない。侑が、俺のことを抱きかかえたからだ。
俵抱き、とまではいかないが、俺の胸は侑の左肩にもたれ掛かっている。そいつの腕は、俺の両の太ももと腰の辺りをしっかりと抱えていた。
その姿勢のまま、よたよたと、なんとも頼りなさげに廊下を進んでいく。ホテルを思わせる汚れ一つない床を、一歩、一歩と。
「重いやろ!?」
「ぜんっ、ぜん!」
「あほなこと言いな、体ガクガクしとるやん」
「あぁああちょっと黙っといてもらえます!?」
徐々にコツを掴んできたのか、足取りはしっかりとしたものに変わっていく。きゅ、きゅ、とスニーカーが床を踏みしめる音も一定の速度になっていた。
それにしたって、重くないわけがない。いくら一九〇センチ近い身長をしているとはいえ、成人男性一人を軽々持ち上げられるパワーがあるとは思えない。変に体を痛めたらどうするのだ。
俺は歩けるから下ろせ。主張して見るものの、侑は腕を力ませたままひたすらに廊下を進んでいく。この調子だと角まで行くのではないだろうか。となると、あとほんの数メートル。暴れるより、大人しくしているほうが、マシ、か?
「っはあ、」
「……お、つかれさん」
「ッス」
予想通り、角部屋の扉に辿り着いたところで体を下ろされた。けれど、腰に腕は回ったまま。もう一方の腕は、タタタンと素早くタッチパネルを操作していた。たちまち錠の外れる音がする。
表札はないが、ここが現在の侑宅と思って、間違いないだろう。
そう思った途端、肩に緊張が圧し掛かる。逃げられない。最初から、逃げるのは難しかろうと思っていたが、ここまで来てしまった以上、本当に、逃げることはできない。
毎日、毎日、少しずつ薄れさせていった記憶が、さらに呼び起こされてしまう。あるいは、新たなものに塗りつぶされる? どちらにせよ、悪手だ。
俺はもう、こいつの「活躍」さえ見られればいいのだから。一から二十だとか、AからZだとか、人が考えもしないことに立ち向かっては苦しむ様を、近くで見ていたくは、ない。
「で。続きなんすけど」
「え、おう」
「考えたんです、俺。特にここ二、三日。練習はありましたけど、束の間のオフっつーか、緩めだった、てのもあって」
「はあ……」
侑の手がドアノブにかかる。やけに背の高い玄関扉は、悲鳴を上げることなく静かに開いた。真っ先に目に入る玄関には、靴が数足。大きさからして、すべて侑のものだろう。どれも、ちゃんと揃えて置いてあった。
「俺は、あんたが欲しい」
「んなっ、」
あまりにもストレートな物言いに、バッと侑を見上げてしまう。身長差はおおよそ二十センチ。体の厚みだって、増している。たくましくなった分、自信もついたと。俺に、情けない顔を向けることなく、宣戦布告できるようになった、と? 遭遇した瞬間は、捨てられた犬みたいな顔をしたくせに。
まあ、それはそれ、これはこれ。侑が立派になろうとも、情けない面を残していたとしても、俺の性分は変わらない。考え方は、別れた頃とほぼ同じ。欲しいと言われて、「はい、どうぞ」とこの身を差し出すことはできない。
過程が重要。結果は付属物。でも、お前に関して言えば、結果さえ知れたら、充分になってしまったのだ。
「だから、やりなおそう、て? けど俺は、お前に」
「ええよ、「やめてまえ」て言うても」
「……ンなこと言うたら、お前キレるやろ」
「かもしれません。でもまあ、あんたに「やめろ」て言われても、どうせ俺は立ち止まれへんし」
全く以てその通り。だから、別れたかったし、別れたのだ。それを理解したからこそ、あの日、俺の願いを受け止めてくれたのではないのか。
つい、顔を顰めてしまう。すると、読んでいたかのように、侑の指先がとすんと俺の眉間をついた。にんまりと、悪い笑みのおまけつきで。
「だから、ね」
侑は先に一歩、踏み出した。開け放った玄関の向こうに、分厚い体が移動する。
ワンテンポ遅れて、抱かれている腰が引かれた。一抹の強引さを携えて、敷居を、跨がされる。侑のテリトリーに、引き入れられる。
完全に取り込まれたところで、そいつは振り返った。タイミングよく、玄関扉は閉まる。空いていたそいつの手は、カチンと鍵をかけた。抜かりなく、チェーンまでかけている。
相変わらずの悪い笑みに、一抹の切なさを交えた顔で。
「一緒に、血反吐、吐きましょ」
俺の返事は、最初から聞く気はなかったのだろう。なんせ、俺が反論しようとした瞬間に、唇を重ねてきたのだから。
厚みのあるそれが、対照的に薄い俺の唇を貪ってくる。吸うように、齧るように、食べるように。
