薄い紙で
「って」
指先を、プリントが掠めた。別にその程度。日常茶飯事、学生だったらよくあること。学生じゃなくてもよくあるのかも。例えば、会社に缶詰めにされて書類の海に溺れる事務職のサラリーマンとか。どんなに電子化が進んだって、紙がなくなるにはまだまだ時間がかかりそうだし。この国の、高校生ともなれば余計にそうだ。紙に触れる機会なんていくらでもある。
たった今みたいに、紙で指を切ってしまうのだって、nか月ぶりのm回目の出来事。
ひりひりと痛む指先を見やると、真っ直ぐな線ができていた。色は赤。うっすらとしているが、皮膚を切り裂いた肉の色。……いや血の色か。眺めているうちに垢が濃くなってくる。血が、滲みだした。思ったよりも傷は深いらしい。乾燥なんて気にしなくていい季節になったはずなんだけどな、プリントの殺傷能力高すぎでしょ。
あーあー、ぼんやりと眺めている間も、傷口はぴりりと痛む。まあ、このまま放っておいたって、そう問題はないだろう。指先から意識が離れてしまえば、忘れてしまえる程度の痛み。飯の前に手を洗いに行ったとき、少し染みるだけ。そういや指切ったな、なんて過るくらいのモン。どこぞのスペックオバケだったら指先のその些細な傷で丸一日中不機嫌を迸らせるのかもしれないが、俺はそこまで神経質ではない。いいや、このままで。わざわざ保健室に絆創膏を貰いにいくのも面倒。その辺にいる女子に、「バンソーコー持ってない?」と聞くのも真っ平御免。
「……角名、プリント」
「あ、ごめん」
ふと、前から気怠い声が降ってきた。間髪おかずに顔をあげて、ひらひらと眼前を揺れる藁半紙を掴む。腹が減っているのか、それとも単純に眠いのか、半目になったそいつの目はいつにもまして感情が読めない。ほんとにお前、あのスペックオバケの片割れなの? いや、あっちもバレーをしてなければこんなもんか。重たそうな瞼はほぼ同じ、口が「へ」の字か「V」の字かの違い。他人にまったくといっていいくらい関心が薄いか、たいして関心は持っていないがとりあえずその場しのぎに関心を持っているフリをするか。
なんだかんだ言っても、コレとアレは双子なんだよなあ。双子っていうか、兄弟。確かに血がつながっていて、同じ環境で育ちましたって感じ。
「イ、」
て。
明後日なことを考えていると、再び指先に痛みが走った。新たに傷を作ったというわけではない。ついさっき切ったばかりのところを、同じように紙が掠めたせい。畳みかけるなよ、あーいってえ。再度指を見下ろせば、ボールペンの線を擦ったかのように赤が擦れていた。プリントのほうにも血がついてしまっている。鈍い赤で、端がちょんちょんと色づいていた。
「なにしたん」
「え? ああ、指切れて」
「あー、地味に痛いやつ」
「そ」
血を乾かしたくてぱたぱたと手を振っていれば、治が肩越しにこっちを振り向いた。一度だけ俺を見て、それからすぐに気怠く揺れる指先に向く。
やっぱり違和感あるな。前に治がいるの。席替えをしたのはついこの間。俺はちょうど真ん中の列の一番後ろから、窓際の一番後ろへスライド。治は廊下側の一番後ろから、窓際の後ろから二番目へ。曰く、売店に行きにくい、らしい。そりゃね、廊下側の後ろって、隣が扉だもん。そこと比べたらどこだって行きにくくなるに決まっている。……さりげなく席を交換してほしいというアピールだったのかもしれないが、窓際の一番後ろ、しかも治というでかい図体の後ろというポジションを譲りたくもなかった。授業に飽きたら外見下ろせるし、寝ぼけても自分と同じくらいでかい野郎が前にいるからそれなりに隠れられる。サイコーじゃん。誰が変わるかよ。
「痛い?」
「なんで」
「いや、血出とるし」
「まあ痛いっちゃ痛いけど。気にするほどじゃないよ」
「ばんどえーど、いる?」
「へ」
まさか持ってんの。ほけ、と口を半開きにすれば、もそもそ机の横に掛けた鞄を漁りだす。間もなくぴっと取り出されたのはジップロックのSサイズ。詰まっているのはテーピングテープと爪やすり、ワセリン、それからバンドエイドと書かれた四角い箱。ごちゃごちゃ適当に突っ込んでそうなのに、そゆとこまめだよね。唐突に香ってくる几帳面具合、侑と似ていると思う。
「ってか、いいよ。だいじょぶ」
「……そ?」
「そ」
どうせすぐ治るし。うっかり絆創膏を巻き付けて行ったものなら、侑にゲテモノを見るかの目を向けられるし。視線がうるせえよ、お前みたいに女子顔負けのハンドケアしてるわけじゃねーんだよこちとら。それに、部活行く頃には傷も塞がってるでしょ。そんな程度のものに絆創膏をつけるのもどうなんだ。皮膚ばかりふやけて、逆に治りにくくなってそうな気しない? そんなこと思うの俺だけ?
