今日の夕飯はどうしようか。
 鼻歌混じりに冷蔵庫を開いて、間髪おかずに真顔になった。

 やっべ、スーパー行かねえと。

 何日ぶりかのオフは家から出ないと決めていた。オーバーワークと言われるか否か、そのすれすれの練習を続けていたのだ。こういう時こそ、とことん体を労わってやろう。ちなみにこの休ませるものの中に頭は入っていない。そこまで呆けてたまるか。
 冷蔵庫の前にしゃがみ込んで、なんとか凌げないかと思考を巡らす。巡らすまでもない、おかず一品作るだけの食材すらない。買いに行かなければならないのは、避けられないのだ。
 ちらりと時計を見れば午後6時の10分前。夕方のピークを越えたころだろうか。行けないこともないが、ここにきて新たな予定を詰めるのも癪である。どうしたものか。思いあぐねるほど、胃は空腹に近づいて行く。迷うくらいならば、早々に済ませてしまった方がいい。分かってはいる。
「ん、だけどなあ」
 ため息を床に吐き付けたっぷり8秒。
 途端に重くなった体で、のっそりと立ち上がった。
 財布とスマホと、鍵持って行けばいいだろう。だが、いかにも部屋着で外に出るわけにもいかない。何を着るか。練習の時はジャージで良いし、何か会見があるならスーツを着る。なんでこんなことにまで頭働かせなくてはならないんだ。
 先ほどまでの上機嫌が嘘みたいに、テンションが下がっていく。急降下した気分を引き摺って、自分には大きすぎるクローゼットを開いた。どうせ瓶底眼鏡をかけているんだ、バレやしない。このまま出かけてやろうかという気にもなってくる。しかしパパラッチは些細なことでもネタにしてくる。イケメン捕手様の世間体を保つのも楽じゃない。
 真顔のままア音をどこまでも伸ばし、適当なシャツとパンツを引っ掴んだ。