春先の乾いた表面が唾液で濡れたところで、今度はずるりと舌が入り込んできた。歯を食いしばって、抵抗することもできたろう。しかし、どうもそれをする気になれないのは、色気づいたそいつに流されているせい。そういうことに、しておきたい。
「ん、んぅっ」
「ン~、ふ、ぢゅ」
角度を変えながら、ソイツはひたすらに口内を貪ってくる。路上でされた、触れるだけのそれとはまるで色が異なっている口付け。ぢゅるぢゅると吸われたり、擦られたり、その最中に腰を擽られると、どうしようもない悦楽が脳天を抜けていく。
「ぁ、っはぁ」
「……感度、良すぎません?」
上顎を擦られながら、ぬっぷりと舌を引き抜かれる。そこが弱いと覚えていたのか、偶然であるのか。かくかくと限界を訴えだす膝を見下ろした侑は、唇に乗った唾液を艶やかに舐めとりつつ、俺のベルトに手を掛けた。
「っ待て」
「なんで」
「なんでもクソもあるか、もう俺ら恋人ちゃう、」
「から、やり直しましょ~て言うたやないですか」
「それに対して俺がいつ「はい、そうしましょ」て言った」
「俺ンこと、ずぅっと好きなんやろ、なら一緒に地獄に落ちるくらいしてください」
「……地獄に落ちるような後輩、自慢したないわ」
俺が自慢したいと思うのは、「すごいやろ」て思う連中のこと。地獄なんてところに引きずり込もうと鬼畜に堕ちた後輩じゃない。
侑との距離を少しでも取るべく、胸板を両手でぐっと押した。すると、柔らかな筋肉の感触がする。三刀流と呼ばれるビッグサーバーは、こんな胸筋をしているのか。自分の知っているものと、まるで違う。肩こりとも、無縁そう。
いやいや、体付きの変化に感心している場合じゃない。内心でぶるぶると首を振って、侑の体を改めてぐっと押した。
「北さん」
「甘えても、あかんもんはあかん」
「きたさぁあん」
「同じこと言わす気か」
けれど、そう簡単に侑が動く気配はない。多少、隙間を作った程度で、足は一ミリたりとも動いてなかった。ずず、と押せるくらいの力、自分にだってあると思ったのに。農作物と人間を同じ量りで考えるほうがおかしいのか。
なおも甘えた声で俺を呼ぶそいつに、こっそりと舌を打った。この距離じゃ、「こっそり」なんて意味はなく、しっかりと侑の耳にも届いたろうが。
甘やかして、堪るものか。自分はもう、こいつを甘やかす立場の人間じゃない。他人だ、他人。せいぜい、高校の先輩と後輩。それから、元・恋人。元・恋人を理由に、甘やかすのなんて、もってのほか。
深く息を吐きだして、騒ぐ鼓動を落ち着かせた。うっかり声が上ずってしまわぬよう、下腹に力を入れる。
「お前、今日も練習あるんちゃうん……」
「もちろんありますよ」
「なら、行けや」
というか、さっき外を歩いていたのも、練習に向かうところだったのではないか。それを急旋回して、家に戻るなんて。遅刻したらどうする。企業のサラリーマンではなく、プロとしてやっているのだろう。そんな意識で良いのか。
目を見張って侑に念を送っていれば、ようやく悪い顔に苦みが差し込んだ。
「午前は自主トレなんで、ゆっくりで大丈夫なんです。ファイナルの疲れも残っとるし、あんま負荷はかけんなて言われてます」
「……つまり、午後はフツーに練習があると」
「反省会が主ですけどね」
「それはそうと、もうちょい離れてほしいんやけど」
「なんつーか、北さんやと思ったら、つい」
「……連絡も寄越さんかった奴がよく言う」
「連絡なんて! サム越しに様子聞くのがせいぜいですって。フラれたの、俺なんやし」
「その割に、今日は強引やな」
「まあ、ちょっと。……思うところがありまして」
真っ向からじぃっと見つめていると、侑の口調は徐々に煮え切らないものになっていく。そのうちに、ふよふよと視線が泳ぎ出した。嘘を言っているわけじゃない。言おうとしているわけでもない。ただ、俺の目の圧に負けただけ。
この調子なら、上手いこと抜け出せるのではないか。都合の良いことに、俺の背中は玄関に張り付いている。手を伸ばせば鍵やチェーンを外すことも容易い。後は体重をかけて出ていけば良い。しいて問題をあげるとすれば、エレベーターで降りるのに、下降ボタンを押すだけで済めば良い、というくらい。
侑の気を逸らすべく、そっと息を吸い込んだ。
「……俺も用事あんねん」
「あ、だから大阪に。なんかあるんすか?」
「農業機械の展示会」
「なんそれ」
「……トラクターとか、田植え機とか、その手の機械の大規模な展示会があんねん。ついでに、説明会とかあって勉強もできるし、あとうちの田植え機、そろそろ寿命やし」
「買いに?」
