MVPに選出された秋のこと。
 その朗報を聞きつけてか、懐かしい面子に呼び出された。

 けど、会って第一声が「おごれやMVP!」は、さすがに酷くねえ?

 気分よく酒を飲めたのはいつぶりだろう。飲み屋から外に出ると、酔って火照った体には心地のいい涼風が通り過ぎていった。空に向けて吐いた息はほんのり白く濁って消えていく。今年もとりあえず一段落。
 狙っていた、とまでは言えないが、取れるのではないかという確信が持てた今シーズン。的中した予想にほくそ笑んでいたところ、嘗てのチームメイトから連絡が来たのだ。祝ってやりたいから、予定を教えてくれ、と。
 そして今日集まったのは、高校時代の一つ上が数人と、同輩が相当数、それから一部後輩がちらほらと。労いの言葉もたくさんもらった。例えば、そうだな。
 20でスタートした後輩は真っ直ぐ素直な「おめでとうございやす!」
 10で支えた同期は控えめながらに「すげえな、ビビった、おめでとう」
 8を担いだ強肩強打だった先輩は「やりやがったなこの野郎!」
 3が頼もしかったクラッチヒッターは「おめでとう、だが次は負けない」
 1を背負って、ついこの間もマウンドに立った後輩は、眉間に皺を寄せて片言の「ドウモオメデトウゴザイマス」
 悪いな降谷、お前の球もう打ちやすいんだわ。笑って返せば無言の圧力。怖くもなんともなかったけどな。
 ぞろぞろと前を歩くいくつもの背中は、良くも悪くも変わってしまった。大学野球を経てプロに来た人もいる。かと思えば、高校を卒業してすっかり離れた奴もいる。一個上のある二人の体格差に噴き出して、片方から拳骨をいただいた。だってあれは笑うだろ。先頭にいるその影に、こっそりと笑みをこぼした。
「……まーた純さんに殴られんぞ」
「こんだけ離れてりゃ大丈夫だって」
「ワー、チクってやろ」
「やめよう!?」
 慌てて振り返れば、会計を済ませた倉持がくっと喉で笑った。続いてナベが店から出てくる。この2人で幹事をしてくれたので無茶ぶりをされることもなく助かったが、ちゃっかり多めの額を請求してきたのはさすがである。鬼と仏に挟まれたら断るわけにもいかないだろう?
「先輩たちは二次会行くみたいだけど、御幸はどうするの」
「んんん、明日朝から取材あっから帰りてーんだけど……」
「へぇ、純さんと亮さんから逃げれんのか」
「逃げ、に……、逃げれると思うか」
「無理だな、そもそもおめーの祝賀会だし」
「はははがんばってー」
 祝賀会といっても名目だけで、集まって馬鹿話する口実になっただけな気がしてならない。まったく、我関せず過ぎるこいつらが恨めしい。せめてゾノやノリみたいに絡まれろちくしょう。
「ん? つーかなに、頑張って、って。ナベ行かねえの、倉持は、」
「僕ら明日早いからね」
「社畜なめんなー……」
「あはは、倉持、苦手な取引先のとこ行かなきゃなんだっけ」
「おう」
