一
高校卒業に合わせて、家を出ることにした。高校といっても、定時制だ。授業を受けるのは一日四時間だけ。だから、卒業するのに、四年はかかる。
「ダブったってことか?」
「俺、今ちゃんと説明したよな?」
しかし、パーは首を捻っていた。その隣に座っているペーやんは「仕方ねえだろ、パーちんの脳みそはミジンコだぞコラ」といつもの悪態を吐いている。一見悪口だが、当人たちにとっては馴染んだやり取りだ。この程度で、二人の間に軋轢が生まれることはない。
とはいえ、パーちん、ヘヘッと誇らしげに鼻の下を擦るのは、止めた方が良いと思う。
「パーちん、俺のこともダブったって思ってっからな」
「そもそもペーやんは通い始めが一年遅いじゃん」
「俺、今年卒業じゃねーんだワ。たぶん来年卒業。単位が取り切れなくてよお」
「あー、なるほど」
俺が高校に通い出して一年遅れて、ペーやんは通信制の高校に通い出した。
これからも自分はパーちんとニコイチで生きていく。その時、自分に学があるに越したことはない。そんな理由から、学校に通うことを決めたらしい。パー・ファーストだな。いつだったかそう茶化したら、背中を目一杯の力でブッ叩かれたっけ。おかげで背中に紅葉が咲いたし、なんならそこは打撲にもなった。
ペーやんから受け取った書類の束には、ビビットカラーの付箋がはみ出している。ペラリと捲ると、薄く鉛筆で丸が書いてあった。ここを漏れなく記入しろということらしい。別の付箋のところを開けば、説明書の重要と思しき箇所にマーカーが引いてある。勉強の成果、出てんじゃね。そんなことを言ったら、また背中をブッ叩かれそうだ。カラフルなそこかしこに口元を緩めつつ、ボールペンを手に取った。
ペン先が、紙面を走る。三という字は、相変わらずバランスを取るのが難しい。横に引いた三本の線、今日は真ん中が長くなってしまった。同じ三画でも、ツは難しくないのにな。さらに続く二文字も書き終えると、ローテーブルに横広の影が掛かった。
「高校って、三年で卒業するモンじゃねえの?」
目線だけを持ち上げれば、パーが内緒話でもするように囁きかけてくる。一度瞬きをしてから、持ち上げたばかりの視線をペーに向けた。こっちに突っかかってくる様子は、今のところない。ふむ、軽く頷いてから、声量をパーちんに合わせた。
「全日はそうだよ。でも俺は夜間定時だから、四年で卒業がフツー」
「ペーやんの方も四年がフツーってことか?」
「そっちは通信制ね。三年でも卒業できるけど、四年五年ってかける奴も珍しくない」
「つまり……、テージもツーシンもダブるのが、フツーって、ことか」
「うーん、ダブってはいない。同じ単位を繰り返し取るってわけじゃねえから。単位を取るペース自体がゆっくりってこと」
いざ高校を選ぶ時、その辺りは自分で調べた。だから、おそらくこの認識は間違っていないはず。
ゆっくり。パーの口元にある傷跡が、小さく動く。それから、一つ、二つと頷いた。さらに三秒ばかり経ったところで、パーは上体を起こす。
「俺もイケっかな、高校」
「アー、どうだろう、イケるかな……?」
真摯な目線が、突き刺さった。
絶対に無理、ということはないだろう。一方で、絶対に卒業できる、と断言するのも憚られる。結果として、曖昧な言葉しか、選べなかった。
縋る思いで、視線をペーやんに送る。俺につられて、パーちんの目もそちらに向かった。ペーやんの眼鏡―― 林田春樹付き執事・服部さんリスペクトの伊達眼鏡だ―― が、不穏に光を反射する。
「……パーちん、自分の脳みそとよく相談して」
「おう、そうする!」