「下見に」
さすがに、ぽんと即決できる値段ではない。様子を見て、性能を確かめて、今期の勘定と相談してからでないと。
とにかく俺はそれに行きたい。ちらりと盗み見た腕時計は、展示会開始の一時間前を指していた。時間に余裕があるにはある。とはいえ、ソレをこいつに知られたら、何をされることやら。
とにもかくにも、ココから逃げなくては。できれば、侑の納得させた上で出られればベスト。俺には用事がある。お前も練習がある。お互い出かけなければならないのは、確かだ。
早く諦めて、外に行かせろ。
そんな念を込めて、キッと侑を見やった。
「うぅ~」
「おい、もたれかかんな」
「だぁってえ」
「だってもくそもないわ。お前今いくつやねん。もうすぐ三十路やろ。ぐだぐだ甘ったれんな」
「北さんやって、三十路のくせにチュー一つで真っ赤な顔したやんかあ」
「不意打ちに驚いただけや」
「うぅぅう」
「だから、」
ごそごそと侑の腕は俺の体に絡みついてくる。大きな背中を丸めるようにして、俺の肩口に額を擦りつけてきた。そんなことをしたら、セットした前髪がぐちゃぐちゃになってしまうのでは。ちらりと思うが、本人は気にする様子もなく、うりうりと首筋にすり寄ってくる。
約一九〇センチの巨体に縋られる構図、とは。
ファンが見たら卒倒するのではないだろうか。あのブラックジャッカルの宮侑が、誰かにひしっと抱き着いてむにゃむにゃと駄々を捏ねているなんて。残念なアイドル枠にいたときならまだしも、お前はもう頼りになるベテランセッターだろう?
ぐりぐりと擦り寄ってくる動作は、いつまで経っても収まらない。このままじゃ、延々とされそうだ。無理やり引き剥がしてしまおうか。
だが、こういうときのこいつはしつこい。イヤイヤと余計にきつく抱きしめられる可能性がある。じゃあ逆に頭でも撫でてやるか? 背中をとんとんと叩いてあやしてやるか? どちらも甘やかすようで癪でしかないが、他に良い方法も思いつかない。
聞こえるように、大げさなため息を吐いた。それから、静かに、巨体に腕を回す。右手は後頭部に。左手は背中に。やんわりと背中をさすってやりながら、ぽん、と頭を撫でた。
「くそ」
「北さぁあん」
「せやから、甘ったれた声出すな言うとるやろ」
「とか言うて、甘やかしてくれんのほんま好き」
「妥協や。無理に引っぺがすより、お前が満足するの手伝ったほうが、早う解放してもらえそうやからな」
「……そういうつれないとこも、やっぱ、好きです」
ぽふぽふと手が埋まる髪は、猫ッ毛のように柔らかい。学生の頃、もとい、付き合っていた頃はもう少し硬かったような気がするのだが、脱色を繰り返したせいで細くなったのだろうか。それで黒に戻した? 頭皮を気にして? だったら、少しは可愛いかもしれない。
パーマのかかった髪を撫でつけつつ、広い背中をゆっくりと擦る。手の平越しに、侑の体温が伝ってきた。ちゃんと触れて確かめれば、こいつのほうが体温が高い。ぴたりとくっついた胸からは、トトトトと逸る脈が聞こえた。慌てていたのは、自分だけではない。こいつも、そう。
そりゃそうか、未練だらけの元・恋人に遭遇したら、焦ったっておかしくはない。
「あの、」
そうしているうちに、じわじわとこちらも熱くなってきた。侑の体温が移ったのかもしれない。ぽつりと話しかけられた吐息で、それを自覚させられる。
体温が溶け合って、混じり合っていく感触。……疚しい方向に傾きかける天秤を強引に平行に戻した。
「笑わんといてくださいね」
さらに侑はぽそぽそと続ける。玄関というせいもあるのか、俺にひしっと抱き着いている状況だからか、やたらと声が小さい。正直、くすぐったいくらい。身じろぎをしたいところだが、そうして悪戯を思いつかれるのも困る。ふ、ふ、と耳を擽る吐息に耐えながら、続きの言葉を待った。
「夢、見たんです」
「夢?」
「北さんの、夢。北さんが、俺ン家にいる、夢。昔はよお見ましたけど、ここ何日か久々に見て」
「……なんで、いまさら」
「わかりません、でも、そんで、無性に、恋しくなってもて」
ふと、侑の額を擦りつける動きが止まった。あわせて、頭を撫でる動作も止める。しかし、指先は柔らかな髪に絡んだまま。わずかに汗ばんだ頭に、触れたままだ。
その手を、無理に退かすわけでもなく、侑は顔を上げた。
「そしたら、北さんが、前から歩いてきはるから」
茶っ気の強い瞳が、俺を射抜く。半目のようで、存在感のある目。瞳孔は開き気味。まるで肉食動物。狐の目? いや、これはもっと大型の、それこそジャッカルを思わせる、目。