 幹事2人は疲れを滲ませながら目を合わせて無理やり笑い声をあげる。大学が同じということで何かとつるんでいるのは知っていたが、社会人になった今でも続いているのか。互いのことを、どこまで知ってるんだろう。
 どれほど、ナベは倉持のことを知っているんだろう。
――お前らって、さ」
「だぁってよお、この前思いっきり負かしたとこだぜ!?」
「盗塁するたび、あっちの投手すっごい顔してたよね」
「そいつだよ、あそこの営業そいつ! もーやだ!!」
「……待って、何の話してんのお前ら」
 はと、さっきまで話していた内容と、今聞いた内容とがかみ合わない。
 仕事が嫌で、営業先が苦手な奴で、それで倉持が頭を抱えているのは分かる。そこになぜ野球が入った。盗塁だ、投手だ、つながりが読めない。それで流れに違和感を抱いていないこいつらは一体なんなのだ。
「倉持ってさ、うちのベビーフェイスなんだよ」
「うちの……?」
「突っ込むとこそこかよバァカ」
「いやだって、……えっ、なに、は?」
「あれ言ってなかったかな、僕と倉持、就職先まで同じだった話」
「なにそれ、聞いてねえ!」
「まー、お互い入ってから知ったもんな」
「そうなんだよねえ、卒業式のあと入社式で会うとは思わなかったし」
「しかも同じ課かよ!?ってな。就活ンときは会わなかったのによォ」
 話が少しずつ読めてきた、ようなそうでもないような。
 とりあえず、こいつらがお互いの仕事内容を知っている理由は分かった。今日の幹事を務めたのも、打合せする都合が良かったからこそこの2人になったのだろう。なるほど、「うちの」の意味はよく分かった。
 では、次だ。
「ベビーフェイスってどういうことだよ、むしろヒールって柄だろ」
「あぁん、るっせんだよ胡散臭ぇクソ眼鏡が」
「眼鏡は悪口に入んねえっての」
「クソが」
「そこだけ残すなよ」
「……ちょっと意外かも」
 ぽつりとナベが呟いた。そっと振り返ると、入れ違いに倉持は同室だった先輩および後輩に突撃していった。何やら馬鹿笑いを始めた後輩が目に留まったらしい。ベビーフェイスだヒールだの件はいいのか、俺は良くない。
 ため息を吐けば、ナベはくすくすと笑みを零した。余裕すら感じさせる姿は優秀なエリートリーマン。くたびれた印象を持った倉持とは相当な差がある。こんなことを言えば迷うことなく首を絞められそうだ。でも、目に入った限りではそう抱いてしまう。
「ほんとに倉持と連絡とってなかったんだね」
「あー、うん、まあ。特に用もなかったし」
「用ならいくらでも作れるだろ」
「……例えば?」
「えー、そうだな……」
 おそらくナベも倉持も営業。口が回る方かといわれたらそこまででもないが、説明が上手いとか、相手の思考をくみ取るのが上手いとか、そういう点で配置されたのだろう。さて、その営業様はどういう"用"を作るのか。参考にさせてもらおうじゃないか。
 なんて、