元気な返事である。さっぱりわかっていないと言わんばかりの響きをしていた。なんだか、聞き覚えがあるな。中学時代、校内で聞いていたものとよく似ている。教員連中にため息を吐きながら諭され、「おう!」と溌剌に放っていたあの声。……そっくりだ。おかげで、懐かしさに加えて、笑いまで込み上げてくる。ペーやんも一緒らしい、ドッカリとソファに掛けたまま、ひく、ひくっと肩を震わせていた。
「おめーらなに笑ってンだ?」
「ふ、ふふ、パーちんは変わんないなと思ってサ」
「あんだよ、なんだ、褒めたってなんもでねえぞ、家賃まけてやろうか!」
「マジ? 頼むワ」
「まけね~よ、ただでさえ融通利かせてンだから勘弁しろ!」
飛び出した調子のいい言葉に食い付けば、慌てたペーやんに割って入られた。
俺だって、安くしてもらっていることはわかっている。そっと目線を落とした契約書には、紹介された当時よりも抑えられた金額が書かれていた。散々駄々を捏ねた成果である。昔馴染みが相手だからこそ、捏ねられた駄々だ。
―― 高校卒業に合わせて、家を出ることにした。一年以上かけて探したその物件は、俺のアトリエ兼住処になる。来月からの新生活、楽しみで仕方がない。
心を躍らせながら、鞄から印鑑と朱肉を取り出した。これを押せば、契約は完了。テーブルの隅に置かれた捺印マットを、手元に引き寄せた。
「……おい、三ツ谷」
「んー」
まずは一つ、賃貸契約書。ぎゅうと押し付けてから印鑑を離すと、掠れも滲みもなく「三ツ谷」の赤色が写った。
「携帯、光ってンぞ」
「え?」
次は、重要事項説明書。契約書と位置を入れ替えながら、ちらりと鞄に目を向ける。口を開けたトートバック、その間口からピカピカと緑の光が見えた。白い本体は、よく見ると振動しながら動いている。眺めている間も鳴っているということは、電話だろう。ギュッ、手早く捺印を終えて、震え続ける端末を取り出した。
「誰だ、これ」
「知らねえ番号?」
「うん」
折り畳み式のソレを開くと、見覚えのない番号が並んでいた。数字だけが表示されるの、いつぶりだろう。携帯を買ってすぐの頃、「これ俺の番号な」と次々ワン切りされたのが思い起こされる。この番号も、知り合いの誰かなのだろうか。首を傾げながら、親指で受話器マークを探した。
「……出る時ってどっちだっけ」
「左側、斜めの方。つか出んの? 知らねえ番号なら無視すりゃいいだろ」
「でも知り合いかもしれないし」
「そんときゃまたかけてくるだろ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
左、左。頭の中で繰り返しながら、ペーの言うことも一理あるなと思った。
なら、出るのは止める? 躊躇いが滲みだした頃には、もう親指は通話ボタンに沈んでいた。
『ッあ』
もしもし、と言うより早く、端末から高めの音が飛び出す。女の声だ。男ではなく、女。俺に電話をかけてくる、見知らぬ番号の女。心当たりがなかった。
ペーやんの言う通り、出るのを止めた方が良かったろうか。親指が、そろり、終話ボタンに向かう。
『やっとでた!』
キンッと耳鳴りがした。その勢いで、右手から携帯が滑り落ちる。咄嗟に両手で端末を掬い、身を屈めるようにして電話を耳に当て直した。
「え、誰、」
『はぁ!? ルナだけどッ、昨日番号コレってやったじゃん』
「うん、エッ、でも名前でなかったよ」
『……ねえ、ちゃんと名前も登録した? 番号だけ入れて満足したんじゃないの』
「う」
屈めた体が、今度は強張る。
ルナ、この番号は、ルナのものらしい。そういえば、昨日、あいつは携帯を買った。卒業式を終えた足で、母と買ってきたと新型の携帯端末を見せてくれたっけ。電話番号がコレ、メールアドレスがコレ。そう示されたのも、覚えている。
しかし、電話帳登録を、正しくできたのかと聞かれると、だ。正直自信がない。
「三ツ谷、まだ電話帳使えねえのか?」
「パーちんですらちゃんと使えるっつーのにな」
「おっ、なんだよ、褒めんなよ!」