あかん、食われる。
「欲しいな、って」
「俺、物ちゃうねんけど」
「わかってますよそんなん、でも、欲しい」
咄嗟の恐怖を押し殺して、侑へ言葉を返していく。欲しい、欲しいと繰り返されようとも、受け入れて堪るかと抵抗を示した。それでも、降ってくる、「欲しい」。
「北さんが、欲しい」
埒が明かない。付き合っていた頃は、結局こっちが折れて、侑の好きなようにさせてしまっていたっけ。甘やかすな、と何度周囲に怒られたことか。それでも、愛おしさが勝ってしまって、甘やかしてしまうのだ。
頭も撫でるし、背中も擦る。お腹空いたと駄々を捏ねるのを予想して、軽食を作っておいたり、そろそろストレスが溜まってくる頃やなと思って、ナニの下準備をしてみたり。思い返せば返すほど、こいつのために過ごしていたなと思い知らされる。
そうやって、丁寧に繰り返しこいつと戯れていられれば、充分だった。満たされると思っていた。
実際は、愛が募るほど、侑の苦悩が如実に見えて来て、同調するように苦しくなってしまったのだが。
もっと、自分が機械的であったなら、別れるなんてこと、せずに済んだのだろうか。だが、自分だって、一介の人間だ。嬉しいことがあれば声を出して笑うし、ぼろぼろと涙が落ちてくることもある。侑の感情に、心を掻き乱されるのも、ある意味当然だ。
「あかんねんもう、どうしたらあんたが苦しまんでくれんのかなとか、やっぱ成績残すしかないかなとか、でも、東京じゃメダルとれへんかったし、ネーションズは良いとこいっても、世バレはあかんかったし、ワールドカップはどこもメンバー揃ってへんから参考にならんし、そしたら、パリで、」
とろとろと拙かったはずの言葉が、加速していく。こいつと、別れてからの主な大会の結果だ。聞かされなくても、知っている。だって、追っていたから。会場に足を運ぶことこそできなかったものの、テレビや、オンデマンド配信を活用して、ずっと見てきた。
うん。小さく頷くと、ひゅっと侑は息を吸い込んだ。
「パリで、メダル、取るしかッ……!」
「落ち着き、お前のバレー人生、そこまでてわけでもないやろ」
「……でも、ピークは過ぎてます」
静かに言い放ったソレは、事実でもあった。バレーボールの選手生命は決して長くはない。三〇代後半になってまで海外挑戦をしたアタッカーもいるものの、多くは三〇歳前後で引退することが多い。
もちろん、スポーツ科学だって発展している。だから、もう数年は、プレーすることも可能だろう。プレー、するだけなら、支障はないだろう。
ただ、最高のパフォーマンスを見せられるかは、別の話。ベテランだからこその技術はあれども、若手のパワーやスタミナに比べれば、劣る点も出てくる。
うん。もう一度頷いてから、背中をさすった。
「パリまででええねん、一緒、いてください」
お願いします。蚊が鳴くような声で付け足されたそれは、欲しい云々を抜きにした懇願にも思えた。
パリ五輪。今年開催される予定の、大会。予選はもうじき始まる。前回大会は開催国枠で出場できたものの、今回はその枠を掴み取るところからのスタートだ。妖怪世代が中堅からベテランへと移り、新戦力としての若手も揃っているのが、今の日本代表。影山選手ぶりに、高校生ながら代表に選出された選手もいたように思う。
七月から、八月まで、か。
そっと瞼を閉じて、自身の生活を顧みた。ぐるぐると頭が動く。思考が巡る。その間も、背中をあやす手は動いている。お願いします。畳み掛けるような響きは、確かに、胸に響いた。
けれど。
俺の本業は、侑のサポートでは、ない。
「……無理やろ、現実的に」
「そこをなんとか」
「これから田んぼ始まるし」
「それ言うたら俺も代表合宿ですよ」
「そんで海外遠征やろ」
「遠征、終わったら、ネーションズ……」
「で、すぐパリ」
「……いっしょ」
「いられへんやん」
「そこをなんとかあ!」
淡々と事実を突きつけると、ぎゃんぎゃんと喚きだす。しかも自分の予定をきちんと把握し、無理とわかっているのに騒ぎ立てる。アホか。無理なもんは無理。諦め。
あやす手を一度止め、バチンと背中の真ん中をぶっ叩いた。
「あぃタッ!?」
「一緒おらんでも見といたるから」
「へ」
「それで我慢し」
「あ」
「冬なったら、試合も観に行ったる」
「うぇ」
侑が何かを言う前に、一発二発、三発と飛ばしてやる。一緒にいられなくても試合は観る、というのはこれまでと変わらない。冬――つまるところ、クラブシーズン――くらいは、生で観戦しに行こうか、というだけのこと。冬場であれば、そう無理な話ではない。大阪や愛知、広島大会であれば、すぐに行ける距離なのだし。