――会いたい」

 なん、て。
「っ、」
 息を呑んだ。口元を静かに綻ばせるナベは、まあ、大人になった。冗談でもこういうことを言うやつではないと思ったのだが、俺の思い違いだったのか、それとも時間が彼を変えたのか。
 だかだか鳴り始めた心臓は、試合中にもロードワーク中にも匹敵しそう。酔いが一気に抜けていく。頭が醒める。
「御幸のことだから、もう言ったもんだと思ってたんだけどなあ」
「は、はは、はっはっはっは……、」
 すっかり食えなくなりやがって。
 乾いた空気を笑って吐き出したところで、鼓動は落ち着いてはくれない。
「一応、聞いとくわ」
「どうぞ」
「言うって、何を?」
「さあね、倉持にでも聞いてみたら?」
 じゃあ俺は巻き込まれる前に帰るね、倉持によろしく。
 ひらっと手を振って、ナベは通りがかったメトロの階段を降りて行った。幹事ってこんなに簡単に帰っていいものなのだろうか。片一方が残っているからいいのか。
 亮さんよりも、質が悪い。過剰に働いた心臓のおかげで顔に血が集まってきた。火を噴くみたいに熱い。ほとんど最後尾を歩いているからいいけれど、誰かに、それこそ倉持になんかに見られたら。羞恥で死ねるかなあ。
「どおおした御幸一也ぁああ、今さら酒が回ったかぁああ!」
「はっはっはっは、もっと面倒なのいたわー」
 あとこっち指さしてくんな。それに俺先輩な。もう関係のない団体にいると言われようと青道OBである以上先輩と後輩の上下関係は死ぬまでついてくるから覚えとけ。
 あまりに声が大きすぎたため、そばにいる増子さんと倉持、双方から「うるせえ」と拳骨を喰らっているのがあいつらしい。お前はもうちょい成長した方が良いぞ。それでよく社会人やってんな、いっそ尊敬する。
 ご勘弁を、なんて、これまた大きな声で沢村が何かを2人に献上した。増子さんがどことなく満足そうな顔をしているあたり、食べ物だろうか。貶しながら倉持もそれを手に取っている。なんだろう。
 ぼんやり見つめていれば、俺に気付いた倉持が歩むペースを落とした。必然的に俺が追いつき、横に並ぶ。
「な、んだよ、どうした」
 上ずった、穴があったら入りたい。
 目を見ていたくなくて、手元に視線を落とした。指先には、透明な小袋に入った水色の丸。どうやら、今しがた沢村が捧げたのは、飴玉であったらしい。
 爪の切りそろえられた指が袋を摘まみ、縦に引き裂く。水色を挟んだ親指と人差し指は口元に近寄り、袋はジャケットのポケットに突っ込まれた。甘い丸を目で追えば、間もなく薄い唇にたどりつき、からん、口内へ。
「帰りてえんならナベみたいにしれっと抜けろよ、純さんたちなら誤魔化しとくし」
「ああ、……って、お前はどうすんの」
「行くに決まってんだろ」
「明日早いのに?」
「飲まなきゃ二徹三徹ヨユー」
「そこは帰って寝よーぜ?」
 軽口を叩いていても、頭の中ではナベの言葉が駆け巡る。なんだと言うんだ、踊らされるのは性に合わない。なのにつっかえる。
 俺がこいつに言うことって何だ。言いたいことは、言いながら過ごしたはずだし、今もそのスタンスに変わりはない。そりゃあ大分言って良いこと悪いことの分別はつけるようになったけど、それでも多くの言葉は伝えている。ならば気にすることは何もない。
 ――気になって、仕方がない。
 ちらり、面の皮の下に疲れを浮かべた倉持を見れば、もごもごと飴を転がしていた。
「ん?」
「おら、このままだと連れてかぇんぞ」
「いやそれは構わねえんだけど」
「いーんかよ!」
「まあ。いやそっちじゃなくてさ、」
「ハァ?」
 舌に飴が乗っているせいで、ところどころ発音が濁る。舌っ足らず、幼児染みてる、酔っぱらい。くるくる単語が頭を巡って、その流れにするりと記憶が飛び込んだ。
「飴、噛まねえの?」
「なに言ってんだおめー」
「あれ、倉持ってすぐ飴噛み砕いて食ってた気がすんだけど」
「飴は舐めるもんだろ」
「そーだけど、」
 そうじゃなかった。
 首を傾げると、訝しげに表情を歪められた。