「褒めてねえよ」
視界の端では、ペーやんが書き上がったばかりの契約書類を集めていた。胡乱な顔の隣では、パーちんがきょとんとしている。
うるせえな、電話帳機能くらい使える。ただ、登録の仕方があやふやなだけだ。……東卍の時分、どうやって登録していたんだろう。あの頃は、次々と番号が増えていたはず。確か、ええと、そうだ八戒だ。弐番隊の面子が増える度、八戒が代わりにポチポチしてくれていた。じゃあ、幹部関係はどうしたんだっけ。……ドラケンだな。定期的に携帯を渡していた覚えがある。渡して、五分くらいすると、連絡先が整理されて返ってくるのだ。あれはたぶん、必要な連絡先を登録してくれていたのだと思う。つまるところ、自分で登録した番号は、ろくにない。
ごめん、電話口にいる妹に、素直に謝った。
『帰ったら勉強会ね』
「うん……。えっと、それで、どうした」
『あ、そうだ。お母さんなんだけど』
「お袋?」
妹の声色から、怒りの気配が失せる。この切り替えの早さは、誰に似たのだろう。少なくとも、母親ではない。となると、俺か。しゅんと萎れていた気分は、もう立ち直っている。縮こまっていた背中は真っ直ぐになり、左手は何事もなかったかのように印鑑をしまいはじめた。
お袋が、どうしたのだろう。今日のあの人は、一体何をやらかした?
俺を十五で産んだあの人は、危なっかしいところがある。もともと、ロマンチストな性分ではあった。運命の人とやらのことを想って、ぼぉっと思い耽ったり、そのせいで魚を焦がしたり、塩を入れすぎたり、風呂を溢れさせたり。その程度ならまだ良かったのだが、ここ三年―― 東卍が解散して、俺が怪我をしなくなってから―― は、夢見がち傾向に拍車がかかっている。ぼんやりする時間は増えたし、「あの人を見かけたの」と言って突如家を飛び出すことだって少なくない。
ルナの口調から察するに、またプチ家出をかましたのだろう。となると、夕飯はいらない。朝飯はいる。冷蔵庫の中を思い出しながら、今日明日の献立を頭に浮かべた。
『また家出した』
「いつものやつな」
『それがさあ』
ルナは、呆れた様子でため息を吐く。電話越しだというのに、上の妹が頭を抱える姿が目に浮かんだ。おねえ、最近おにいに似てきたよね。下の妹の幻聴まで聞こえてくる。
『化粧品も、洋服も靴も鞄もお財布も、持てるだけ持って出てったんだよね』
今、聞かせられた言葉も、幻聴? それにしては、耳の奥に、やけにしっかり余韻がこびりついている。
無意識のうちに、頬の片方がピクリと引き攣った。
「は」
『もうすっごい大荷物。引越しでもすんのかってくらい』
「引越しすんのは、俺なんだけど……」
『そう、それでさあ、あの人お兄ちゃんの通帳まで持ち出そうとして! ふざけんなってビンタしちゃった』
「エッでかした。……いや、えっ」
『家計費のお財布と、あたしら名義の通帳、ハンコも死守したから大丈夫。カードは確か、作ってないって言ってたよね。ろくにお金入ってないけど、悪用されるより良いと思って』
「うん、うん?」
『でさあ、すぐ家出から帰ってくるなら、まあそれでも良いんだけど、ほら、お兄ちゃん一人暮らし始めるじゃん。もし帰ってこなかったとして、あたしとマナだけで、ここ住んで大丈夫かな』
「ちょい、待て、ハ、えっ?」
浴びせられる言葉、そのすべてが幻聴だったら、どれほど良かったことだろう。なんなら、夢であってほしくて仕方がない。試しに太腿に爪を立ててみた。……ちゃんと、痛い。夢じゃ、ない。
携帯を握る手指に、変な力が入った。耳元で妹の怪訝が混じった声がする。不穏に軋む音は、妹の方にも届いたらしい。