どや、これでも嫌て言うん。そんな顔をしながら首を傾げれば、侑はぽかんと口を開けた間抜け面を浮かべていた。
「ぱり、おわっても、みてくれるん?」
「……パリで引退するつもりやった?」
「まさか!」
だろうな。血反吐吐く、というくらいだ。地獄まで行くとも言ってのけたのだ。体の限界まで、バレーボーラーとして生き続けるに決まっている。
仮に、プロとしてトップリーグで活躍できなくなったとしても、今度は社会人チームを立ち上げてしまいそうな装いもあるし。……プロがその手のチームを作るには、何年かの間が必要になるのか? その辺りは詳しくないが、この男のことだ、いつまでもバレーボールに固執して生きていくに決まっている。
「え、えぇ……」
呆けた顔のまま、侑は、二歩ばかり後ろによろめいた。必然的に、きつく巻き付いていた腕は離れるし、俺の腕も侑から離れて、すとんと自分の体の両脇に戻ってくる。
「北さん、ほんまに見てくれる?」
「おん」
「ほんまに?」
「ほんまに」
「ほんまのほんまに」
「しつこい」
そんなに心配することか。自分に絶対的な自信がある奴にこんな反応をされると調子が狂ってしまう。
ああ、いや、こういう反応をするのは、俺が原因でもあるのか。もうお前のバレーを見ているのは辛い、と言って別れたのだから。何についても先走るこいつが、勝手に「もう俺の試合は見てもらえない」と勘違いしていたとしてもおかしくない。
それくらいは、訂正、というか、正しく伝えてやっても良いか。別れてから、連絡が取れなくなってから、ゆっくりと調子が良くなっているのを思うと、あえて何も言わないのが正解だと思っていたが、見てもらえるのが嬉しい、というのなら。
しいて杞憂をあげるとすれば、有頂天になって不調に陥ることくらいか。さすがにベテランにもなって、そんな気の緩みは起こさないと信じたい。
「見とるよ。ずっと。……あの後も、これからも」
見とるよ、侑の、こと。
丁寧にそう付け足せば、ひくんと目の前にある肩が震えた。目玉は真ん丸に見開かれている。常日頃から重たそうな瞼をしている奴だが、見開くとこんなにも大きくなるのか。眼球が、ごろりと落ちてきそう。そしたら、ちゃんと掬って、埋め直してやるか。
「~~っ北さぁん!」
「んぶッ!?」
……なんて、冗談、考えなきゃ良かった。
襲ってくる衝撃。推定八〇キロの体重。玄関扉に打ち付けられる背中。明後日に思考を飛ばしていたせいで、まったく身構えることができなかった。おかげで、文字通り押し潰されている。ああ、満員電車って、こんなんなんかな。現実逃避に、またもや思考が明後日に向かい始める。
だがしかし、その思考もすぐに引き戻された。
「んンッ!?」
「む~」
ぶちゅ、という勢いで、唇を塞がれたから。この家に連れ込まれたとき同様の激しいキス。散々なくらい唾液は絡むし、舌には吸い付かれる。目一杯体重を掛けられているせいで、ムッとした侑自身の匂いも香ってきた。
急ぎ足で帰ってきて、汗が引いたかと思えばこの興奮。キスの貪り具合からも明らかに性欲が入り混じっている。だからだろうか、こいつの匂いを強く感じてしまうのは。
匂い、というのはいけない。記憶にいちばん強く記憶されるらしい。人は音から忘れていくというが、匂いは最後まで覚えているとどこかで聞いたことがある。
ふつふつと、体内で熱がくすぶっていく。あやしている間の、とろとろとまろい熱の共有じゃない。欲の塊をぶつけ合う、貪り合う溶け方だ。
一向に唇は離れてくれないせいで、酸素も足りなくなってきた。慌てて鼻呼吸をすれば、侑の昂った匂いが体に入り込む。
じん、と、体の中心に熱が集まってきた。
「ん、ん?」
くそ、どうしてこの男は、こういうことにまで目ざといんだ。
「……勃っ」
「黙れ」
「いやいやいや、結構しっかり勃ってますやん」
あからさまなリップ音を立てて唇が離れれば、やんわりと侑の手の平が俺の局部に伸びてきた。大きな手のひらが、テントを張ったソコをきゅうと掴んでくる。
侑に、掴まれている、なんて。それだけで、熱が破裂しそうだ。未練があるのはこちらも一緒。なんなら、こいつのせいで女性を抱けなくなったくらい。それでも忘れようと必死になっては、下腹が切なくなっては自らを慰める。……こんな淫らな生活を送っているなんて口が裂けても言いたくない。
下唇を噛み締めて、ぐっと下腹に力を込めた。このまま達してなるものか。せめて一矢報いなくては。
