たった一行、されど一行。
 その一言を送るというだけのことに、まさかこれほど頭を悩ませることになろうとは。

『オフなんで構ってください!』

 我ながら、これはひどいと思った。
 推定、倉持の昼休みに送ったその一行。末尾をハートにしようかとも思ったが、それでは躊躇いなく"死ね"と返ってくる。そんな予感がしてやめておいた。
 昼の12時を通り過ぎて30分。返事はまだだろうか。送信をタップしてたった十数秒しか経っていないのに、心が落ち着かない。時がやたらとスローに流れる。世界がゆっくりに見えるなんて、どうせなら打席に立った時だけにしてくれないか。何気ない日常にまで神経を擦り減らしたくはない。
 白のスマートフォンを握りしめた。だから返事がくるというわけではない。手持ち無沙汰で、どうすることもできない。時間も時間なのだし、昼飯でも作って待っていればいいさ。そう思って送ったのに、操作した体勢からろくに動けやしないのだ。なんてこった。
 自覚して一発目、玉砕はしたくない。つい、手に力が入り、機体が軋んだ。
「あぁー……、止めときゃ良かった……」
 ソファに体を沈み込ませる。とりあえずのインテリアとして買った割に座り心地はいいが、二人掛けのそれに一人埋もれるのは物悲しくもある。隣に誰かいたら、この侘しさは消えるのだろうか。それこそあいつが隣にいて、肩なんかにもたれかけてくれたら。利き腕は避けて、左側に座ってくれんのかな。別に触れてなくたって、そばにいてくれるだけでもいい気がしてきた。
 まったく、数年越しの恋に気付いてから、思考が女々しいったら。
 天井に向けてため息を吐き出せば、スマホを握った手からも力が抜けた。
 ――そして、振動。
「うおっ!?」
 落としかけたそれを改めて握りなおす。ごくりと唾を呑みこんで画面を見ると、漢字四文字が横書きに表示されていた。バイブレーションはまだ止まらない。
 待て、どういうことだ、俺はラインで送った。なら、同じそれで返事も来るはずだろう。無理、とか、うぜえ、とか。きっと一単語まず送り付けて、こっちが反応を返すより早く次の一文を叩き込んでくる。たぶん、そうだろうと思ったのだ。
 なのにどうして、どうして着信が来る!
「んんっ、……あぁ、もしもし?」
 咳払いをしてから、静かに画面を指でなぞった。
『遅ぇ、ついさっきだろ、さっさと出ろや』
「っ、ちょっと……、離れてただけだって。飯作ろうと思って」
 すぐに電話に出たとしても、早すぎキモイって言うだろお前。
 いつもの軽口は電話越しですら出てこない。声になったのはその場しのぎの嘘。言葉にするのに少し詰まった、バれたろうか。機械に隔たれているのだし、頼むから気付かないでくれ。
『良いご身分だなこの野郎』
「なぁんか荒れてねえ、都合悪かったか」
『べえっつにィ?』
 あの薄い唇をこれでもかと大きく開いて喋っているんだろう。それこそ、歯茎が見えそうなくらいに開いて。タイミングが悪かった。深夜であっても、昨晩連絡したらよかったろうか。そうしたら、不機嫌を理由に断られることもなかった、かもしれないのに。
 まだ断られてないというのに、何を考えているんだ。舌打ちやらため息やらを呑みこんで電話の向こうに耳を澄ました。
 ふと、エンジン音が流れ込んでくる。
「あれ、今、外にいんの?」
『おー、外回りして戻るとこ』
「は~、はっはっは、ほんとにサラリーマンなんだな」
『……テメェは俺をなんだと思ってンだよ』
 不機嫌が薄れ、呆れが増してくる。俺に対してあれこれ激昂しても無駄だと悟ったのか。それとも屋外で馬鹿みたいに声を荒げることに疲れたのか。表情を見たい、そうしたら、手に取るように分かる。倉持のぼやきが鼓膜を揺らし、迫っていた後悔の大波が凪いでいく。