ぱたぱたと揺らすのを止め、そっと薬指と親指を擦り合わせた。チリ、まだ痛みはある。滲み出ていた血もざっと擦れて伸びた。拭わないとだめだなこれは。ティッシュ持ってきてたかな、確か昨日使い切って……、鞄に新しいのを突っ込んだという記憶はない。制服で拭うわけにもいかないしなあ。早く乾いてくれないかなあ。
そっと薬指を口元に寄せた。じりじり、痺れのような、細やかな痛みを指先は発する。冬場だけじゃなく、梅雨間際のこの時期も油断ならない。覚えとこう。自分のことだ、一か月もすればケロッと忘れて、再び指先に傷をつくるのだろうけど。
もう一度、ふ、吐息をかけ、――静かに、唇に寄せた。
「ン」
弱い力で吸い付く。微かに鉄の味がした。一ミリリットルになんて到底満たない量でも、それなりに味はするらしい。というか、この程度の量でも味覚って感じるんだ。舌で舐めとるのは控えて、とりあえず下唇で拭っておく。応急処置でもなでもないけど、このまま放っておいて、いたるところに血痕を残すよりは良いだろう。
一度離して指先をちらり。まだ滲んでくる。もうちょい吸うか。再度口付けて、一秒、二秒。血の味がしなくなったところで、ゆっくり、唇から指を離した。
「っなあ」
「んー?」
「……ばんどえーど、使お」
「えぇ、いいっつったじゃん」
「血、出てるんやろ」
なら、使って。ばつっと音を立てながら治は袋を開けた。骨ばっていて、手の平の大きさに呼応するように長い指が箱を挟む。
「だからいいってば」
「ん、手」
「いや、手じゃなくて。もう止まったし」
「ええから」
手。そう言う治に、ぎゅうと左手を掴まれた。長い、とはいったが、俺のほうが指は長い。だが、手の平だけなら治が勝っている。厚さも込みとなると、……これも治の勝ちだな。スパイカーの手の平。俺や大耳さんのそれとは、少し質が違う。もちろん、侑とも別。アレは別格。見るからに野郎の手なのに、女子みたいにぴかぴかしてる。ぴかぴかと言えば、北さんも手は綺麗にしてるよな。対極に位置してるあの二人に共通点があるとか面白すぎでしょ。
自分よりもわずかに体温の高い手に固定され、さく、と薬指に視線が刺さる。唇で拭ったそこに、もう赤は残っていない。お、血止まったかな。……なんて思ったそばから、赤い血がじりじりと滲みだす。どっちだよ、止まったと見せかけて実はまだ出てきますなんて止めてくんない? そこは足掻かずに止まれって。
「血」
「あーはいはいハイハイ、止まってませんねー、おとなしく絆創膏貼りますー」
「……」
ほら、さっさと貼れば良かったんだ。あえて言葉にはしないが、副音声でありありと響いて来る。そんな呆れたような、いや治のことだ、「俺の言ったとおりやろ」とドヤ顔を向けられるのだろうな。この顔でドヤってくんの、めちゃめちゃムカつくんだよなあ。何気に煽り性能が高い。こいつも、もう一つのほうも。でもって、その煽り性能の高さを十分理解したうえで、こっちを煽ってくるのだからいっそう質が悪い。ある意味、敵に回したくないよお前ら。かといって、身内に引き込まれるのも嫌だけど。尾白さんみたいなツッコミ要員になってたまるか。
お前の言うとおりにするよしますいたします、これで満足か。手始めにその絆創膏一枚くれる? そんな意味の言葉を放り投げようと、視線を治に向けた。
の、だが。
「……なにその顔」
口から零れたのは、意図していたのはまったく別の言葉だった。
だって見てよ、こいつの顔。やけに切実そうな、この、顔。そんな顔で、見下ろすのが俺の手もとい指先って。じぃいいって、すさまじい熱視線が突き刺さってるんですけど。アレッいっそお前の視線のせいで血止まらないって可能性ない? さすがにそれは言い過ぎだったとしても、こいつの体温に温められているせいで止まらなくなっている、というのはちょっとくらい考えられるのではないか。無理? 無理か。あっそ。