大阪に来た本来の目的を忘れたつもりはないが、されるままの状態で送り出されては男の矜持に関わる。ただでさえ、処女を初めてとするなんやかんやを侑に奪い取られてきたというのに。
「るっさい、そういうお前は」
「あギャッ」
でれっと緩んだ顔を睨みつけながら、ソイツの長い脚の付け根を握った。
握り込んだ。
握れて、しまっ、た。
感触は、なんとまあ、……柔らかい。
「……EDに」
「ちゃうわッ! 昨日しこたま北さんで抜いたか、ら」
「は」
「……ゆっ、夢の北さんが、めっちゃえろくて」
「夢精したと」
「してへんッ、それはしてません!」
なんてことだ、そいつの性器はまるで反応していなかった。ジャージの布越しに何度か揉んでみるものの、「ひゅわっ」なんて奇声を上げるだけで、芯を持つ気配はない。しこたま抜いたからって、こんなにも反応しなくなるものか? やはり、不能になったと考えたほうが、らしいのでは。……それは、困る。俺はお前のナニなしじゃ過ごせないくらい妄りがましいカラダになったのに、当のお前は勃起不全だなんて。
「いぃい今はちょっと、調子悪いだけで、」
「泌尿器科、紹介しよか?」
「ほんまに! 夜なったら元気なります!!」
「ンッ」
カッと言い返されるとともに、ぎゅむりと俺のを握り込まれた。悔しいが、膨らんでいても侑の片手で閉じ込められてしまう。そのまま布越しに揉まれ続ければ、妙な気分にもなってくる。それこそ、玄関扉に寄り掛かっていなかったら、すとんと座り込んでしまっていたことだろう。
「っやめ、ワ」
「手伝いますよ」
こっちが立っているだけで必死というのを良いことに、侑は俺のベルトを緩めにかかった。そして、実に滑らかな手つきで前を寛げていく。
「おわ」
「さいっあくや、」
曝け出されたグレーのボクサーパンツには、くっきりと染みができていた。よりにもよって、どうして今日、この色を選んでしまったのだろう。黒にしておけば、目立たずに済んだかもしれないのに。
「ぅ、ぅく」
にやけ面の侑は、一枚の布越しに、くにくにと竿の形を揉んでくる。いくら侑の体温が高いと言っても、熱を持ったそこに比べれば冷たい。微妙な温度差と布の擦れる感触に、かくかくと腰が揺れてきた。
「フッフ、ね、北さん」
「皆まで……」
「腰」
「言うな、つの」
「ふふふふふ」
心底、愉しいと言わんばかりに侑は笑うと、その大きな両手を下着のゴムの中に滑り込ませた。そのまま、ずるんと膝まで引きずり下ろす。
ふるん、と飛び出た自身は、半勃ち状態。腹につくまで反り返っていないのが救いと思うべきか、……そもそもそこまで勃起できなくなったことを黙っているのが良いのか。
「っあ、」
ぎゅ、と乳しぼりでもするかのように、陰茎を握り込まれた。長い指がぱらぱらと竿に絡んでは緩み、また絞め付けては離される。
ここは、玄関。しかも、侑の家。妄りな声を、出すわけにはいかない。抵抗は早々に諦め、両手で自身の口を覆った。
むちゅ、ぐちゅと握られ扱かれ、気まぐれに亀頭を撫でてきたかと思えば、鈴口を抉られる。この男、完全に、俺の好きなトコロを覚えてやがる。質が悪いったら。
「っふ、ふぅ」
「声、我慢して偉いなあ」
「げん、かん、やぞ、」
「うん。フッフ、ありがとう」
けど。
ぽつ、と微かに零した侑の言葉は、ペニスへの刺激に気を盗られて気付けなかった。
「ッおい、そこは!?」
「ちょっとだけ、ちょっと、だけ」
つん、と触れられたのは、陰茎よりも会陰よりも向こう側。きゅ、と窄まっているはずの後孔に向かって侑の指が這ってくる。会陰をふにふにと押される感触すらもゾクゾクとした痺れが走るのに、急所まで触られてしまったら。
咄嗟に片手を伸ばすものの、ずりゅんと先走りを使って陰茎を扱かれれば、途端に力が抜けてしまう。ずり、ずり、と玄関扉に沿って、体が沈んでいく。さすがに地べたに座りたくはない。だが、しゃがんでいる体勢でどれだけ保てるのか。
ひた、と、陰茎を虐める手に、指先を乗せた。抵抗にはならない。わかっている。ただ、この姿勢は、いや、というのさえ伝われば。
「あ、つむ」
震える声で強請ると、中腰だった侑が玄関のフローリングに腰掛けた。性器に触れていた手は離れ、俺の腰に添えられる。
「ぁ」
引き寄せられると同時に、自分の体は侑の膝の上に乗っていた。中途半端に勃起したペニスが、ふるりとゆれる。侑自身が大きく足を拡げて座ったせいもあり、尻がひやりと床に乗った。
「もうちょい、こっちに重心持ってこれます?」
「ええけど、重いやろ?」
「座っとったらなんてことないすよ、それに」
それに?