「倉持の都合よかったらで良いんだけど、」
『ソレ今日?』
「あ、ああ、急で悪いな」
『ほんとだよ、せめて昨日のうちに言えっての……』
 これは砕け散る流れかな。言外にある、そしたら都合付けたのに、が伝ってくる。
「気にすんなって、なんとなく声かけただけだし」
 倉持を相手にすると、最近苦笑いしてばかりだ。昔なら、からかってはヤらしい笑みばかり浮かべていたのに。たまに仕返しを喰らって、甲高い笑声を突きつけられたっけ。
 まだ若者と呼ばれる歳なのに、しょっちゅう高校時代を懐かしんでしまう。じゃあ、またな。そういって切ろう。この話はココで終わりだ。誰にも見られていないのに、外行きの笑みを張り付けたまま、ゆるりと口を開いた。
――条件がある』
「ぅえ?」
 言うはずの言葉は、あっけなく別のものに取って代わられた。なかなかに間抜けなもんだ、ぅえって、なあ、ぅえって何だよ。
『お前の奢りなら、構ってやらなくもない』
「……そ、れは、あの、え?」
『今日は残業ねえし、明日休みだし、飲み行くくらいなら構わねえよ』
「ほ、」
『ただし、給料日前の俺はクソほど金がない』
「アッ、奢れと」
『さっきからそう言ってんだろ。お前がいくら稼いでるかなんざ知らねえが奢れください!』
「っはは、言い方!」
『うるせえ、構えっつってきたの御幸だろ』
 ごもっとも、全くもってその通りです。一食奢る程度で会ってくれるのならば喜んで財布を出しましょう。
 勘のいいこいつのことだ、電話口でもこちらの躊躇いに気付いて言葉を選んだのではないか。もちろん、20日を過ぎて2日目の今日、金欠に陥ってるのは紛れもない事実なのかもしれない。どちらにせよ、俺の誘いにそれとなく乗ってくれたのは確かだ。うだうだ考える暇はない。
『店はそっちで決めとけ。高級すぎっと飲む気失せるから居酒屋な』
「おう、分かった。……倉持の会社近くで探しとく」
『頼んだ~、ってヤベッ、専務だ切るわッあとでな!』
 車の通りすぎる音がなくなったとは思っていたが、どうやらその会社に戻ったところらしい。慌ただしく電話をぶち切られ、耳元でツーツーという機械音が響く。
 本日二回目、あいつほんとにサラリーマンなんだな。不意にも零れ落ちた笑みは、可笑しかったからなのか、どこか切なくなったからなのか、どちらだったのだろう。

 店を見繕って、かといってパパラッチに捕まるのも嫌なもんで予約はせずに、ただ待ち合わせ場所と時間を決めて。こちらから言い出した手前、余裕をもって来たのだが、予想以上に早く着いてしまった。待つのはいつだって倉持の方だったなあ。これを機に待つ側の気分を味わうのもアリか。
 吐きつけた息が白く濁って、夜の煌びやかな街に沈んでいく。自分と直接かかわるイベントごとならまだしも、独り身をなじられるようなソレに興味を持つことなどできない。せいぜい数メートル先をやけに密着して歩くカップルに「ホテルでナニすんでしょーね、へーそりゃあ愉しそうで」と思う程度。
 柱にもたれかかって待っていれば、辺りを見渡しながら歩いてくる影を見つけた。きょときょとと右へ左へ首が動く。念入りに誰かを探しているよう。
 18メートル、おおよそマウンドまでの距離だろうか。行き交う人を器用に躱すもののまだ気付いてくれない。
 12メートル、オフィスビルの3階よりは遠いくらい。丸く吐いた息がどこかのOLと重なって隠れた。
 6メートル、かちりと目が合った。まずは見開かれて、それから眉間に皺を寄せながら細くなる。