 閑静な住宅街をふらりと歩く。スーパーまで5分とかからない。車を出すまでもない距離だ。下手に大型車を乗り回すより、ぷらぷらと歩いて行った方が自称・知り合いと遭遇せずに済むのだ。一体、ああいう奴らはどこで俺の情報を入手しているのか。こうやってぐだぐだと歩いているところを目撃しているとでもいうのか。やだやだ。
 左手に緑のコンビニが見えてくる。いっそコンビニ弁当で済ませてしまおうか。いや、添加物をふんだんに使った味は得意じゃない。多少手間暇かかったとしても自炊した方が美味い飯が食える。その飯を食うのが自分だけであったとしても、同じ一人飯なら後者の方が断然いい。なにより体を資本としているんだ、ある程度の栄養管理はしなくてならない。
 視線をコンビニ向こうの十字路に向けた。そこを右に曲がれば間もなくスーパーが見えてくる。何を買おうか、広告も見ないで出てきちまった。昨日肉食ったから、今日は魚かな。ついでに一週間分買いためておこうか。幾分味は落ちるが、ものによっては冷凍してしまえばいい。
 コンビニに差し掛かる際、何の気なしに、ちらりと自動ドアを見やった。
「ふあ、ぁあ……」
 うわ、でっけえ欠伸。
 ショルダーバッグを掛けながら出てきた男は、その欠伸の通り、よれたスーツに身を包んでいた。
 サラリーマンも大変だねえ。営業なんだか経理なんだか知らないけれど、自分じゃやっていけない分野なだけあって尊敬する。椅子に座って机に向かって、そんなの学生の一時だけで十分だってのに。
 俺より一回りか二回り小柄なリーマンは、綺麗に流された前髪をぐしゃりと掴んで豪快に掻き上げた。
 ――現れたのは、やたらと短い眉と、疲労の浮かんだ三白眼。
「って、え?」
「ああ?」
 男の目の前で立ち止まれば、言わずもがな怪訝な声が聞こえてくる。そりゃあそうだよな、俺だってお前の立場だったら似たような反応しただろうさ。もうちょっと、棘のない声になるとは思うけど。
 ぱちりと視線が噛み合って、カウント開始。
 1秒。眉間に皺は寄ったまま。
 2秒。向かって左の口端が、ぴくりと引き攣った。
 3秒。瞳の小さな目が、これでもかと見開かれる。
 4秒。薄い唇が、僅かに波打った。
「っうぉあぁああぅぶぐっ……!!」
 一先ず、絶叫するその口を押さえ込んだ。響いた音色からすると、なかなか痛い平手打ちになったのかもしれない。けれど余計な人目を引くよりはマシだろう。そういうことにしてくれ。ここで反撃すんのは勘弁な。
「はっはっは、いきなり叫ぶこたねえだろ」
「ぐぅ、ぶ……、ぐるっ、ばなぜっ……!!」
「あ、悪い」
 自動ドアから数歩横にずれてから手を離すと、男は大げさに息を吸い込んだ。鼻は押さえていなかったから、そこまで苦しくはなかろうと思っていたのだが。押さえこんだ時の衝撃で息が止まってしまったのだろうか。
 ぜいぜいと呼吸を荒げるそいつを見下ろしていれば、ふつふつと懐かしさが込み上げてきた。未だ俯き気味で息を整えているせいで、旋毛がこちらを向いている。これはもう、することは一つだろう。
「下痢ツボッ!」
「ぅお!?」
 即座に突いた手を退ければ、男はパァンと小気味いい音を鳴らして自らの脳天を平手打ちした。ああ、これもなかなか痛い音だ。じわじわと腹の底から笑いが昇ってくる。まだ、まだ笑ってはいけない。せめて口内に留まれと、下唇を噛みしめた。
――てめぇ、」
「お?」
「ンにすんだ、御幸この野郎!!」
「おおお懐かしいわこの感じ、久々だなあ倉持」
