一
その唇に、リップは塗られていない。
なのに、いつも三ツ谷の唇は淡く色づいている。出会った時からそうだ。あの日は、女みたいな顔した奴だな、と思ったっけ。
本当に女だと気付いていたら、あの家には連れて行かなかったのに。……そうぼやいた時、当人に変な顔で睨まれた。男と勘違いされたのが癪だったのか、あからさまな女扱いが気に障ったのか。
どちらにせよ、「お前の唇、いつも綺麗な色してんね」と言えないことに違いはない。
睡眠不足は、肌荒れの元。ヘルスの連中が言うことが本当なら、三ツ谷のこの唇だって、もっと荒れていそうなもん。集会があるのは夜中だし、昨日なんか「ほつれたから直してくれ」と場地に特服を押し付けられていた。その特服は、二つ返事で受け取られ、もう既に場地に返されている。一体、いつ直したんだろう。日中? いや、パーの話だと、今日の三ツ谷はしっかりきっちり朝から授業に出ていたという。集会の後にどうにかしたのか、朝方に縫ってやったのか。定かではないが、ろくに寝ていないのは間違いあるまい。
これで隈でも作っていたらなあ。ファミレスになんか寄ってないで、いいから休めと、強引に家に帰らせるのに。
タフなこの女は、疲れ一つ見せずにストローを口に咥えた。一拍置いて、白い管の中をアイスコーヒーが上っていく。
頬杖をつきながらテーブルの向かいを眺めた。三ツ谷は涼し気な顔をしているものの、彼女の隣にいるマイキーは「うへえ」と顔を顰めている。くしゃっと拉げた表情をしながら、口直しと言わんばかりにチョコレートパフェを口に詰めた。
「三ツ谷さあ、よくコーヒーなんか飲めるよなあ」
「ガムシロ入れてるし、結構甘いよ」
「色が苦え!」
色が苦い、とは。自分には、コーヒーの色もチョコレートソースの色も、大して変わらないように見える。
「ふ、チョコよりは苦いかもね。でも、ほんとに。結構いけるよ」
「まぁじでえ」
「試しに飲んでみる?」
「んん、ええ? んん……」
三ツ谷も俺と似たようなことを思ったらしい。くつりと笑ってから、ストローから口を離す。蛇腹のところで緩く折れ曲がったソレは、ツ、とマイキーの方を向いた。
「……っ」
あ、それ、間接キスじゃん。
茶々を、入れそうになって、慌てて口を引き結んだ。言ったところで、三ツ谷のことだ、「それが?」としれっと言い返してくるに決まってる。なんたって、ペットボトルの回し飲みも平然とする女。誰の「一口ちょーだい」にも「はいはい」と応えてくれるくらい。この面子が相手であれば、うっかりキスしたって「ぶつかっちゃったね」で終わらせるかもしれない。
もし、三ツ谷に意識されたら、俺たちはどうなるんだろう。たぶん、俺も、マイキーも、場地も、三ツ谷のことを女子とみなす。そうなったとき、今と同じようにつるめるのかというと、まあ、無理、だろうなあ。変に性別を感じさせない今ぐらいが、つるむにはちょうど良いのだろう。
視界では、マイキーが小さく口を開けている。恐る恐るといった様相で、差し向けられたストローに近付いていた。
あの口が、もうすぐ三ツ谷の咥えていたストローを齧る。……なんだか見たくなかった。頬杖はそのまま、ふいと窓の外へと、目を逸らす。
「~~ッケンチン!」
「あ?」
「味見、よろしく!」
しかし、すぐに視線は引き戻された。
改めて見やった先では、パフェスプーンを持ったマイキーの手が、アイスコーヒーのグラスを押しやっている。それも、俺の方に向かって、だ。されるがまま、三ツ谷のきゅるんとした顔は俺を向いた。
かろん、ストローが回転して、コーヒーに浮いた氷が涼し気な音を立てる。薄く濡れた、白いストローが、まんまとこちらにやってきた。
「総長が、味見しろってサ」
「……ヤダ」
「なんで」
「苦そう」
「苦くないよ」
「コーヒーって、炭みたいな味するじゃん」
「どこで飲んだコーヒーだよソレ。まあ、ドラケンにはコーラの方がいっか」
「……」
再びくつりと笑ってから、三ツ谷は意地の悪い笑みを浮かべる。マイキーには、大人びた顔をして見せたくせに。何で俺にはそういう態度なんだよ。一抹の不満が込み上げてくる。
とはいえ、三ツ谷がこういう顔をするのは俺にだけ。淡泊な素振りをしがちだけど、この女の性根は大の負けず嫌い。その性分を、俺にだけは包み隠さず見せてくれていると思えば、悪い気はしない、ような、そうでもない、ような。