 2メートル、掴めそうで捉えられない。乾燥気味の唇が、そっと開いた。
 0.5メートル、よりはあるかな。何か言われるより早く、へらりと笑って見せた。
「よう」
「……珍しいな、てめぇのが早いとか」
「たまにはいいだろ」
 早く、会いたかったんだ。
 さすがにそれを口にする勇気はなくて、ひとまず気だるい顔つきに見慣れぬ髪型の倉持を上から下までずずいと見やる。いやはや、なんと言えば良いだろうか。
「サラリーマンだあ」
「オマエほんとなんなの?」
「ぅぐぇ……、そうほいほいと胸倉掴むなよ」
「テメーにしかしてねえから安心しろよ」
「キャー俺だけ特別ゥ?」
「沢村もだったわー」
「ゲ、あいつと同列かよ」
 相変わらず手も早い。けれどおかげさまで、近距離からの上目づかいを眺められます。上目づかいなんて可愛らしいもんじゃないけど。どっちかっていうと睨み付ける。俗っぽく言えばメンチ切る。ヤンキー座りして見上げてくるアレ。
 ぱっと離れるときに鼻孔を掠めたのは香水だろうか。それとも柔軟剤の香りか、はてまた整髪料か。倉持はきちっとわけられた前髪をぐしゃりと掴んで散らすと、そのまま乱雑に掻き上げた。その時も香ってきたから、もしかするとシャンプーなのかもしれない。
「そうそう、その方がお前らしくていいや」
「おめーにとっちゃそうでも、取引先にはそー思われねンだよ」
「難儀だな~、前髪作ってるの似合わねえのに」
「るっせえ、そういうテメエは何だよその眼鏡。芋い」
「芋いってネ……」
 盛大に舌打ちをされたところで怖くもなんともない。それどころか、記憶に近い行動をされるほど、自分の知る倉持だと安心感が増していく。
 店に向かいながら指摘された眼鏡は、確かに時代遅れなデザインだ。ついでに視力も落ちているためビン底に相違ない程に分厚い。薄型レンズにしろという話なのだが、オフでしかかけないし、少し重いというくらいで不便もない。
 加えて、このビン底眼鏡を貫く理由はもう一つ。
「これ掛けてりゃ、誰も御幸一也だって気付かねえんだもん」
「ハァ?」
「メディア露出はスポサンかコンタクトだし、まさかオフにこーんなもさい面引っさげてるとは思わねえだろ」
「へーへー有名人様は大変でゴザイマスねーっと」
「ほら、俺男前だから」
「禿げろ」
「ちょいちょい俺の毛根貶すの止めねえ?」
 乾いた笑いを返せば、今度は「円形脱毛症になれ」とピンポイントで攻めてくる。それの原因ってストレスだっけ。俺にそんな呪いをかけるくらいなら、自分の頭皮の心配をした方が良いんじゃねえの。

 間もなく着いたのは、外装こそよくある居酒屋の見た目だが中は広々として小洒落ている店。店員に2名である旨を伝えると、隣で騙されたと言わんばかりの顔をされた。そりゃあお前が考えてるものとは違ったかもな。
「とりあえず生で」
「アー……、俺も」
「はっはっは、熱烈な視線向けんなよ」
「キメエこと言ってんじゃねえ。……お前に任せた俺が馬鹿だった」
「嫌か、こういうとこ」
「そういうわけじゃねえけど、なんか……、構える」
 案内された席に腰を下ろして、ため息を一つ。斜め下を向かれたら、表情が見えない。本当に嫌なのであれば、入店した時点で無理だと文句を言うはず。大人しくついてきて座ったのだ、きっと大丈夫。と、思っておきたい。
 ざわりと、胸が騒ぐ。軽口は叩けるのに、本心をその軽さでほのめかすことはできない。言えるわけないだろ、他の物音なんかでお前の声を静めたくないとか、俺とくれば美味い飯が食えると倉持から誘ってくるようになるのを期待してるとか。店内の雰囲気に流されて、俺といると落ち着くと勘違いしてほしいとか。
