脚
それ、取って。
床に落ちたジャージを穿いたところで、気だるげな声が聞こえてきた。ほとんど吐息、掠れきった音だというのに、よくもまあ鮮明な音として聞き取れたもんだ。閻魔大王の地獄耳もびっくり。まあ、幾度となく繰り返された行為と、その事後に交わしてきた会話を思えば、簡単に分かることではあるんだけど。
足下にでろりと広がった一枚を拾い上げた。自分が着るには大分小さい、言うまでもなく倉持のジャージ。ちろりとベッドに視線を送れば、早く寄越せと言わんばかりに腕を差し出された。下着はいつの間にか身につけている。風邪、引きたくないしな。だから俺だって、余韻も早々に服を着ているわけだし。
ん。改めて、腕を突き出された。同時にベッドに腰掛けたため、やけに白い脚が床に降り立つ。素足にフローリングは冷たかろう。なおさら、早くこのジャージを引き渡さなくては。
そう、思いは、するんだ。
「アー、うん」
「うんじゃねえよ、さっさと寄越せ。寒ィだろ」
「うん、分かってる」
でも、その前に。黒いジャージを掴んだまま、そっと、投げ出された脚の前に跪いた。
暗がりでも分かる、筋張った脚。空いた手で片足に触れると僅かに倉持が震えた。まだ盛ってんのかよ、もうしねえぞ。声を出すだけの気力が残っていたのなら、きっと倉持はそう言っただろう。しかし、今、そんな余力はないと見える。掴んだ脚は脱力しきって重たいし、抵抗する気配もない。やりすぎたせい、だろうな。
代わりといってはなんだが、これでもかと俺を睨んでいるに違いない。じいっと足先を見つめる俺の脳天に、視線が矢となって突き刺さっているから確かだ。凄まじい形相を浮かべているのが、手に取るように分かる。だから、顔をあげるのはやめておこう。
ジャージから手を離し、もう一方の手をふくらはぎに添えた。ずっしりとした重み、こんなに重いのに、なんであんなに足速いんだろうな。自然と、顔との距離が縮まっていく。
「っおい、」
「ん?」
ちゅ、と甲に唇を寄せた。浮いた血管がふにゅりと潰れる。一応目線だけ送ってみるものの、上目遣いのせいで眼鏡のフレームから外れてしまった。ぼやけた視界じゃ、凄む倉持の表情は窺い知れない。
俺だけを捉えるあの目も悪くないんだよな、そう思うと、ちょっと残念だ。だからといって、口づけた皮膚から、離れたくもない。痕が残らない程度に吸い付きながら、仕方なしにピンぼけた倉持を眺め続けた。
「ンなとこ、舐めんな」
「なんで」
「なんでって、そりゃ、」
「さっきもっとスゴイとこ舐めてたのに」
「んッ」
ちろっと舌を出して親指と人差し指の間を擽った。今日は自主練してから風呂に入ってたし、寒い寒いと言いながらもサンダルで移動していたし、そもそも倉持のなら気にしないし。平たい爪に一度キスを落として、かぷりと指先に噛みついた。もちろん、甘噛み。こいつの一番の武器だ、傷つけるわけないだろ。
「ぉい、御幸、」
「ん~?」
それからべろりと舌を這わせた。親指から土踏まず、踵を通って踝へ。ここなら吸い付いても怒られないかな。でも、こいつ最近、寮の中移動するときサンダルなんだよな。素足にサンダル。五号室の中でくつろぐときも裸足だし、やっぱつけるなら内腿か。
きゅっと引き締まった足首を一度食んで、わざと濡らしながら脛を辿った。アキレス腱を押さえながら弁慶の泣き所嬲るだなんて、なんだか笑える。堪らなくなって、くっと喉を鳴らした。
「なに笑ってんだ、ヘンタイ」
「変態ってなんだよ、キレーな脚だなって思ってただけだって」
「ぬかせ、人の脚舐めておったててるくせに」
「アラ、ばれてた。よく見てんなあ」
「見えんだよ、てめぇと違って目はいいんでな」
ふと、掴んでいない方の脚が俺に伸びる。
というか、ソコを、ぐにゃり。目一杯踏みつけてこないのは倉持の優しさか、果てまた挑発か。力がこもったのは最初だけで、後は乗っているだけに等しいことを思えば、気まぐれな戯れなのだろう。そりゃそうだ、あれだけ激しくやっといて、「もっと」と誘う真似するわけがない。
「ふ、っはは、その気になっちまうぜ?」
「その気になったってお前はしねえだろ」
「なんで言いきれんの」
するりと手を滑らせて、膝裏を固定する。骨の形に沿って舌を乗せたり、歯で引っ掻いたり、くすぐったいのかたっぷりの吐息を含んだ笑い声がした。名残もあるせいで、やけに色っぽい。平常時のお前の笑い声にすら欲情しかけるってのに、ずるいって、それ。股間に乗せられたままの足を僅かに持ち上げた。
「ヒャッハハ、何コーフンしてんだよ」
「誰のせいだよ。ほんとに続きしちまうぞ」
「しねーよ、お前は」
しない。そう零されると共に、うっすらとした圧が消え去った。はっと視線を下せば、器用なことに足の指先でジャージを掴み寄せている。あっという間に、黒い布地は倉持の手元へ。
「おら、手、どけろ。穿けねえだろ」
「ええ~俺に据え膳しろっていうのかよ」
「だから、今日はもう何もしてこねえだろ」
「俺だってただの高校生だぜ。ムラッとするままに押し倒しちゃうかもよ」
「何度も言わせんな」
お前は、今日はもう、しない。
