一
真っ先に浮かんだのは、懐かしい。
次に出てきたのは、本当にあいつだろうか。
久々に見た、推定かつての悪友は、随分とまあ、大人びていた。
プロになって日が浅いならまだしも、この世界に飛び込んでもう5年は経つ。いや、今年で6年か。中学高校と徐々に人目を引くようになったものだが、プロに入って知名度は劇的に跳ね上がった。軽率に、公共交通機関とやらを使えなくなる程度には、だ。
おかげで、デーゲームを終えていつもより早い帰路に着けた今日も、ついタクシーを使ってしまった。別にその程度の出費、今の自分にとってはそこまで重くはない。赤の他人と接触する必要もないのだから、ある意味では優秀な交通機関ともいえよう。
車酔いも滅多にしない質だ。いつものようにスコアブックを眺めて、運転手の声を総スルー。しつこく話しかけてくる奴もいるが、今日は一言二言声をかけられた後は何も喋ってこない。エンジン音と空調の音とを聞き流して、意識のほとんどを紙面に向けた。
――そんな自分が、窓の外に目を向けるなんて、偶然と気まぐれ以外の何物でもなかった。
「ぁ……」
赤信号で停車したタクシー。左側車線に止まったせいもあり、目線の先には広い歩道を行きかう人々がよく見える。その大半はスーツに身を包んだサラリーマン。この場所を思えば、これから飲み屋にでも向かうのだろう。疲れた顔の中に、わずかながら明るさが垣間見える。空元気、ともいうのかもしれない。
その黒やらグレーやらの人並みの中、一際目を引く姿が一つ。
「くら、もち?」
「どうかされましたか」
「ああ、いや、なんでも」
運転手の声に意識が引っ張られた。咄嗟に歩道に視線を戻すも、見覚えのあるその姿はどこにもない。
見間違いだったのか。何となく背格好が似ていただけなのかもしれない。それで完結できればよかった。しかし、この脳みそはもう一度探せと喧しい。手元のスコアブックに目を落とそうにも、窓の外を向いて動かせないのだ。
静かに息を吐いて、目線を走らせた。進行方向は右、この車と同じ向きだ。成人男性の歩く速度なら、まだ窓から見える範囲に要る筈。
背丈は近い、けれど年を取りすぎてる。あんな色のスーツだったか、でもあそこまで痩せぎすじゃない。体格髪色、あいつだろうか、いや待てあれは猫背だ違う。するすると人混みを掻き分けて、その男を探し求める。だが、なかなか見つからない。
やはり見間違いだったのか。
手元に視線を戻す踏ん切りがつくと、微かにエンジンが唸った。もうすぐ信号が変わるのだろう。フロントガラス越しに、横断歩道を焦って渡る人が見える。もう赤信号じゃねえの。みんなで渡れば怖くない、ってか。傍迷惑だな、轢かれちまえ。
意識が下に戻っていく。70パーセント、80パーセント、ゲージが昇り、周囲への関心が薄れていく。
90パーセント、視界の隅を走る影だけ、かろうじて捉えられる。
95パーセント、ほとんど、紙面の文字しか読めない。
99パーセント。スコアからわかる範囲で、試合が脳内に流れ始めた。もう、ガラス窓の向こうは、分からない。
100パーセント。の、少し手前。
――チリッと、網膜が焼けた。
「ッ!」
咄嗟に顔をあげた先には、見失ったかと思われた横顔。
これはやっぱり、でもなんだか違うような、そんなこともないような。
俊足は健在らしく、スマートフォンを耳に当てていたくせに、3秒と経たずに視界から去っていった。
感傷に浸る間もなく、信号が変わると同時にタクシーは走り出す。追い越し車線やら右折車線やらが埋まってしまえば、もうその背中を追いかけることもできない。淡々と、運転手に伝えた自宅方面へ近づいていくだけだ。
肺に留まった息をゆっくりと押し出して、ほんの数秒だけ捉えた横顔を再生する。最初は鮮明に、徐々に高校時代の記憶を頼りに。これほどまでに、自分の視力を恨めしく思ったことがあったろうか。目の前に起きた現実を、くっきりと脳みそに刻むこともできないとは。
口元を右手で覆って、俯きながら瞼を閉じる。
前髪を逆立てた、眼光鋭い三白眼は、嘗てのもの。今さっきみた横顔の額は、前髪によって隠されていたし、どことなく目つきも柔らかかった。目つきに関しては、疲労によるところもあるのだろうか。それから、ごつごつとした手の中にあったのは、白球でも金属バットでも、ましてゲームのコントローラーでもない。よくある黒のシンプルなスマートフォン。むき出しの耳に押し当てて、薄い唇を忙しなく動かしていた。
(なんか、あー……)
一言で表すならば、大人になった。
溌剌で鮮烈な面影が、かろうじて残っている程度。残っているだけましなのか、それとも残っているからこそ面影というのか。
女子が化けるのはよくある話だが、存外野郎も化けるモンらしい。