 頼む、普段の悪態を吐く風にでいいから、今日は仕方ねえなと肩を竦めてくれないか。たかたかと加速して、いっそ痛みを突き刺す鼓動に嫌気がさす。
「どうせなら、さ」
「ぁんだよ」
「ちょっとイイとこで飲みたいじゃん。しかもこの俺が奢ってやるんだぜ?」
「ワー、ここの一番高い酒ってなんスか」
「あっちょっ、待って待って待って」
「うるせー高給取り、全力でたかってやる」
 運ばれてきたビールを受け取りながら、しれっと店員に聞きやがって。しかも、そうですねって本気で答えんのやめようか。大吟醸の前やら後ろに力士みたいな音ついてるし、えげつない値段してやがる。
 乾杯もせずにグラスに口をつけた倉持は、一気に流し込むということはせず、二口三口飲んだところで舌なめずりをした。泡がついたからだろう。微妙な仕草はどこか幼い。口にしているのは、ステレオタイプな大人の代名詞の飲物なのにな。
「すんませーん、ナンコツと手羽とつくねと」
「一気にいくな!?」
「食わせろください」
「……好きにしろよもう」
「初めからそういえばいーんだよ」
 鼻歌交じりに注文をすれば、打って変わって上機嫌にグラスを傾ける。その口から飛び出たのは分かりやすい酒のつまみのオンパレード。オムライスを幸せそうに頬張ってたお前が懐かしいよ。そんなことをのたまおうものなら、即座に機嫌を急降下することだろう。分かってる。
 変わったのだか、変わっていないのだか。緩やかなカーブを描いた唇に、視線が留まった。
――あ、」
「んだよ」
「すっげえ突然だけど、気になってたことあってさ」
 弧を見て思い出したのは、奇しくも俺を自覚させるに至った同級生の朗らかな顔。そして以前聞いて答えが返ってきていないこと。お通しのポテトサラダをもきゅもきゅと食べ始めたために唇の曲線は歪んでしまうが、食えない笑顔を浮かべたあいつの顔は離れない。ナベと対等にやってるこいつこそ、半端なく適応能力高いのではなかろうか。
「ナベの言ってた"うちのベビーフェイス"ってどういうことだよ」
「あー、あ?」
「この前話してたろ」
「何となくは覚えてっけど、……んな大したモンじゃねえぞ」
「ん、いーよ。教えて」
 最後の一口を飲み込むと、唇を歪ませて困った顔。そんな顔されたら余計に聞きたくなるだろ、と性悪を発揮したくなる。一方で、俺じゃない"誰か"は知っているのに俺自身が知らないことが恐ろしくてどうしようもない。
 余裕を装ってグラスに口づけると、きめの細かい泡を潜って麦のほろ苦さが流れ込んできた。視界の隅では3人の女性客が届いたばかりの甘味に黄色い声をあげている。かと思えば、高級感あふれるスーツを着た壮齢の男が日本酒に舌鼓を打つ。鮮やかに描かれるのはああいう連中で、きっと映画で俺たちにスポットがあたることはない。
 それでも、色褪せて見えるのは彼らの方。鮮やかに映るこいつは、俺にとってはもう十分、"ヒーロー"で"ベビーフェイス"だ。
「……社会人野球、つーんだろうな、会社のチームに入ってんだ」
「へえ! でもお前打てんの?」
「ビン底抜けろ。昔と変わんねーな、どっちかと言えば足で引っ掻き回してる」
 だから試合直後にもてはやされる。塁に出るのも最初だし、ホームに帰るのも大体自分が最初だし。あとどっかの高校が機動破壊云々してくれたから余計に走塁で目立ってる。
 届いた軟骨を箸でつまみつつ、ぽつぽつと倉持は言った。言葉をもとに、脳内で描けば、まあ見事に高校のときのそれと一致する。足と目が健在ならば牽制も難しかろう。こいつと対戦したのなんて数えるくらいもないけれど、俺ですらその駆け引きに心が震えたほど。