まるでそれが絶対であるかのように倉持は言う。意味わかんねえよ。俺はいつだってできる状態にあるし、したばっかということもあって倉持が受け入れる体勢もまあ整っている。その他諸々、小道具もあることだし。
朝練があるとか、授業があるとか、そんなのは俺が手を出さない理由にならない。だって、何回か夜通し行為に耽ったことあるし、二人であたかもいつも通りですと朝練に参加したし。ちょっと、眠かったし、倉持はだるそうだったけど、何とかなった。何とかなると分かっているのだ、だから続きをしない理由には、ならない。
それでも、今日はもう、俺は倉持に手を出さないと言う。
「なんで」
「しつけえな」
「だって、意味わかんねえし」
「意味わかんなくねえよ」
「俺はわかんないの」
「だってお前、」
相変わらず吐息多めの色づいた声。手に触れたままの脚は汗ばんでいて、手にしっとりと吸い付く。そこから感じられる倉持の脈動は穏やかで、情感を残しつつも欲自体は冷めつつある。俺ばかり、欲情して、ちょっと恥ずかしい。けれど、こんなにしたのは倉持なんだから、責任とってくんねえかなと思う自分もいる。
一言で良い。仕方ねえな、っていう妥協でも良い。理想は、もう一回、と強請られることだけど、言ってくれはしないだろう。いくら熱っぽく見つめても、きちんとレンズ越しに捉えても、その表情に色は灯ってくれないし。
腹の底にたまった熱を吐き出したくて、薄く唇を開いた。
「したくてしたくてどーしようもないなら、こんな会話しないでとっとと押し倒してるだろ」
その隙間から、ハ、随分と素っ頓狂な声が漏れる。
「だから、今日はもう、お前は俺に手を出してこない」
なに、それ。頭を強打された気分だ。
ぱちくりと目を瞬かせたところで、倉持の表情は変わらない。それどころか、俺の手から力が抜けたのを良いことに、するりと両脚を自分の方へと引き寄せた。暗がりに晒された生足が、もっと暗い色の布に覆われていく。ああ、もっと触っていたかったんだけれど。たくさんの所有痕をつけられない代わりに、素肌を撫でたかったんだけど。
そうかあ、できねえのかあ。すとんとそれが落ちてくると同時に、何とも言い表せないぬくもりが腹に広がる。おかしいな、熱は吐き出したはずなのに。いや待て、吐き出してねえな。間抜けな声は零したけど、下腹に溜まった劣情の塊をどこかに消した記憶はない。だのに、じわり、緩やかで穏やかなぬくもりで溢れていく。
なんで、どうして。まさか、全幅の信頼を寄せられたから?
ぱたりと両手が床に落ちると、独特の笑いを浴びせられた。
「なんだ、ちゃんと萎えてんじゃん」
「ぅえ」
言葉に沿って自分の股に視線を落とせば、いつの間にかテントの姿は失せていた。まじかよ。
「アー良かった、これでやっぱりするとか言われなくて」
「……えっ、してヨカッタの」
「良いわけねーだろ、明日もフツーに朝練あんだぞ」
「朝練あったってやってるときもあったじゃん」
知らない聞こえないと顔を背けた倉持は、そのままぼすんとベッドに倒れ込んだ。あれ、部屋に戻んねえの。上着てないから当然と言えば当然だけど、この調子ならそのまま俺の部屋に来たときと同じ格好になって五号室に戻るモンだと思ったのに。
ぼんやり見つめていれば、ごろりと、寝返りを打つ。暗くたって、分かる。目が合っていることくらい。つい、こくりと唾を飲み込んだ。
「ん!」
「へ?」
おもむろに伸ばされたのは、倉持の両腕。あれ、何か渡すものあったっけ。ああ、上着か。そうだよな、上半身裸だもんな。俺もだけど。思い出したら寒くなってきた。
わたわたと、床に散った互いのジャージに手を伸ばした。
「ちっげーよ、来いっつってんの」
「えっ、戻んねえの」
「戻って欲しいわけ?」
「……そ、添い寝してくれん、の」
質問を質問で返すのは、ずるいだろうか。でもそういうことだよな。つい、口元が緩む。打って変わって倉持の口はつんと尖ったけれど、何も言い返してこないということは、そういうことで良いのだろう。
じわり、また、腹の中のぬくもりが体積を増す。
「うわ、やっべえ嬉しい」
「っるせえな、早くしろよ、寒い」
「うん」
そっと布団に乗り上げると、俺が寝られるだけのスペースを作ってくれる。ここが俺のベッドだとか、男子高校生二人が寝るには狭いだとか、そんなことは些末な問題だ。横に並んで寝てくれる、たったそれだけが嬉しくて仕方がない。
困ったな、することしなくてもそこそこ満たされてるだなんて。
それだけ、倉持が好きってことなのかな。はは、言ったらどうなるだろ。ばかじゃねえのって、引っ叩かれるかな。俺もって、はにかんでくれるかな。気恥ずかしさが先立ってしまうから、いつまでたってもその二文字を伝えることはできないんだけど。大丈夫だろ、倉持、俺のこと分かりすぎてるし。
ぎゅうっと俺より小柄な体を抱きしめると、控えめに腕を回してくれた。ひたりと張り付く素肌が気持ちいい。ついでと言わんばかりに、脚を絡めた。
「ヒャハッ、お前ほんっと俺の脚好きだな」
「っ、」
うん、好き。
またもや、その二文字を、伝えそびれた。