変ににやけそうな唇を、強引にムッと尖らせた。差し出されたグラスのことは、ひとまず睨んでおく。
自分の手元にあるソレと、似た黒色。だが、炭酸の泡は混じっていない。ガムシロップを溶かした程度で、どれだけあの焦げた味は和らぐのだろう。三ツ谷の口振りだと、炭を思わせる味はしていない。かといって、苦くないとも、思えない。
正直、飲みたくない。
眉間に皺を寄せてみるが、三ツ谷が退く気配はなかった。なんなら、斜め前に座っているマイキーまで、楽しげに目を輝かせている。ここで飲まなかったら、今日一日、逃げた・逃げたとなじられることだろう。
くそ。小さく悪態を吐いてから、三ツ谷の手ごとアイスコーヒーのグラスを掴んだ。ア、と開けた口で、差し出されたストローを噛む。
きゅ、軽く吸うと、苦味が舌先を掠めた。
「あ、間接キスじゃん」
「グッ……!?」
と、同時に、真横から何気ない声が飛んでくる。
ゴキュ、味を確かめる前に飲み込んだ液体は、喉の変なところに引っ掛かった。
咄嗟に、ストローから口を離す。慌ただしく首を捻れば、左手の人差し指が俺に向いているのが見えた。
人のこと、指差すんじゃねえよ。つーか、お前さっきまで顰めっ面しながら携帯いじってたろうが。その名残と言わんばかりに、場地の右手にはメール画面を映した携帯が握られている。文章を打っている途中に見えるのは、錯覚ではない。メール送るまで、そっちに集中しとけよ。なんでこのタイミングで顔を上げるんだ。
そりゃあ俺だって、間接キスだなって、思ったけど!
「今更なに言ってんの」
噎せそうなのを堪えていると、正面からケロッとした言葉が放たれた。
けほ、結局小さく咳払いしながら、視線だけをそちらに向ける。……甘い印象すらある垂れた目が、きょとんと瞬きをしていた。さらに、グラスを引き寄せて、俺が咥えたばかりのストローを食む。ちゅ、わずかに唇が尖り、グラスの中身が数ミリ減った。
「抵抗とかねえの」
「ないよ。だってドラケンだし。まあ、マイキーでも、場地でもないけど」
「俺が言うのもなンだけどよお、ちったあハジライ持った方いいんじゃねえの?」
「恥じらいってなんだよ。逆に、キャアッとか言ったらヒくだろお前ら」
「……うわ、想像したら鳥肌立った」
「よぉーし場地、お前今度特服ダメにしたら、プイキュアのワッペン付けるからな」
「やっ、やめろよ絶対!?」
「イヤだね。もう決めた。次やらかしたら、お前キュアブラックで、千冬キュアホワイトな」
「そこは千冬だけにしろや!」
「あのさあ、「せめて俺だけにしろ」って言いなよ」
まったく、この一年で、何回お前の特服直したと思っているんだ。アイスコーヒーを挟みつつ、三ツ谷は場地を叱り始める。間接キスにギクリと反応した俺のことは、すっかり眼中になかった。
三ツ谷にとっては、正しくなんでもないことなのだろう。俺や、マイキーや、場地が口を付けたものを、自分も口にするのに、一切の関心がない。
それが、ちょっと、いやかなり、俺にとっては癪である。
言えよ、キャアッて。恥じらえよ、頬染めて。せめて、俺相手のときだけは、照れくさそうに「しちゃったね、間接キス」とか言ってはにかめよ。……脳裏に浮かべた光景の童貞臭さに、我がことながら嫌気がさした。
頭を切り変えたくて、ひとまずコーラを飲み下す。じゅわりと炭酸が口内に伝って、やがて喉へと落ちていった。イガイガする喉へと、だ。しまった、今これを飲むのは、まずかったかもしれない。喉の不快感が膨らんでしまい、仕方なく小さく咳ばらいをした。
「で、場地はメール終わったん? 話始めらんねんだけどお」
「んあ? まだ。今終わるからちょっと待ってろ」
「早くしろよ~、誰とメールしてんの、彼女ぉ?」
「いねーよンなもん。千冬だ千冬」
「千冬? 電話のがはえーだろ」
「あのバカ、夏風邪引いて今声出ねえの」
喉を擦る俺を余所に、マイキーはパフェのグラスにスプーンを放り込む。勢いづいたのもあって、カンカランと高い音が響いた。口先では早く早くと繰り返し続けている。「早く」が重なるにつれ、場地の眉間の皺が深くなった。携帯を操作する右手には、びきりと血管まで浮き上がる。
「あぁあうるっせえな、急な呼び出しに応じてやっただけありがてえと思えよ!」