 塁に出れば最強。リードオフマンとして、実に、頼もしかった。
「なーるほどね」
「プロに比べたらァ、大したことありませんけどォ?」
「別に馬鹿にしねえって。むしろ、そうだな……、今も野球やってんだって、安心したくらい」
「なんだそりゃ、安心する要素なんざあったか?」
「会社勤めで取り柄の足殺してんじゃねえかと思ってな」
「ビン底割れろ」
 奥歯で軟骨が噛み砕かれた。流石にこの音は聞こえる。
 次々と減っていく軟骨に箸を伸ばせば、すんなりと皿を寄せてくれた。こりこりとした歯ごたえは、今となっては楽しいものだが、昔は何が美味いのかさっぱりだったな。お子ちゃま舌のこいつは一層そうだったのではなかろうか。
 頬が緩んだ。

――やっぱり倉持君だ!」

 ところが、間髪おかずに引き攣った。
「おー……、うわ女子3人で居酒屋かよ」
「ガーッとビール飲みたい時もあんの。それにここお洒落じゃない、むしろあんたがこの店知ってたってのにびっくりしたわ」
「うーるせーなー」
 そろりと背後を見れば、甘味に色めきだっていた女性客が3人。2人は話しかけてくる様子はなく、残りの1人が快活に笑いながら倉持と話している。顔かたちは、整っている部類。美人と言うに相応しい外見だ。こんな知り合いいたんだな。軽快な言葉のやりとりから、親密さばかりが漂ってくる。
「よく気付いたな」
「声と、あと野球の話してたから」
「判断基準ソレかよ」
 若干うんざりを見せるも、その実楽しそう。ビールを飲むふりをして、口元をグラスで隠した。見せたくも、気付かせたくもないだろ、ムッとしたこの面を。自分じゃない誰かと話しているだけでこうだなんて、とりわけ女性を相手にしているからだろう、腹の底から濁った嫉妬が込み上げてくる。
 そもそも倉持は俺のモノじゃねえっての。比較的冷静な自分が抑え込もうにも、どろりとしたそれはさっぱり消えやしない。
「いいじゃん、かっこいい取り柄なんだし」
「そりゃあドーォモ!」
 純粋に、彼女は倉持を褒めたのだろう。けれど俺がいるからか、常にそうなのか、皮肉気味にニッと笑い返した。歯は見せない。口の、左端だけ持ち上げるなんて、器用になったもんだ。
 ムカつく、と彼女は言い返した。その気持ちもわかる。どうせなら、昔みたいな甲高い笑い声を突きつけてやったらいいのに。あれはあれでうるせえし、人によっては苛立ちを感じるのかもしれないが、今浮かべたのよ余程好ましいと思う。
『ヒャハッ!』
 頭の中でキンッと響いた。

***

 まるで耳鳴り。鼓膜を突き刺すかの鋭さ。
 今何時だと思ってんだよ。そりゃあ消灯にはまだ早い。けれど節度ってもんがあるだろ。何を思って、耳をつんざく笑い声を響かせてんだ。3年生のいる部屋の方から「うるせぇーっ!」という叫びが聞こえたあたり、寮中に鳴り響いたと考えて間違いない。
 風呂上がりの濡れた頭をタオルで押さえつつ、その音の発生源である食堂を覗いた。
「ヒャッハハハ、ばぁあっかじゃねえの!」
「んぐぎぁぁああそんなに笑うことねーだろ!」
「あ? 先輩にそんな口聞いてんじゃねえよゴラァ」
「ギェエ理不尽どぅぉうっふおゆるじをぉおお」
 それ、部屋でやれよ。
 騒ぎの中心にいるのは、その笑い声の主である倉持と、別の意味でけたたましく叫ぶ沢村。何をしているのか、あるいは起きたのか、その瞬間を見ていない自分にはさっぱりだが、周囲にいる連中は皆笑っている。あの降谷までもが肩を震わせているくらいだ、そうとう面白いことがあったに違いない。なんで俺を呼ばねえんだ。
 ひとまず何があったのか、笑いすぎて丸くなっている小湊弟に聞き出すか。がしがしと頭を拭いつつ食堂の中に入ろうと足を踏み出した。