「なぁあにが懐かしいだクソ眼鏡、つーかいきなり何しやがる!?」
「はっはっはっは、眼鏡は悪口じゃねえって」
「っせーよバーカ、残念、デブ!!」
「お前より馬鹿じゃない自信あるし、残念打ち消すだけの男前だし、捕手として必要な筋力つけてるだけだっての」
「禿げろ」
「禿げません」
 細々としたやりとりでセットの崩れた髪は、余計に高校時代を彷彿させる。先日は随分と大人になったものだと感傷に浸ったものだが、その実、然程変わってはいないのかもしれない。
 噴き出してしまいそうな笑いが、くすぐったさを孕んだ温かいものになる。おかげで表裏のない、自然な笑みを零してしまった。それでも胡散臭い、と言われるだろうか。どれだけ信頼されてないんだろうな。いや、俺の性格をどこまでも知っているからこそ"胡散臭い"と言われてしまうのか。
 昔の面影をうっすら重ねて眺めると、まだ驚きの残った顏が少し緩んだ。
「邪気のねー顔して笑いやがって」
「え、」
「あんだよ」
「いや、何企んでんだーって言われると思ったから」
「企んでるときとそうじゃねえときくらい、見分けつくだろ」
「そんなもん?」
「そんなもん」
 これはまずい。にやける。脱力しそうな表情筋を隠したく、眼鏡の弦を直すふりをして顔を覆う。読めないだの食えないだの言われることばかりなだけに、反することを言われるとどうも照れてしまうのだ。こんな些細なことなのに。図星を突かれたって、「なんのことだ」とポーカーフェイスを保てるっていうのに。 
 話題を変えよう。誰がどう見たって食えない顔に戻ったところで、口を開いた。
「ところで、なんでお前こんなトコいんだよ」
「あぁあ? こっちの台詞だっての」
「俺はそこのスーパー行こうと思ったんだよ」
「ハ」
「うわ柄悪ィ」
「……まさか家もこの辺とか言うんじゃ」
「おー、そこのマンション。お前もこの辺住んでんのか?」
「悪いか、あと爆発しろ高給取り」
「悪かねーって。ただ息吐くように悪態吐くのはやめよーぜ?」
 はっはっは、と軽く笑ってやると盛大な舌打ちを返された。とんだお返事ありがとよ。
 まるで先程の俺のごとく倉持は片手で俯いた顔を覆う。けれどそれは、照れ隠しなんて可愛らしいものではなく、げんなりと急降下した気分を持ち直すためのものだ。
 再び向けられた旋毛に、突きたい衝動が込み上げてくる。だが、二度目はないだろう。手首を掴まれ、そのまま捻り上げられるに決まってる。手加減してくれるとは思うが、無様にいたたたと言いたくはない。
「はぁあ俺もうあのスーパー行くのやめるわ……」
「なんでだよ、つーか倉持がスーパーとか笑えるな」
「笑えねーよ、むしろテメーの方が違和感発してんだろ」
「んなことねーって」
「あークッソ世の中狭ぇええ」
 肺の中の空気を目一杯つめた溜息が聞こえると、倉持はコンビニ袋をがさがさと鳴らした。上から覗き見ると、そこにはバランスの取れた色合いの弁当と、やたらとでかいキシリトールガムのボトル。
 そして、骨ばった手の隙間から見える青い缶。
「コーヒー?」
 手のひらですっぽりと覆えてしまう大きさは明らかに缶コーヒーのそれ。
 小気味いい音を立ててプルタブが開くと、迷うことなく倉持の口元に運ばれていく。
 ――見入って、しまう。そんな、馬鹿な、と。
「なんだよ」
「……昔苦手じゃなかったか、一口飲んだとたん口からだばーって」
「んなこともあったか、よく覚えてんな」
「そりゃあ、なあ」
 覚えても、いるさ。