「あ? 暇だから来たんだろ」
「暇じゃね~んだワ、今日はポチの散歩行くはずだったんだよ俺ぁ!」
「暇じゃん!」
「暇じゃねえ!」
その親指が送信ボタンを押すや否や、場地は乱暴に携帯を畳んだ。バキンッと不穏な音がする。さらに、半ば叩きつけるように携帯がテーブルに投げ出された。勢いあまって、三ツ谷のところに飛んでいく。あ、わっ。慌てた声を上げながら、細い指が宙を躍った。一秒経ったところで、肩を怒らせたまま三ツ谷が固まる。どうにか、床に落ちる前にキャッチできたらしい。
ほうと息を吐いたところで、三ツ谷は顔を上げた。
「場地、コレ二台目なんだろ、壊したら次はないって言われてたんじゃないっけ?」
「ゲッ」
暇・暇じゃないの言い合いに、ぽんと三ツ谷が入り込む。たちまち、場地が顔を強張らせた。横から見ても、しまったと書いてある。正面にいるマイキーには、さぞ愉快に映ったことだろう。その証拠と言わんばかりに、ヘッと得意げに笑っていた。
「マイキーも場地のこと煽らない。で、話って?」
続けて三ツ谷はマイキーを小突いた。その右手は、流れるようにアイスコーヒーのグラスに伸びる。淡い色の唇が、そっとストローを食んだ。その動作に、綻びはない。俺に一口飲ませたことなんて、忘れてしまったかのよう。
込み上げてきた恨めしさが、表情に滲む前に飲み下した。つい三ツ谷に向いてしまう目線を、どうにか横にスライドさせる。意識的に、焦点をマイキーだけに定めた。
「今度、武蔵祭りあるじゃん」
切り出した声は、神妙さを帯びている。にやけていた表情は、いつの間にか引き締められていた。てっきり、いつもの理不尽かつ突拍子もない閃きで呼びつけられたのだと思っていたが、違うのかもしれない。頬杖を解いて、背筋を伸ばした。場地も空気の変化に気付いたらしい、斜に構えていた姿勢を正している。テーブルにちょこんと乗っていた三ツ谷の手は、二つとも拳を作った。
三つの視線を受け止めたところで、マイキーは続ける。
「パーが、その日は決戦だって、妙に血気だってんだよね。そのくせ俺にはなあんも言わねえ。……お前ら、なんか聞いてねえ?」
低くなった声に、いっそう辺りが張り詰めた。
道理で、この場にパーがいないわけだ。納得を覚えつつ、記憶から参番隊周りの出来事を引っ張り出す。揉めている、という話は聞こえてきていない。東卍全体で言えば、四谷傀團の件があるが、あれは壱番隊に任せている。となると、パー個人の関係だろうか。
「んん、ウチはまだごたついてっけど、……参番隊ってどうなんだ」
「俺の耳には入ってきてねえな、三ツ谷は?」
同中のよしみで、パーから何か聞いていないか。ペーから相談されていることはないか。副総長のスイッチが入ったせいか、三ツ谷に視線を戻しても、不埒な思考には傾かずに済んだ。
視線の先で、三ツ谷がぱしぱしと瞬きをする。そのたびに、上向きの睫毛が可憐に震えた。少しして、小ぶりな唇が、わずかに開く。テーブルに乗っていた手の片方は、のろり、自身のこめかみへと伸びていった。
「あーたぶん、それさあ」
人差し指が、かり、銀糸を引っ掻く。
この様子、知っていることがあるらしい。野郎三人分の視線が、鋭く三ツ谷に突き刺さる。ごく普通の女子だったら、竦み上がるところ。けれど、ここにいるのは東卍の弐番隊隊長をやってのける女傑である。躊躇いつつも、怯むことはなく、その唇を動かした。
「―― デート、だよ」
そして放たれた言葉に、ぎしり、空気が凍り付く。
でえ、と。でーと。デート。
たっぷり三秒かけて、言われた単語を受け止めた。デート、って、あのデートでいいのか。そもそも、デートの意味なんて、一つしか、知らない。
いや、デート、だと? 不可解さに、つい眉を寄せてしまった。
「んっと、もりユミさんだったかな。幼馴染のコと出掛けるって聞いた」
「……あのパーが、デートねえ?」
「まあ、ぺーやんからの股聞きだけどね。けど、パーちんからも、女子と祭りに行くなら、何着ていったら良いかなって聞かれたし、間違ってはないと思う。あいつ、私服がヤカラっぽいって自覚、あるんだね」
記憶の糸を辿りながら、三ツ谷はぽつぽつと話してくれる。
つまるところ、俺や、場地や、マイキーが身構えたような揉め事では、ない。なんだ、そういうことか。どっと肩から力が抜けた。
「ぱあが、」