ぽこりと疑問符を浮かべた瞬間、とんっと侑のほうへと上体が倒れた。慌ててしがみつけば、よくできましたと侑の両手は勝手知ったると言わんばかりに俺の下肢を責め始める。
くるくると切っ先を撫でつけながら、もう一方の手は、尻の割れ目を辿っていった。その先にあるのは、言うまでもない。
「あッ」
「あれ、やわやわ」
「っん、ふ」
ついさっき、触られそびれた後孔が待ち構えていた。人差し指を押し当てられると、そのとおりにぬかるんだ孔に指先が沈んでいく。柔らかな縁は、ほとんど抵抗なく、指先の第一関節まで飲み込んだ。それどころか、もっと奥へと、ナカがうねりだす。
「……もしかして彼氏いるとか言います?」
「いる、わけっ、ないやろッ」
「の、わりに」
「ぅ」
「すんなり、指、入ったのは、……なんでなんすかねえ」
侑は穏やかに話しかけながらも指をじゅぽじゅぽと差し入れする。その速度は決してゆっくりではない。潤滑剤は使っていないというのに、やたらスムーズ。しいていえば、先走りが尻まで垂れていたくらいのもの。にもかかわらず、こんなにも滑らかに指が入るとは、一体どういうこと。
簡単な話だ。昨日、たっぷりのローションを使って、自慰をしていたから。前、ではなく、後ろで。
さらに言えば、このカラダはとっくの昔に指では満足できなくなっている。だから、床に張り付けられる張形を使って、自身を満たしていた。そのおかげで、侑の指を、つるりと呑み込めてしまったのだ。
……こんなこと、話せるもんか。
カッカと顔から火を噴きそうになりながら、侑の左肩に顔を埋めた。
「知らん」
「知らんことないやろ」
「知らんもんは知らん」
「北さん」
嫌だ、答えたくなどない。なんて聞かれたとて言うものか。きゅ、と唇を噛み締めながら、ふるふると首を振る。
けれど、この反応で、こいつは察してしまっていることだろう。ディルドに頼っている、というのまではわからなかったとしても、俺が自分の意思で、アナルを弄り回している、ということは、気付くはず。
そしてこの人でなしは、気付いたなら、口にせずにはいられない性分だ。
「自分で、お尻、弄ってたん?」
「~~ッ」
ずりゅんッと勢いよく指を引き抜かれながら、どろりと甘ったるい声が鼓膜に届いた。さりげなく前立腺を擦っているのがいやらしい。
愛おしい指、たった一本に、こんなにも狂わされるなんて。足りないのに、満たされている心地もする。でも、やっぱり、もっと欲しいと思ってしまう。
ズッと鼻水を啜りながら、侑の指先が熟れた縁に当たるよう腰を揺らした。
「あぁ~……」
「ンやねん、こうなったんお前のせいやぞ」
「ン゛ッ……、いきなり煽るようなこと言うんやめて!」
「煽ったところで勃たへんやん、不能」
「ふのッ!?」
腰と菊門とを駆使して、ちゅっちゅと侑の指先で自分を慰める。入口の辺りだって、当然気持ち良い。一応、入り口だけでも達することはできる。しかし、いちばんに気持ちが良いのはソコではないのだ。指なんかじゃ届かない、奥深く。結腸の入口を穿たれるのがとにかくイイ。あわよくばそれが欲しいというのに、この男、今日に限って勃たないなんて。
「ふのう……」
トドメのように吐き捨てて、ちゅぅうと侑の人差し指を下の口で咥え込んだ。
「んぁぁあ昨日抜かんかったら絶対絶対ばっきばきやったのに!」
「ハンッ、歳やな」
「三十路舐めたら痛い目見ますよ」
「農業従事者の体力舐めんなや」
「……」
現役スポーツ選手の身体能力はよくわかっている。だが、単純な持久力という意味では、真夏のハウスの中で作業し続けたり、一日ずったり収穫作業をしたりしているこっちだって、負けていない。
実際、指一本でとろとろにされていた嘗てに比べて、随分と保つようになっただろうが。思い出してみろ。……こいつからしたら、過去の俺の痴態なんて、ろくに覚えていないのかもしれないが。
相も変わらず、後孔で指をしゃぶっていれば、侑の視線が、そろそろと俺の腰に落ちていく。
剥き出しになった腹。たるんではいない。冬はどうしても肥えてしまうから筋肉こそ落ちてしまっているものの、ぼってりと脂肪がついているわけではないのだ。それに現役のときより、下半身が強くなった。しゃがんでの作業が多いせいだろう。おかげで、太ももはかつてよりも張っている。これから働き始めれば、程よく筋肉も乗ることだろう。
もにゃりと、侑の唇が波打った。目は邪に細められる。そのくせ頬は、だらしなく下がっていた。
「なに気色悪い顔してん」
「その、腰の、むっちり感、堪らんなあって、思いまして」
「でも勃たへんやん」
「ッから、それはそれ!」