***

 世の中にある普通の高校というものは、テスト期間前に部活停止とやらになるらしい。だが自分たちにそんなものはない。野球をやりたくて入ってきているのだし、費やされる時間に見合うだけの成果を求められる。
 練習してるのはどこも同じなのだから、頭ごなしに結果だ成果だ言われるのに抵抗する奴もいる――が、自分はその結果を出すことに貪欲になるのも必要だと思っている。
 さておき、そんな青道野球部でもテスト間際になれば自主練を控える連中は増える。というか、その時間を勉学に向けないと危うい奴が多いのだ。何を隠そう自分もその部類の人間だ。張った山が大抵当たるため苦労はしていないが、頭痛がしてきそうな範囲から山を見つけるというの楽じゃない。
 そもそも何においても時間を割いて良いものが野球なのであって、他のことで煩わしく頭を悩ませるなんてしたくない。まして、勉強のために時間を割けだなんて。学生の本分と礼ちゃんは言うけど、授業中ですら稀に(本当に稀だ、名誉のために言っておく。稀有だ)舟をこぐくらいだぞ。できることならしたくない。
 でも、しないとならない。なんたるパラドックス。気付け薬も欲しくなる。
「お、」
「あー?」
「倉持クンもお買い物ですか~」
 そこでとりあえずコーヒーでも、と寮の自販機までやってきたのだが。先客がいた。
 風呂から上がったばかりなのか、毛先から滴が落ちている。それでも前髪はどことなく立っているのが面白い。
「うっぜっ」
「はっはっはひっでえな」
 ぴっと指を突き立てた先は、青いラベルが爽やかな清涼飲料水のボタン。よく炭酸水を飲んでいる印象があったが、今日は気分ではないのか。落ちてきたそれを取り出して、さっそくボトルのキャップを捻り喉に流し込んでくのを見ると、何よりも喉を潤したかったのかもしれない。
 俺が自販機の前に立てば、何も言わずに一歩横にずれてくれる。肩こそ触れ合わないものの、無理してこの距離に立つこともないだろうにという位置だ。パーソナルスペースとやらが、極端に狭いからこそなせるのか。
 小銭を入れて、目線の高さにあるボタンを押した。
「うわっ」
「ん、どーした」
 がこんと音を立てて缶が落ちてくる。それからおつりの落ちる音。
 屈みながら声の聞こえた方を向けば、口を半開きにしてまま固まっていた。おい、アクエリ垂れかけてんぞ。
「なんでコーヒー」
「なんでって、……気休め程度の眠気覚まし?」
「ヒャハッ気休めじゃ意味ねーだろ」
 笑ってはいる、ものの、どこか引きつったように見えるのは気のせいだろうか。手の中に納まってしまう缶をプルタブを引っ張ると小気味のいい音と共に微かな香りがした。
 さて、なぜ倉持はそんなことを言ったのか。今の会話だけでは読み取ることができず、からかう言葉もでてこない。間を持たすためにも、折角開けたのだからという意味でも、缶に口づけた。
「……よくもまあ飲めんな」
 一口飲んだところで、小さな、それは小さな声が聞こえた。聞き逃される、あるいは「なんて言った?」と聞き返すことを目的とした響き。だが、ははは、なるほどな。口の端がにやりと持ち上がった。
「あららら、倉持お前、まさかコーヒー飲めねえの!」
「っ! うるせえよボケが!」
 ほら図星。ところどころ味覚が幼いと思ってはいたが、ここでも発揮されるとは。
「よういちくんはおこちゃまだねえ!」
「……苦いじゃんかよ」
「ぶっ」
「笑ってんじゃねーよ!」
「っはは、悪い。でも、そうだな、ブラックじゃなきゃそこまで苦くねえよ」
「……」
「ワー、信じてませんって顔してんなー」
 込み上げてくる笑いを隠さずにいれば、一層怪訝な顔を向けられる。それ、逆効果。眉間にこれでもかと皺をよせ、ガン飛ばしてきたって、もう怖くもなんともない。第一、お前が誇れるのは威嚇する面じゃなく、塁を強かに狙う俊足だろう。
 百聞は一見に如かず、言い聞かせるより体験してもらった方が手っ取り早い。たとえ結果が倉持の思っていいるとおりに終わったとしても、それはそれでアリだろう。なんでって、コーヒー程度の苦味で顔を顰めるのも見てみたいじゃないか。
 にんまりと笑って、一口だけ中身の減った缶を差し出した。
「なら、ほら、ためしに飲んでみ?」
「ハァアア」
「微糖だしだーいじょうぶだって、な」
「ぅぐ、ぬ……」
 押し付けるように渡せば嫌々ながらに缶を握る。意地でも掴まないという選択もできたろうに。
 内容量190グラムの小さな缶を両手で抱えて、ひたすらにその口を睨み付けている。口というより、底から見える黒い水面かな。
 何とかして返せないものかとこちらを窺ってくるが、意地の悪い笑みをそのまま張り付ければ舌打ちを飛ばされた。それに馬鹿にされたままというのも癪なのだろう。じわじわと、スローながらに缶が持ち上げられていくのは滑稽だ。
 ひたり、音も立てずに薄い唇が縁に当たる。そして両手で支えた缶の底が高くなり、一瞬の躊躇いの後、角度を大きくした。いかにも恐る恐る。
 眉間の皺そのままに、両目が細くなっている。閉じているのかもしれない。
「んっ」
 一口、に相当する量なのか、それとも満たないのか。
 横一文字に結ばれた唇が缶から離れ、わずかに頬が膨れた。
「どう?」
「ん、」
 視線の高さを合わせるべく、軽く屈んで倉持を覗き込む。特にこれといった表情の変化はない。からかい倒すほどの収穫はなかったらしい。
 つまんねえな。
 それなら、これ以上コーヒーの中身を分け与える必要もない。側面を両手でしっかりと掴んである缶に、手を伸ばした。