この妹は、母の本気の家出を目の当たりにした。一体、どれだけ冷静さを残しているのだろう。貴重品を死守するくらいに頭は働いている。とはいえ、平手打ちを繰り出す程度には、取り乱してもいる。その暴挙に出ないとならない程、母が動転していたとも言えるか。なんにせよ、今すぐ、一刻も早く、家に帰らなくてはならない状況に違いはない。
混乱と平静の両方を携えた己の頭は、通話終了ボタンを押す前に、悪友たる二人を捉えた。
「なあ、契約日って、今からでも変更できる?」
放った瞬間、片方の顔が凍り付く。無茶を言ってるのはわかっている。でも、こっちも緊急事態なんだ。ちょうど契約書に判子は押してしまったけれど、なんとかそこを、頼むよ、なあ。
俺の渾身の駄々も、堅気とは言い難い林田組従業員の罵倒も、まるっとすべて妹に聞かれていると気付いたのは、それから五分後のことだった。
家に帰ると、部屋から味噌汁の匂いがした。靴を揃えもせずに駆け込めば、台所にルナが立っているのが見える。マナは座卓で春休みの宿題をしていた。
改めて、ぐるりと部屋を見渡してみる。荒れたところは、一つも、ない。
「おかえり」
「ただい、ま」
「早かったね。もうちょっと揉めてくると思ったのに」
「だって、そりゃ、事情話したら、とりあえずオッケーなったし」
「ふふ、お兄ちゃんでも、あんなふうに声張り上げて無茶言うんだね」
「うぐ」
半ば茫然としていると、台所から声が飛んで来る。咄嗟に顔を向ければ、お玉片手にくすくすと笑うルナが見えた。笑っている、場合か。よろめきながら台所に近寄ると、ネギと思しき匂いが、ツンと鼻に入り込む。
「えっと、マナには、言った?」
「うん、言ったよ」
ケロッと答えたルナは、コンロの火を消す。それから、鍋に刻んだネギを放り込んだ。すぐにカタンと蓋を閉じ、細い両腕が取っ手を掴む。反射のように腕が伸び、妹の代わりに鍋を奥側のコンロに移動させた。
「……ほんとに言った?」
「言ったって。ねえマナ、お母さんのこと聞いたよね!」
「聞いたよお」
「ほら」
慌ただしく居間を振り返れば、何でもない顔をしたマナがこちらを向いていた。けれど、すぐに目線は宿題のプリントに戻る。キャラクターの柄のシャーペンが、左から右へと動いていた。動揺した素振りも、わざと平静ぶった様子もしていない。正しく、いつもの宿題をする妹の姿をしていた。
今一度台所に目を向ける。ルナは、空いたコンロにフライパンを乗せていた。流しに置かれたザルには、細切りになった野菜が入っている。献立は、おそらく野菜炒め。それなら、ちくわも入れてほしい。冷蔵庫にある、賞味期限が昨日だか一昨日のちくわ。混乱した頭のまま、鈍い動きで冷蔵庫の扉を開けた。
「……なんでお前らそんな、フツーなんだよ。あと、ルナお前、怪我とか」
「あたしはなんとも。ビンタしたせいで向こうは鼻血出ちゃったけど」
「あ、そお」
「うん。ちくわ入れる?」
「入れる、入れて、」
「あはは、これ期限昨日じゃん」
「火通せば余裕だろ……」
掴んだ五本入りの袋は、流れるようにルナの手に回収される。小さな、それでも年相応に成長した手が、パリッとビニールを破った。柔い筒を輪切りにする動きは、鮮やかとは言い難い。それでも、トン・トン・トンと一定のリズムで包丁はまな板を叩いていた。おおよそ、自分が調理する時と同じテンポ。フライパンに油を引くのも、野菜を炒め始めるのも、そこまで危なっかしくは見えなかった。あの母に比べたら、安心感すらある。
本当に、母と対峙したのか。実は、母と結託して、嘘を吐いているのではないか。
……そんなことないとわかってはいるが、そうであってほしい気になってくる。もし嘘だとしたら、マナから聞き出すのが、きっと一番早い。狼狽を隠せないまま、つま先をもう一人の妹の方に向けた。
「ま、マナ」
「なに」
「母ちゃんのこと、」
「うん、また家出したってね。……おねえさ、ビンタしたんだってよ、ヤバくない?」