***

 ようやく解放された。
 自主練中の沢村に捕まると良いことがない。いや、調子を見てやれるという意味では良いのだが、ただでさえ運動過多の投げ込みすぎなのだ。休ませることも必要だと、あの馬鹿はいつになったら覚えるのやら。なんとか言いくるめて、寮まで戻れば、渋々と言わんばかりの顔のまま5号室に入っていった。
 さて、自分も部屋に戻ろう。主将を継いだとはいえ、もう3年生が部屋に押し寄せてくることもない。快適に睡眠時間を確保できる。物足りなさを存分に孕ませた息を吐いて、自室に足を向けた。
 その時だ。
『せぇぇええつこぉぉおお!』 
 導線を焼き切りそうな、馬鹿でかい声。扉越しなのに鼓膜がぴりぴりと痺れる。自分でこうなのだから、同じ空間にいるであろうあいつは、どうなったろう。
 足を止めたついでだ、そっと5号室のドアに手をかけた。
「~~っるせえんだよテメーはいちいち!」
「ぉおおぁああだっでぞれはねえですよぉおお」
「ヒャハハッ、で、食うの? 食わねーの?」
「いだだぎばず……」
 からん、と軽い音が鳴る。
 首を傾げてドアを開けば、地に這い蹲る沢村の背中。その前で、一段高い床に倉持がしゃがんでいる。歯を見せて、独特の笑い声をあげてだ。
「……今の、何?」
「あ、いねーと思ったら今日もこいつに絡まれてたのかよ」
「えっ、何か用事あったのか」
「いんや、高島センセがスコアブック返せってさ。伝言」
「あー……、そういや早く返せって言われてたな」
「せつごぉぉおお」
「まだ言ってんのか」
 亮さん直伝であろう手刀が沢村の脳天に落ちる。見た目以上の衝撃らしく、地面に突き立てていた両腕ががっくり折れた。肩を打った様子はないが、まあ倉持のことだ、そのへんの配慮はしているか。
 未だに沢村はその単語を連呼する。扉に隔たれた一瞬に、倉持は一体何をした。大変に面白いものを見逃した気がしてならない。面白いことは共有するべきだろう。
「それで、こいつに何したの?」
「大したことじゃねーよ、これ、くれてやっただけ」
「……ドロップ?」
「せつくぅぉお」
「うるせえっての」
 からからと缶の中身を揺らしつつ、二度目の手刀が入る。
 飴を見て、せつこと喚いて、這い蹲る。
 なんだっけ、何かで見たような、いや読んだのだったか。元ネタがあるはずなのだが、パッと浮かんでこない。とりあえず世間一般にいう悲しい話のワンシーンだった気はする。野球絡みでもグラビア絡みでもなけりゃ、覚えるに値しないと処理する頭じゃ、この程度の記憶が限界だ。
「あれだろ、あれ、……この辺まで来てるけど、出てこねえ」
「ぬぬぬ、火垂るの墓を知らんとは、御幸一也けしからん!」
「はい馬鹿ー、こんなんでも先輩なんだから敬語使ってやれ」
「ぉぐフっ……!!」
 三発目。俺の方を振り向いたところに後頭部強襲。今までで一番強かったようで、沢村の叫びも大きかった。そりゃあ、扉越しに聞いた絶叫と比べたら可愛いものだけど。
「昨日金ロでやってたんだよ。それ見て散々泣いてたから、今日もからかってやろーと思って」
「それで小物まで用意したワケか」
「おもしれーモン見れたろ」
 特徴的な笑い声を響かせて倉持は沢村の襟首をつかんだ。そして「どけ」と言わんばかりに退けると、ドロップと、それから財布を片手に立ち上がった。ぶぇぶぇと鼻水やら涙にまみれた沢村も、ふらりと立って部屋の中に入っていく。
「じゃ、飲みモン買ってくるわ」
「ふぁい……」
「……さっさと風呂入って来い。戻ってもそのままだったら絞めるからな」
「ッあす! いってらっしゃい!!」
 ドスの聞いた声を耳にした途端これだ。びしっと敬礼までしてから、慌てたように沢村が動き出す。さっきまで泣きぐずって蹲っていたのが嘘みたいだ。
 誰かの言うことはまるで聞かねえっていうのに。カチンとくるものもあるが、すぐそばにチーター様がいるからやめておこう。なんだかんだ後輩思いなのだ、こちらが痛い目をみるに決まっている。
「おら、おめーも用ねえならさっさと帰れ。んでスコアブック返して来い」
「ん、あぁ」
 カランと、軽い音が響いた。ドアを閉める音と重なったはずなのに、なぜだか明瞭に耳に飛び込んできた。その音源であろう倉持を見れば、案の定、手の平に出したドロップを口に入れたところ。流れるような動きで、何色を食べたのかまでは分からない。
 代わりと言ってはなんだが、垣間見えた赤い舌ばかり目に焼き付いている。
「んだよ、食うか?」
「え、あ~いや……、いいわ遠慮しとく」
「ふぅん、そ」