「ったく、うるさいと思ったら」
「おわっ、」
 だが踏み出したままで足は止まる。振り返った先には涼しげな声に寒波の笑みを浮かべた大魔王。ではない、違います、そんなに怖くないです、今話しかけようとした後輩のお兄さん。
「部屋まで響いてきてさ、相乗効果で純もクッソうるさいの」
「はは、純さんの声なら聞こえました。今止めますね」
「んー、いいよ。散々好きなだけ騒ぎ切ったところで説教するから」
「ワー、お手数おかけしちゃってすんませーん」
「お前も連帯責任で正座ね」
「うっそお」
 食堂入口に立っているものの、騒ぎを起こしている連中は誰もこちらに気付かない。それほど今起きたことに夢中になっているのだろう。殺伐とした面をしている奴はいないから、トラブルではない。第一、倉持とゾノ、白洲、ノリと揃っているのにトラブルが起きる方がおかしい。
「春市もあんなになってるし」
「珍しいっすよね、弟クンがあそこまで笑うの」
「ツボにさえ入っちゃえばいつまでも笑うよ。顔真っ赤にして過呼吸なったこともある」
「へえ意外……」
「あ、やっぱりむせた」
 隣にいる降谷が慌てて小湊弟の背中をさすりだすものだから、こちらまで笑ってしまいそうになる。
 当の沢村は倉持の腕から脱して、支離滅裂な推定罵詈雑言を吐きつけていた。語尾がですます調であるのと相まって、貶したいのか持ち上げたいのかさっぱりである。
「でさあ」
「どうしました?」
「その顔、突っ込んだ方が良い?」
「へ?」
「なにその返事。無自覚とか質悪いよ~」
 身長のせいもあって下から顔を覗き込んでくる。にやりと笑ったその顔を見る限り、質が悪いのは先輩も変わらないと思うのだが、どうでしょうか。提案する気などさらさらないけど。
「亮さんこそ、あくどい顔してますよ」
「そういうこと言ってんじゃない。……ねえ、まさかほんとに自覚ないの」
「自覚って、何がですか」
「うっわあ、倉持も災難だねえ」
 倉持に降りかかる災難、とは。
 ちらりと食堂の中央を見れば、思いのほか大きな手で沢村の頭を圧迫していた。あーあー、皮膚が伸びてんだか寄ってんだか、芸人みたいな面になってんじゃねえか。写真に撮ってやりてえわ。
 口から笑い声をこぼせば、なぜだろう、眉間に皺が寄ってしまった。
「ほら、またその顔」
「アー……、確かに変な顔してますね、俺」
 指摘されるとともに、親指で皺を伸ばす。振れる瞬間ちりっと不快な感触がした。これってなんで起きるんだろうな。くすぐったいような、気持ち悪いような。ぐりぐりと押し伸ばすも、視界に入るあいつらを見ているとなぜだか治らない。そこまで気に留めているつもりはないのだが、無意識のところで癇に障っているのか。
「さっさと自覚して苦しみな」
「苦しむ前提!?」
「あったりまえじゃん。そんで、せいぜい倉持に迷惑かけないようにしなよ」
「俺なんかしましたっけ」
「しまくり。自分の行い見直しな。つーか怪我のことも黙ってたんだろ」
「……ソンナコトモアリマシタ」
 そればかりは抗議のしようがない。多少痛んでもできると思った。むしろそこで引いて負けでもしたら、一生後悔すると思った。かといって誰かに気遣われたくもない。俺なんざに気を回して"いつものプレー"ができなくなったら元も子もないだろ。黙っておいて、何事もなく勝利を掴む。ちょっと体の違和感に耐えるだけでそれを手に入れられるのなら安いもんだ。
 失態があったとすれば、結局試合前にバレ、それどころか試合中に騒ぎを広げられたことか。
「あいつはさあ、欲張りなんだよ」
「いいじゃないすか、貪欲って。俺は嫌いじゃないですよ」