「治?」
「アー……」
依然として俺の指をガン見したまま、治は声を落とした。この声は知っている。十中八九「腹減った」と続くトーンだ。俺の指見て腹減ったってどういうことだよ。何かの肉に見えたって? 肉巻きポテトとかアスパラベーコンでも過った? 空腹状態のこいつならありえない話でもないか。真っ青に晴れた空を見ながら「フライドチキンが泳いどる」と言う男だ。腹が減ったせいで妙な幻覚を見ているのだって、ありえなくはない。
そのくせ、顔つきはいたって真剣なんて。違和感も甚だしい。本当になぜそんな顔をしているんだ。ひしひしとした目で見下ろしてきやがって。
胡乱に治を眺めていると、緩慢ながら、やっとそいつは視線を擡げた。
がちり、目線が、交わる。
「角名」
「なに」
「あかん」
「何がだよ」
「時間差でぐわっときた」
「はぁあ?」
ぐわっときた、とは。もう高校二年なんだから、擬音語擬態語に頼らずに説明してれないだろうか。第一、こっちで生まれ育ったお前らと違って、こっちはそこまで擬態語に精通していないのだ。
首を捻りながらそいつを見つめていると、治の視線はまたもや俺の手に戻った。じ、と薬指を見下ろしてから、ぐるりと手を返す。何の変哲もない男の手。まじまじと見つめるほどのものではない。なのに、治の視線には熱が籠っている。ちょっと、怖い、くらい。
「お、治?」
「なあ角名」
治の手が、俺の指先を撫でた。傷口がぴりっと痛む。大した痛みでもないと言うのに、肩が揺れた。なんで? そりゃ、治の触り方が、なんか、やらしいから。皮膚の、ほんの薄皮一枚だけを撫でるような触れ方。痛みとくすぐったさ、二つ同時に、指先に与えられた。
「左手」
ぽつり、言葉が漏れる。左手? ああ、お前が掴んでるの、俺の左手だもんね。さっと視線を落とせば、治の手が俺の小指と薬指をまとめて掴んでいるのが見えた。四本の指で絡めとって、残りの親指で、指の付け根を撫でている。
「薬指」
そう、薬指の上を、やんわりと、撫でている。まるで、そこに何かがあるかのように。あたかも、嵌めている指輪を撫でているかのように。実際そこにあるのは、かさっとした男の皮膚。手入れには興味のない、よくある男子高校生の手。
にも拘わらず、治は愛おしそうに俺の手を撫でてくる。いつの間にか、そいつの唇は下向きの弧を描いていた。その口の形は、片割れ専用じゃなかったの。
ごくりと唾を飲み込むと、もう一方の手が俺の手首を捕らえた。
「そこに口付ける、て、色っぽいと思わん?」
俺は思う。
微かにそう添えた治は、流れるように俺の手を引き寄せた。されるままに、左手は連れていかれる。その唇に、引き寄せられていく。
ちゅ、う。
薬指の、付け根。指とは異なる、柔らかな感触が落とされた。
加えて突き刺さる、治の、上目遣い。やけに色の乗った、上目、遣い。
「~~ッ」
カッと顔から火が出た瞬間、治はぱっと俺を手放した。はくはくと口を開閉させる俺をたっぷり眺めて、にんまり笑って、あああハラタツその顔、ほんとムカつく。その満足げな顔を歪ませてやりたいが、教卓に座っていた教師の声でハッと我に返った。そうだよ、ここ教室。しかもLHR中。お前は一体何をしでかしているんだ。バレー部がじゃれている、で済ましてもらえる? ンなわけねーだろ、バーカバーカバーカ。
隣に見てみろ、吹奏楽部の女子二人が口半開きにしてこっちガン見してるだろ!
罵倒したいのに、言葉が出てこない。はくはく、相変わらず金魚のように口が開いたり閉じたりを繰り返すだけ。そんな俺を見て、くつくつと喉を鳴らすのだからまったく忌々しい。なんだお前、本当に頭にくる。
「て、ことで」
「あ?」
「……そーゆー色っぽいこと、してほしない、から。バンドエイド、貼って?」
な?
差し出された絆創膏を、受け取らないわけには、いかなかった。