 ――ガリッ

「うん?」
「あ、今度はなんだよ」

 ゴリッ

「んんん?」
「だーから、なんだってんだよ!?」
 目を疑う、ならぬ耳を疑う。
 もごもごと口を動かす倉持は、眉間にこれでもかと皺をよせた。機嫌を損ねてしまったか。しかし、今のを見たら誰だって、こんな反応になるに違いない。別に俺だけが特殊ではない、ということだ。
「いくらなんでも早すぎだろ!」
「ハァ?」
「飴だよ、飴! 食って3秒で噛むってなに、お前、ライオンだってそこまでしないだろ」
「あー……、チーターらしいからなあ、俺」
「そこじゃねえよ!?」
 倉持はドロップを食べた。一言二言喋った。かと思えば、なんの迷いもなく飴を噛み砕いた。この数秒で噛んでしまえるほどの大きさになるだろうか、いや、なるはずもない。明らかにこいつは、口に入れたのときとほぼ変わらない大きさのそれを、躊躇いなく噛み砕いたのだ。
 それをしたのは自分ではないというのに、奥歯に何かが詰まった気になる。がりごり、じゃりじゃり、あたかもそう食べるのが当然と言わんばかりに倉持は咀嚼しているが、普通、噛もうと思う硬さの物ではない。
 キャラメルを食べたのと相違ない口の動きに絶句。飴が砕かれていく音さえ聞こえなかったら、勘違いすることだろう。
「なんか噛みたくならねえ?」
「なんねーよ、いや、薄く小さくなったならまだ分かる。けど、お前のは早い、早すぎ」
「……昔からの癖なんだよ」
「癖、って、飴噛むのがか」
「それもだし、なんつーか、……噛み癖あんだよ。とりあえずなんでも噛んじまう癖」
「なんでも、って、」
 何歳児だよ。
 それを呑みこんだ自分を褒めてやりたい。
 だが一方で、思い当たる節がいくつかある。教室の机に置かれた紙パック飲料のストローは、必ずと言っていいほど平らに潰されていたし、当たり付きアイスの棒にはいくつもの歯形がついていた。一度じゃなく、何度か見かけることだったため印象に残っていたが、自覚もあったのか。
「が」
「ガキっぽいな、ってか? んなこた知ってらあ」
「ははっ、治そうとか思わねえの?」
「気付いたらしちまってんだ、治しようがねえよ」
 そこは意識するだけしておけよ。もしかしたら治るかもしれないだろ。
 そう思いはするものの、がじがじと噛んでしまう倉持の、どこか幼い姿を見れなくなってしまうのも惜しい。なぜ惜しいかの理由は具体的に浮かばないが、からかうネタが多いにこしたことはない。……ということにしておこう。
「そういや噛み癖ってさ、欲求不満の現れらしいぜ」
「ガキ扱いしといてなんだそりゃ」
「マジマジ。何かにつけて沢村のこと構ってやってるけどさあ、」
 ああ、きっと今、人の悪い顔をしているのだろう。自然と持ち上がった口角は、決して人好きのするものじゃない。倉持の米神に青筋が浮かぶのも時間の問題か。けれどやめられない。これが俺の性分なのだ。
「ちゃーんと、――抜けてんの?」
「……ハッ」
「あでっ」
「おめーに心配される筋合いねーぇよ!」
 タイキックでも、ヘッドロックでもなく、デコピンで済んだのは存外倉持の機嫌が良かったからなのだろうか。咄嗟に声をあげてしまったものの、構えていた痛みに比べればなんということもない。
 惰性で額を押さえながら倉持の隣に並べば、もう飴は噛み潰してしまったらしい。歩くたび、ドロップのからからという軽い音ばかり響く。磨り潰すかの、低いそれは、もうしない。
「……なあ、」
「んだよ、まだなんかあんのか」
「やっぱ1個ちょーだい」
 手の平を差し出した。すると返事より先に、缶が向けられた。カラン、ガラン、2回振って落ちてきたそれは、暗がりで何の色か分からない。何色であっても、甘ったるいことに代わりはないが、薄荷味でなければいいな。
 口に放り込めば、わずかな酸味。レモンか、すももか。舌に乗せた飴が前歯の裏を掠め、上顎に触れた。このまま押し付けていれば荒れてしまうな。自分の骨を伝って響く音は、隣を歩くこいつには届かない。
 割れないように、外に鳴り響かないように、ドロップの表面を削った。
「どーすっかな、食いきれる気がしねえ」
「後輩とかに押し付けてみれば? 人数いるんだし、物珍しさですぐなくなるだろ」
「そんなもんかあ?」
 蓋をせずに次の1個を取り出すと、さっきと同様、ぱくりと口に入れた。今度はすぐに噛み砕いてはいないようだが、時間の問題かもしれない。
 かりかりと、自らの口内では飴を削り、引っ掻く。
 豆だらけの手を、深爪気味の指先を、形の良い耳を、鼻先を、日に焼けたうなじを。こんな風に甘噛みできたらどれほど心躍るだろうか。いっそ、飛び出た喉仏に、リンゴを食べるが如くかぶりつけたらなら。
 飴を食べているということ抜きにして、過多に出てきた唾液を飲み下した。
 ――欲求不満は、