はてさて、あれは本当に旧友であったのだろうか。記憶と面影とを信じたいところだが、他人の空似という可能性を拭い去ることはできない。そうだろう、ほんの数秒しか見ていないのだ。似ている点と点を繋ぎ合わせて、あたかもそいつであるかのように脳が錯覚を起こしたなんてことも十分にありうる。
なんせ、俺の知る"倉持洋一"という男は、
***
「オムライス、ケチャップで。あースープ? は、……、じゃあコンポタ、あとメロンソーダで」
「……」
「ん、お前は」
「アー、……このセット、コーヒーでオネガイシマス」
地獄としか言い表しようのない冬合宿を終えたオフ。パシリともいう先輩からのお達しを受け買い出しに来た昼時のこと。
思ったよりも時間がかかり、今から寮に帰ったところで飯にはありつけないのは明らか。ならば適当に食って帰ろうと思うのは当然のことだ。
「ンだよ、その顔」
「小学生か!」
「誰が」
「お前が」
「ハ?」
「キャー、倉持クンてばコワーい」
「裏声使ってンな、きめえ」
「はっはっは、その面でお子様ランチみたいな注文するお前も大概だよ」
「あ?」
「だから怖ェって、ただでさえ悪い目つきが余計ひどくなってんぞ」
たぶん、こういう時の昼飯といえば、ファーストフード店に入るのが定番なんだろう。だからこそ、行く先々混んでいた。それなら、少々高くついたとしてもファミレスでいいのではないか。お互い、野球一筋なだけあって、財布を開く機会といえば購買か自販機しかない。ちなみに野球用具関連は領収書さえあれば部費から落とせる。
つまるところ、それなりに余裕があったのだ。
「っせえな、元からだばーか」
「残念だったな、お前より頭の出来良いわ」
「死ね」
「生きる」
「禿げろ」
「毛根に不安はありませーん」
「オールバック拗らせて前髪前線後退しろ」
「練習のときしか前髪あげねーし、むしろそれブーメランって気付いてるか」
チッと盛大に舌打ちを吐きつけられたところで痛くも痒くもない。ついでに、揶揄するために怖いと言ってはいるものの、その実、恐怖とやらも一切ない。強いてあげるとすれば、帰ってから関節技決められる覚悟をしておくくらいだろうか。あれは痛い。どうすれば筋を痛めないか、力加減をわかって仕掛けてくるあたり質が悪い。
「……悪いかよ」
「別に、好みなんて人それぞれだろ」
「なら文句付けてんじゃねーよ」
「え? 小学生か、って文句じゃねーよ」
「ハァア?」
「だーから、柄悪いっての」
冷やを口にして何の気に無しに返すと、倉持は大きく息を吸って、しかし何か言葉を発することなく吐き出した。言いたいことあるなら言えよ。間髪おかずに言い返されるのが癪だとでもいうのか。今更だろう、そんなこと。
「御幸、」
「んー?」
「お前、なんでもかんでも思ったこと言うのヤメロ」
「TPOくらいわきまえてるケド」
「てぃーぴー……?」
「バーカ」
「知るかよンなもん!」
ほら、お前より物知ってるだろ、俺。
さすがにこれは口にしない。この場で激昂されて技かけられたらたまったもんじゃないからな。中学ん時なら躊躇いなく行っていたのかもしれないけど、今は節度をもって喋っている。野球に関することを除けば、結構我慢している方だ。
「ともかく、それでいちいち敵作ってたらキリねーぞ」
「この程度でブチ切れる奴とつるまないから平気だって」
「お前すでに純さんに殴られてるし、亮さんにもいびられてんだろ」
「あれは愛情の裏返し~」
「間違ってもねーけど、ちったあ遠慮しろよ……」
倉持の言うことがさっぱり分からないわけじゃあない。なあなあで穏便に世渡りするのも人間関係では必要だろう。
でも、言わずに後悔するくらいなら言っておきたいし、その程度で切れる縁ならそこまでの関係と割り切った方が楽じゃないか。
そりゃあ倉持は先輩と良好な関係を保ちながら言いたいことを伝えるのが上手い。見た目にそぐわず、人の感情に機微な奴だから、波風立たずに言いたいこと言えている節もある。けど、そこまでする必要が、ただの高校生である自分たちにあるのか。四面楚歌より、八方美人の方が面倒だろ。
「あと」
「あと?」
「すっげー、ムカつく!」
「っはは、そりゃそーだろうな!」
「テメー分かってんなら止めろやゴラ」
「元ヤン隠せてねーぞ」
唇をひん曲げて凄むと、確かに迫力がある。金髪、短ランだったらちょっとビビるかな。
いやないな、だってコイツ、俺よりちっちゃいもん。小動物に威嚇されたって可愛いなで終わるのと、感覚は近いんじゃなかろうか。それに、倉持の迫力が一番増すのは、塁上にいるときだ。盗塁を狙って強かにこちらを見据えてくる。こいつの脚が早いか、それとも俺の手で刺すのが先か。そのときのピリッとした感覚は落ち着かないが心地はいい。
「そうだな、その如何にも元ヤンですって外見でさ、」
「元ヤンで悪かったな」
「そーじゃなくて。その強面? なのに小学生がしそうな注文するってのが笑えんだよ」