しつこい、と叫んだ侑は、ぷちゅんと人差し指に加えて中指も添えてきた。二本に増えたところで、難なく飲み込んでしまう自分の体が恨めしい。が、ありがたくもある。前立腺を押し上げるようにして入ってきたのもあって、ふく、と睾丸がせりあがったかの心地になった。
「あ゛」
「気持ちよくなりましょーねー」
「ん、ふグッ」
後ろではぱらぱらと指を動かしながら、気まぐれに前立腺を抉られる。前は前で、陰茎やら睾丸を揉まれつつも、切っ先、尿道口をひたすらに引っかかれた。先は、駄目だ。その粘膜は特に弱いのだ。
ひくひくと体が言うことを聞かなくなってくる。下半身だけの生き物になってしまいそう。それでも、絶妙な物足りなさが全身を絞めつけてくるのだから苦しい。
まずい、い、く。
頭の奥が、白く濁った。その奥で、昨晩の自慰が思い起こされる。奥を突きすぎて、もうなにも出るものがなくなってしまうまで、ずぽずぽと張形を捻じ込んでいた。そうやって、最後はどうなったんだったか。意識を飛ばしてしまって、ハッと目覚めた時にはもう出かけなければならない時間で、中途半端に埋まっていたソレをヌポッと引き抜いて準備をしてきた、よう、な。
「ぁッ、」
堪らず、首筋が仰け反った。ぎゅる、と下腹で熱が蜷局を巻く。がくん、と腰が跳ねた。
それから、たっぷりと時間をかけて、何かが、せりあがってくる、快感。
ああ、ああ、これは、まずい。
「……え、ドライ?」
すぐそばにいるのに、侑の声が遠い。出てくる。来てしまう。気持ち良いばかりの、白い愛液が押し出されて、くる。
「~~ッ」
「あ、出てきた出てき……、わ、えっろ!」
「あ゛ぅ、う~」
ぷく、と切っ先から白い球が膨れる。ぎりぎりまで亀頭の上で広がった楕円は、張力に負けると同時に、とろり、とろりと垂れていく。
射精、とは、言えない。そういう言葉があるかは知らないが、漏精、と表すのが、相応しいのだろう。
一分か、二分か、はてまた三分か。相当な時間をかけて吐き出し切った白濁は、侑の家のフローリングの上に白い水たまりを作っていた。上手く侑自身は汚れないように避けているのが憎たらしい。
やっと快楽が過ぎ去って、肺に空気を取り込めた。
「さいあくや……」
「さいこうの間違いでしょ?」
けろっと言ってのけるのがまた憎たらしさを増長する。最高なもんか。ベッドの上では最高だったとしても、ここは玄関だ。それも、他人の家の。そう、他人の家だ。元・恋人なんて、他人も同然。そんなところで、こんなはしたない真似をしてしまうなんて。
息を荒げながら愕然としていると、侑がひょいと俺を退けて室内に入っていった。立ち上がる気力のない自分は、その背中を見送ることしかできない。
侑が消えたのはほんの十秒足らずだった。持ってきたのはタオルと、ティッシュ。タオルのほうはほんのりと湯気が立っている。
タオルと言えば、昔、こいつの家からバスタオルを盗んだことがあったな。遠い記憶が蘇ると同時に、侑は俺の汚れた下肢を拭ってくれる。タオルは予想通り温かく、変に感じることなく汚れを拭い去っていった。
続けて侑は床の水たまりを拭きとり、てきぱきと室内に戻っていく。そりゃ、そうか。あいつも今日は練習があるのだし。というか、俺も、展示会に行かねば。
染みの付いた下着を吐き直すのに若干の抵抗はあったが、仕方がないと諦めて、もそりと、膝を立てる。すっきりしたとも、していないとも言えない熱を携えながら、どうにか身なりを整えた。
「そだ、会場、どこ?」
「どこ?」
「その、農業なんちゃら展示会の」
あらかた片付けが済んだのだろう。玄関に戻ってきた侑か、軽やかな調子で話しかけてくる。右手の人差し指は、キーホルダーが引っかかっており、くるくると回っていた。
「どこ?」
「え、と、確か」
頭の中に入っている要項に書かれた会場名をぽつりと呟いた。何時から? 十時半から。ついでにその受け答えもすると、侑はさっと時計を確かめる。最後に一言、余裕やな、と。
「立てます?」
「ぅん……、いや、は?」
「送ってきますよ、その間に、そのえっろい顔、シュッとしといてくださいね」
へらっと軽薄な笑みを浮かべたそいつは、俺の腰を抱くようにして玄関に立つ。まだ足元が覚束ない俺は、侑に寄り掛かるしかなかった。
なん、これ。どういうこと。
変な達し方をしたせいで、頭がろくに働かない。気を抜くと、口をぽっかりと開いて涎を垂らしそうなくらい。
はて、これから、どこに連れていかれるのだ。ぽやっとした思考は、駐車場に降りても、立派な外車に乗せられても、本来の目的の農業機械の展示会会場に到着しても、依然としてぼやけたままだった。