今も敷いているカラフルなマットの上で、マナがにやりと意地の悪い顔をする。ヤバい、とは何を指してのヤバいだ。母が出ていったことなのか、あのルナが大人相手に手を上げたことの方か。ルナ同様にケロッとしているのを見るに、後者に思えて仕方がない。
親が、家出をした。それは、妹たちにとって衝撃的な出来事ではないのだろうか。少なくとも、自分はショックを受けている。
「……あー、」
「うん?」
本当に、母親が出ていったからか? 一つ深呼吸をしてから、マナの隣に膝をついた。すとんと正座をしながら、もう一度息を吸う。
母が、家出をした。それは、世間一般的にはよくないことだが、三ツ谷家においてはよくあること。ふらっと出ていって、その日のうちに帰ってくることもあれば、二、三日してから帰ってくることもある。だから、母の家出自体は、大した問題ではない。
問題なのは、―― 彼女が家財を持ち出そうとしたこと。ルナが止めてくれなかったら、危うく無一文になるところだった。
やらかしたあの人は、いつ帰ってくるだろう。それなりに荷物を持って行ったということは、これまでで一番長い家出になるのは想像に容易い。……どうだろう、明日の朝には「ごめんねえ」と言って帰ってくるかもしれない。
頭を抱えながら、台所を肩越しに見やった。
「ねえお兄ちゃん、野菜炒め味付けして」
「……ルナ」
「なに」
先ほど、お玉を持っていた右手は、菜箸を持っている。換気扇を回しているからか、いつもより声を張っていた。普段と違うところは、一つも見つけられない。
けれど、この妹は、普通目の当たりにしなくて済む場面に、遭遇している。
ようやく、自分の脳みそは冷静さを取り戻した。
宿題を続ける妹の頭を一つ撫でてから、腰を浮かせる。足を動かしても、もう狼狽は出てこない。油が野菜の水分を弾き飛ばす音を聞きながら、もう一人の妹に腕を伸ばした。
「―― こわかった、よな」
二つに結われた髪が、乱れないように頭を撫でる。旋毛の辺りから結び目の上まで、二回ばかり手を動かしたところで、流しの前に移動した。空になったザルを退け、手を洗う。うがいも済ませて、ようやく菜箸を受け取った。
「ごめんな、兄ちゃんすぐに帰ってこれなくて。大事な時に一緒にいれなくて、ごめんな」
うちの野菜炒めは塩胡椒。それとめんつゆ。感覚で調味料を加えると、間もなくじゅわりと香ばしさが匂い立った。フライパンを何度か揺すって、もやしとキャベツを摘む。ぽいと口に放り込めば、薄めの塩気が舌に触れた。もう少し、濃くても良い。こくんと飲み込んで、めんつゆの方のボトルを掴む。
「お兄ちゃん、」
「うん、……いてッ」
つゆを垂らしてから振り返ると、べちり、細い指先に頬を叩かれた。つい、声を上げてしまったが、言う程痛くはない。
「これで許すよ。代わりに、もうちょっとだけ、この家にいてね」
そう言ったルナは、ついさっきマナが浮かべたのとよく似た、意地の悪い笑みをして見せた。
今日だけでいいから、一緒に寝たい。母・家出事件の夜、ルナに控えめに強請られた。中学生になる妹と、二十歳になる兄が一緒に寝るというのは、世間的にどうなのだろうか。頭には、「事案」という二文字が過る。
「いいなあ、マナもまーぜて!」
「エッ」
「ふふ、決まりね、三人で寝よ」
「……マジで、いいの? 俺だよ?」
「お兄ちゃんはアリでしょ」
「そうそう、あとおにい、いい匂いするし」
「わかる、なんかいい匂いするよね」
「ええ? お前らと同じ洗剤と同じシャンプー使ってるんだけど」
「あ、昨日児童クラブの帰りにドラケン君に会ってねえ、三ツ谷ん家ってみんないい匂いするなって言われたよ」
「事案です、今度しょっぴいてくる」
布団を並べながらスンと真顔を作ると、何が可笑しかったのか二人揃ってキャラキャラと高い声で笑った。