 ――しかし、その判断は、いささか早かったようだ。
「ぅぇ、」
 頬の筋肉が強張る。そのくせ薄い唇は数ミリ開き、声が漏れた。
 缶の縁ごと倉持の親指、それから人差し指に触れると、ぴくっと体が震えた。
「くらもち?」
「うぇ、」
「うえ?」
「ぅぁあぁああ」
「わっ、きったね!」
 口の端からだばりと垂れた液体に半身を引いた。
 とはいえ、その苦しみつつも間抜けな顔ににやけてしまう。すぐに反応を示さなかったのは、飲めるとでも思ったのか。それとも耐えようと思ってのことか。
 完全に流れ落ちる前に拭って飲み込んだ風だが、前かがみになって濁点付きの唸り声をあげている。震える腕でコーヒーの缶をこちらに差し出してきているあたり、恨めしいそれを持っていたくもないのだろう。
「っはは、ほんとに飲めねーんだな!」
「うるせーんだ、よっ! あぁあにっげぇ!」
「あでっ!」
 苦しんでいる割にキレのあるタイキックに悲鳴を上げると、ざまあみろと叫ばれた。引きつった顔で言われると悪の三下野郎にしか見えねえぞ。
 味を忘れようとアクエリを流し込んでいるが渋い表情は変わらない。そこまで苦手ってもはやアレルギーの域なのでは。鳥肌も蕁麻疹も起きていないのだから違うか。
 くつくつと堪え切れない笑いを漏らしていれば二度目の蹴りが尻を襲った。
「飲める方が信じらんねえよ……」
「今時、飲めねえ方がレアだって」
「おぁあ、口ン中変になったクソが」
 目いっぱい開いた口から赤い舌がべっと飛び出す。はは、間抜け面。
 横目で眺めながら、口分減ったスチール缶を傾けた。舌に乗るのは苦みと酸味と、わずかな甘み。日常的に飲みたくなるほど美味いとも思わないが、別に特段不味くもない。カフェイン摂取で飲んでいるといったところか。眠気をどこまでも吹き飛ばす、なんて効果は期待していない。きっと気分の問題だ。それでも、何もしないよりは良い、気がする。
 自分にとってはその程度の飲料。
 げっそりとした倉持から目を離し、そっと前歯で缶の縁を噛んだ。
「ん?」
「ぉえっ、……どーかしたか」
 かちりという音も立てずに、もう一度縁を噛む。けれど頭蓋骨には大げさな音が響いた。骨振動というやつだ。たぶん。
 ヘの字に歪んだ薄い唇を見やると、ピントのぼけた襟足から滴が落ちた。首筋に着地した透明な粒は、重力に逆らうことなく背中に流れていく。
「これさ、」
 ぽつりと漏らしたところで、続きを言うべきか躊躇ってしまった。珍しいこともあるもんだ。いつもならば、煽るように笑いながら流れるように口から飛び出すというのに。
「なんだよ、気になんだろーが」
「……いや、やっぱなんでもねー」
「あっそ」
 下の歯で縁を引っ掻いてから、残りのコーヒーを流し込んだ。あっという間に缶は空になる。
 特に続きを促すこともなく、倉持は首を傾げてから寮の自室へ帰るべく背を向けた。ぱたりと、また滴が首に落ちる。ぼんやり見送りつつ、倉持よりは厚みのある唇を、缶の縁に押し当てた。
 ゆったりと、顔が熱くなってくる。

――関節キスじゃん)