「デぇ、と……?」
数秒遅れて、マイキー達はぽかんと口を開けた。どっちの顔も、胡乱で満ちている。揃って理解が追い付いていないらしい。パーがデート。パーが、デート。さらに二回、三回と同じ言葉を呟く。それぞれの脳内では、もっと「パーがデート」の文字列を繰り返していることだろう。
「パーが、デート」
わな、と、場地の口が震えた。
「へえ、パーがデート、」
はくん、マイキーの唇は空気を食べる。
「マジ?」
「ふっふっふ、これは、……アレだな」
「おいバカ、何も言うな」
「野次馬しに行くっきゃねえな!」
「だからこのバカ、ンな下世話なコトしてやんなよ」
「ああ? 場地だって気になんだろ」
「そらあのパーが惚れる女だぜ、気にならねえわけねえだろ」
「なら行こうぜ、野次馬」
「それとこれは別。そのうち、パーから話あんだろ」
気になる、止めとけ。野次馬、行かねえ。理解が追い付いた二人は、仕様もない言い合いを再開する。仕様もないのはマイキーの方か。俺自身は場地に賛成だ。パーはこれから幼馴染に告白するのだろう? 人の色恋沙汰に首を突っ込むのはシュミじゃない。それこそ野暮ってもんだ。いよいよ上手くいったとなれば、パーの方から話をしてくれるだろう。
つい、口から盛大なため息がまろび出た。……聞き逃してくれればいいものを、マイキーの頭はぎゅんっと俺の方を向く。喧嘩とバイク以外じゃ滅多に輝かない黒目が、まあキラキラしていた。
「なあ、ケンチンっ、行こうぜ野次馬!」
「誰が行くか」
「はぁあノリ悪ッ」
「第一、武蔵祭りって三日だろ。その日フロント頼まれてンだよ」
「えええ、じゃあ三ツ谷はあ?」
「うーん、その日はちょっと」
俺がダメなら、次は三ツ谷。輝かしい視線がビュンッとテーブルの上を走る。
「ちょっとって何、俺より大事な用事?」
「んん? うん、そうだなあ」
「はっきり言えよ、内容によっちゃ諦めてやらなくもない」
曖昧な断り方だったからか、単に隣に座っているからか、マイキーはしつこく三ツ谷に絡んでいる。
内容によらなくても諦めろよ、そこは。そもそも、三ツ谷が断る理由なんて、十中八九家族関係だ。妹の話であれば、マイキーも大人しく引き下がるだろう。
頬杖を突き直して、マイキーにガクガクと揺さぶられる三ツ谷を眺めた。もったいぶってないで、サクッと言って断っちまえ。その念が届いたのか、おずおずと三ツ谷は、淡い色の唇を開いた。
「―― カレシと出かける予定だから」
ぽーんと、放物線を描くようにして、朗らかな声がする。
「え」
続いて聞こえたのは、マイキーの呆気にとられた声だった。
「あぁ?」
それから、場地の訝し気な声がする。
「……ハ、あ?」
最後に、自分の、掠れた声が漏れた。
「あれ、もう五時半……? やば、マナの迎え行かなきゃ。パーちんのこと、変に煽るなよ?」
「へ、あ、ハイ」
「ん。じゃあね、また今度」
凍り付く野郎三人を置いて、三ツ谷は颯爽と立ち上がる。マイキーにだけは釘を刺しつつ、財布から五百円玉を取り出した。がちり、硬貨がテーブルにぶつかる、鈍い音がする。お前、ドリンクバーだけだろ。おつりはどうすんの? ……今度会った時、渡せば、いいか。
間の抜けたことを考えているうちに、店員のやる気のない「ありがとうございました」が聞こえてきた。ぼんやりと窓の外に目を向けると、ぱたぱたと道路を横断する後ろ姿が見える。ボーイッシュな背中だ。離れれば離れるほど、その姿は男に見える。
でも、カレシが、いる、らしい。
三ツ谷に、カレ、し。
パーがデート、より、断然理解ができなかった。
「なあ、ドラケン」
「三ツ谷にカレシだってよ」
「どうすんだよ、大事な大事な妹分なんだろ?」
「どこの馬の骨か確かめなくていいの、良くねえよなあ? 行こうぜ、野次馬!」
「ッ」
喉元に、行く、の二文字が込み上げる。舌の根元にまで辿り着いたソレは、唇を開きさえすれば、音になることだろう。
けれど、寸でのところで、我に返った。
大事な大事な妹分。その女にできた男のコト、気にならないわけがない。が、自分は三ツ谷に口出しできる立場かというと、否。残念なことに、色恋沙汰の苦言を呈せるポジションにはいないのである。
「……ぜっ、たい、いかねえ」
やっとの思いで絞り出した声は、地獄の亡者を思わせるくらいに濁ってしまった。