***

「いや、どっちだよ、って話だったな」
「知らねーよ、何の話だ」
「あー……、噛み癖は欲求不満、って話」
 あんな些細な話、覚えているわけもない。散々からかわれていた沢村ならば、ドロップと聞いて苦痛の思い出を語りだすかもしれないが、からかった本人は何気ない日常として忘却していることだ。
 案の定心当たりがないと、倉持は口の中の飴を転がした。
「欲求不満とかは置いといて、」
「ん?」
「ストレスは溜まってたんじゃねーの」
「ナニソレ初耳」
 横目で眺めていたところだが、つい、顔を向けてしまう。ついでに頬が引きつる感触。ポーカーフェイス様が聞いてあきれる。
「そりゃそーだろ、やたら絡んでくる先輩がいて、うるせー後輩がいて、しっかもテメェの信念意地でも曲げねえ同期が揃ってんだぜ? よくもまー、爆発しなかったモンだ」
「……爆発、しなかっ、た?」
「個人的にぶつけたのは除く」
「アッハイ」
 これは悪いことをした、と思えば良いのか。それとも迷惑をかけた、とでも? 自分が主将となってからの行いを顧みれば、いくらでも該当することが出てくる。退部云々の話が出たときも、誰かの怪我が絡んだときも。よくもまあ見限られなかったものだ。
「ほーんと、青かったわ」
「同感だな。だっせえこともしたし」
「お前は特にな」
「はっはっは、まったくもってその通りです」
 どことなく言葉に刺があるのは気のせいだろうか。間違いなく、怪我を隠していたことを、何年も経った今なおなじられている気がする。それだけ心配してくれたということか。いや、あれ明らかに心配してる顔じゃなかったろ。ふざけんなクソがって、罵る手前の面してたって。
「まあ、見てるか蹴っ飛ばすかしかできなかった俺も俺か」
 なんだ、自覚もあったらしい。
 当時は人の感情に機微なくせに一直線だったから、からかうのも楽だった。それが今じゃなかなかつけ込めない。でも今なら、茶化すくらい許されるだろうか。お互い酒も入っているし、久々だし、ちょっとくらい良いだろうか。
「……じゃあ、今なら、なにしてくれんの?」
「ん? んー……」
 何もしねえよバァカ、とでも怒鳴られるかと思ったが、意外と真面目に考えてくれている。脈あり、なんて。
 ――余裕は刹那に飛び散った。
 肩に腕を回されたと思えば、身長差ゆえに背伸びしてくる。回った腕の先は、そのまま肩を掴むことはない。ぱきりと肘で曲げられ方向転換、くしゃりと髪に指を通された。はっと首を倉持の方を向こうにも、体が強張って動けないときた。
 近い。体温を、切に感じる。アルコールのせいで、わずかに火照った肌。左耳にうっすらかかる吐息。吐息って、まさかあの薄くも形の良い唇が、息のかかるほどそばにあるということか!?
 深く、低く、心臓が脈打った。そして、ぱきり、薄くなった飴の割れる音。

――オメデト、MVP」

 囁かれたのは、ただ、それだけ。耳元で、優しい声で、あたたかい波を持ってくる。ようやく首を動かして、まさに目と鼻の先に迫った倉持を見れば、――ああなんということだろう、初めて見たんじゃないか、こんな、こんな、穏やかな顔。
「くっ、」
 くらもち、名前を呼ぼうと思った。なのに喉でつっかえて出てこない。目が回る。天地がひっくり返る。これだけのことに、動揺しているなんて、絶対に知られたくない。それこそ最優秀防御率をとった同期投手とか、それに匹敵した自称「金のなる木」の投手とかには、絶対にだ。絡んでくるもん、あいつら。
 なんとか息を吐き出すと、穏やかなその顔が、ゆったりと歪んだ。線が切れたように、緩む頬。
 ぷっと噴き出した倉持は、続けて白い歯をこぼした。
「どうだよ、昔よりかは上手く甘やかせたんじゃねー?」
「ぁ、ああ、……そうだ、な。そうですね」
「んだよその反応、物足りないってか」
「イエまさか、全然、むしろ、」
 キャパオーバーしそうです。
 するりと離れた倉持の熱に、淋しさを感じてしまう。つまらんと尖らせた唇が、ほんの数秒前まで耳元にあったと思うと。気が動転しそうだ。
 顔を覆うのには片手で事足りる。小顔だから、手が大きいから、理由はいくつかあるだろう。でもそんなこと、今はどうだっていい。ぺちりと音を立てて、その表面を覆えることに、なんら代わりはないのだから。
 もう認めなければならない。なんとなくで、目をそらしてもいられない。

 ずっと、お前に恋焦がれている、ということを。