 我ながら気持ち悪いなと自嘲して、自販機脇のごみ箱に缶を押し込んだ。
 
***

 ぼんやりとしている間に、缶は空になったらしい。コンビニのごみ箱に落ちて、ガラゴロと音を鳴らす。
 飲める奴の気がしれない、と数年前までは言っていたのにな。もう、おちゃまですね、なんてからかえないな。お互い大人になったんだ、いつまでも過去を引き摺るわけにもいかない。
 頭を切り替えるためにも、先ほど目に入った別の物に、話題を移した。
「なあ、それ、夕飯? 自炊しねえの」
「する気力ねーンだよ」
「不摂生だな~」
「っせーな、野郎の一人暮らしなんざそんなモンだろーが」
 一人暮らし、という単語に反応しかける。
 恋人は、いないのだろうか。いや、アラサーにすら突入していないのだ。仮に恋人と名のつく女性がいたとしても、同棲しているとは限らない。過度な期待は、するだけ損をする。学生時代の幻影を追いかけるのと同じくらい、無益だ。今を見なくては。
「なら、さ」
 と、思いはしても、心のどこかで付け込もうとしてしまう。
 極力、さりげなく、人が好さそうに、下心を悟られないように。性格が悪いだとか、歪んでるとか、友達にはなりたくないとか、そういう要素を排除した声を意識する。震えてはいないか、上ずってはいないか、柄にもなく緊張している。声色に現れていないことを祈るばかりだ。
「あ?」
「っ俺ン家、来ないか。つっても、今から買い物しなきゃなんねえんだけど」
 なんてことはない誘い文句。女を口説くみたいに、甘ったるくする必要はない。どこまでも軽く、自然な音色。ちょっと飲み行こうぜ、と絡んでくる先輩や、あのアナウンサーなんかエロくないっすか、とふざける後輩のごとく。
 いつからこんな小心者になったんだろうな。奥手な質じゃなかったはずなのに。
 三白眼を瞬かせた倉持は、一度薄い唇を開き、しかし言葉を発することなく閉ざしてしまった。斜め上に視線が流れるのを追いかけてしまう。嘘を吐くときはどこを向くんだっけ。誰かに聞いたはずだが、どうにも思い出せない。
 決して長い時間ではない。けれど、やっぱり言わなきゃ良かったと後悔させるには十分な時間。いいよでもパスでもなんでもいいから返事をくれよ。たかたか加速の一途を辿る心臓を思考の外に放り投げて、再び口が開くのを待った。
 かすかな山を描いた唇が、ぴりぴりと割り開かれていく。薄いのに、柔らかそう。ぐにゃりと沈んだ先にある歯列をなぞりたい。さらに奥にある舌を摘まみたい。
 チロッと、赤いそれが視界を掠めた。

 ――ああ、噛みつきたい。

「っはは、かの御幸一也に作ってもらうたあ豪勢なメシだな!」
「っ、」
 今、何を思った?
 学生時代滅多にお目にかかれなった苦笑を捉えると、一気に頭が冷えていく。
 早鐘だか警鐘だかを打ち鳴らす頭は、緊急事態発生と忙しなく回転する。ともかく、今は。今だけはこの焦りを気付かれぬようにせねばならない。
 息を吸うのにまぎれて口内の唾液を飲み下すと、目の前の面と同じく、苦笑を作った。うまく笑えているといいが、どうだろう。
「そんなたいしたもんじゃねえって」 
「んー……、今日はいーわ。明日朝早ェんだ」
「ぁ、そ?」
「おー、じゃーな」
「おう、じゃあ」
 ひらっとやる気なく振られた手は、限りなく記憶のそれと近かった。職とはしていなくとも、まだ野球は続けているのかもしれない。代わりに、現役のときよりも若干薄くなった体は、すっかりくたびれたスーツと馴染んでいる。
 振り返ることなく帰路につく倉持を見送って、一難去ったと安堵する。
「フラれちゃっ、た」
 ほとんど口の中で零して、自分もまたスーパーへの道を歩き始める。
 明日朝早い、と何気なく返されたそれはきっと事実なのだろう。意味もなく嘘を言うやつじゃない、し、吐いていたとしたらもっと下手くそで、分かりやすい綻びが見えるに決まっている。
 そう、思っているだけで、嘘を吐くのが上手くなっていたら。……やめよう、鬱になる。
「今日はいーわ、かあ」
 何と無しに反芻する。じゃあいつだったら良いんだろ。
 三秒考えたところで、――気付いた。
「今日、は?」
 倉持本人はそんなつもりないのかもしれない。それか社交辞令としてそう口走ったか。どちらにせよ、粗暴な外見に反して誠実なあいつのことだ、"今日"ではなくとも"後日"必ずしてくれるに違いない。
 誰かとの約束に、これほど歓喜したことがあったろうか。いつだって内心悪態をついていたはずなのに。天にも舞う思いで、足取りは自然と軽くなった。