「ハァア」
「考えてもみろよ、純さんが少女漫画好きって亮さんに教えてもらった時さ、」
「ああ、腹ちぎれるくらい笑ったな」
「それと同じだって」
「なにが」
「物分かり悪いな、意外すぎて笑えるって話。ギャップありすぎだろ~って」
「あー、……あぁあ?」
例えにしておいてなんだが、思い出したらまた笑ってしまいそうだ。倉持に負けず劣らず目つきが悪くて、しかも何かとブッ殺せと叫んでくる先輩。1個上で恐ろしい先輩はこの人に違いないと思わせる凄味がある(俺は怖いと思わなかったけど)。ただ、身長がそこまで高くはないことと、スピッツというまさかの異名のおかげで、入部したてのときほど恐れられてはいないらしい。
何より真のラスボスがいるからなあ。その人と組んでる倉持こそ、肝が据わっているのかもしれない。
「……そんなに意外かよ」
「ん、いんじゃねーの。かーわいーよー洋一クン」
「うっぜ!」
拗ねて尖った唇が、茶化すと共に横広に開かれた。もう少し、焦らしても良かったかな。倉持が分かりやすく拗ねるなんて、滅多にあることじゃないのだし。後悔先に立たず、せめてその尖ったところを突いてみたかった。そして言ってやるのだ、ブサイク、と。
そのうちに、唇がアヒルのそれと似た曲線を描いた。どことなく綻んでいるようにも見える。視線の先を見れば、注文した料理が近付いてきていた。
ぐう、と腹が音を立てたのはどちらであったか。テーブルにそれぞれの飯が揃えばどちらともなく箸(倉持についてはスプーンだけど)をとった。
きちんとイタダキマスを言っているあたり、躾されてるなあと思う。
「ん、まあまあ」
「へえ、舌肥えてんな」
「ババアのがうめーからな」
「え、っと……。倉持母のオムライス、ってこと?」
「おー」
スプーンに乗ったふわふわのたまごとチキンライスが大きく開いた口に飲み込まれていった。それから人によってはあざといようにも見える唇がふにゅふにゅと動いて、しばらく噛んだところで喉が上下する。まあまあと言っておきながら上機嫌全開、それほとんど美味しいですって言ってるようなもんじゃねえの。
「ここまで半熟してねーけど、ぶわっと厚めのたまごで中の具もいっぱい入ってる」
「ほー」
「夏場とかテキトーにぶつ切りした野菜ぶっこむからすっげえ量になんの。マ、今なら余裕で食えんだろーな」
「へー」
食べながら喋っているせいか、右頬がぷくりと膨れる。リスとかハムスターとか、頬袋がある小動物みたいだ。当然、いつまでも溜めているわけもなく、言葉を止めるタイミングで咀嚼したそれを呑みこんでいるが。
スプーンに取ったらそれが少なかろうが多かろうが、一口で食べる。そんなに突っ込んで大丈夫か、と思えば案の定口の端にケチャップをつける始末。綻んだ表情そのままにすると、それこそ小学生も同然だ。一応、口の端についた感触は分かるのか、時折親指の腹で拭う。
そして、ぺろりと、ぺろり、と。
――ざわり、腹の奥底が騒いだ。
「っ、」
「ンだよ」
「っはっはっは、好みだけじゃなく、食い方も小学生みたいだな!」
「うっ、るせえな! 食いぎたねえのなんざ知ってらあ!」
「なら、直せって」
ほら、今度は米粒が口の端にくっついている。うっかり伸ばしそうになった手を押し込めて、代わりに軽快に笑ってやった。
***
オムライスを子供みたいに食う男。
今も、その味覚は健在なのだろうか。
マンションの自宅に着いた頃には、高校時代のあいつで頭の中がいっぱいになっていた。おかしいな、見かけたのは今のあいつのはずなのに。
荷物を適当において、ひとまずキッチンに。折角帰ったというのに、飯だけ食いに外に行くのは億劫だ。かといってデリバリーするつもりもない。がばりと冷蔵庫を開いて、適当な野菜とベーコン、ケチャップを取り出す。それからバターと冷凍ご飯、卵を二つ。普段から自炊しているおかげもあって、こういう時に事足りる。
一人で飯を食うのも慣れてしまった。できることなら慣れたくなかった、と誰かは言う。
さて、自分はどうだろうか。一人飯が侘しいと、思ったことはおそらくない。ただ、自分のためだけに自分一人分の飯を作って、美味いとも不味いとも思わずに食事を終えるのは、世間一般的にさみしい部類に入るのだろう。
飯なんて食えればいいと思っていたし、今もその考えは強い。けれど、もし自分ではない誰かが美味そうに食ってくれるのならば。それはそれで作り甲斐がある。この性格をして誰かのためだなんて、質の悪い冗談に聞こえるかもしれないが、あえて言おうか、結構本音だ。
「あいつに食わせたら、なんて言うかな」
嘗て同様まあまあ、なのか。それとも美味いと言わしめるのか。その美味いも、倉持母のオムライスより上なのか、下なのか。
実現しない想像に自嘲して、ひとまず飯をレンジにかけた。