「そうじゃない。いやまあそうなんだけど」
 あくまで一見、朗らかな笑みを張り付けたまま、亮さんは続ける。
「他人の不調は心配する。けどそれを欠くことで負けるのも嫌がる。意地を貫く価値さえあれば、あいつは迷うことなく支えるのを選ぶんだ」
「……実体験、ですか」
「お前だって、この前身をもって味わったろ」
「はっはっは、あれにはビビりましたね。惚れるかと思った!」
「よく言うよ、今更なくせに」
 ご明察。見た目に似合わぬ勘の良さにはいつも舌を巻いている。何があっても、当事者からある程度離れたところに立っているからこそ見えるし、気付くのだろう。倉持が手綱を引いてくれるから、ゾノが突っ走っても慌てなくていいし、俺が一歩余計に進んでもバランスをとっていられる。
 過った姿に笑みをこぼせば、逆に亮さんは「分かってないな」と肩を竦めた。
――根幹は構いたがりだよ」
「え、」
「今まさにそーじゃん」
「沢村が喧しいから、じゃないですかねえ」
「喧しいから構えるんだよ。お前みたいに、……俺みたいに黙られたら、一歩引くしかない」
 ほんの少し、微笑んだ唇が強張ったのは気のせいだろうか。ポーカーフェイスともまた異なるけれど、常に余裕を携えたこの人の表情を曇らせるとは、倉持も大した男だ。
 今まさに言ったように、あいつは一歩引いていながら、懐に入るのが上手い。天性の人タラシ・沢村がいる手前、際立たないけれど、四方に発揮していないだけで倉持もその手の人間だ。
 今思えば、悪いことしたかなーって。まぁ後悔はしてないんだケド。けろりと薄暗さを拭った亮さんは、極めて軽く言った。
 なぜだか喉の奥がチリッと焼けて、思いのほか低い声が出た。
「よく、見てますね」
「お前ほどじゃないって。ねえ、ほんっとに自覚無いの。御幸ってそこまで鈍かった?」
「俺が至らないのはいつものことですってぇ!」
「ムカつくなあ、誤魔化してんのか、本気なんだか……」
 大げさにため息を吐かれても、はてなんのことやら。
 ヒートアップする沢村と倉持のやり取りに、再度純さんの叫びが廊下に響いた。いい加減止めないと、もっとうるさいことになる。青道のスピッツの名は伊達じゃない、ってか? 言ったら鼓膜割る勢いで怒鳴られて拳骨喰らいそう。
「まあ一つだけアドバイスしてあげる」
「お、亮さん自らとは! ありがたく頂戴しても?」
「うっざ」
 ニッと笑うと、うっすら青筋を浮かべた亮さんに頭を掴まれた。頭というより、被せていたタオルというべきか。強引に引き寄せられれば、首を痛めたくないと腰を曲げるしかない。おおよそ15センチの身長差を縮めねば、驚異の手刀を落とされる。もしくは弁慶の泣き所を蹴られるな。
 困りましたと顔を緩めると、同じくゆったり笑んだ亮さんの目が静かに見開かれた。

「かっこつけてないで、大人しく背中預けな。――そしたらアイツ、尻尾ぶんぶん振って喜ぶよ」

「あ"っ、兄貴!?」
「ぬぬぬ、お兄さんじゃあないですか、どうかされやしたか!」
「うるっさいんだよお前ら。口にガムテープはって吊し上げるよ」
 食堂に二歩三歩踏み入ったところで、弟くんが亮さんに気付いたらしかった。続いてヘッドロックをかけられている沢村がやけにきりっとした顔で言う。ちなみに振り向いた瞬間、倉持の顔が華やいだのは気のせいではない。
 乱雑に頭を拭きつつタオルで視界を狭め、その声を反芻する。
 ない、マジでない。――言葉を理解したとたんに、耳と尻尾をはやした倉持の姿が過っただなんて。
 噛み締めるたび、犬らしき尾を振るあいつが駆け回る。どっちかってーと猫だろ。沢村曰くチーター様だしさあ。いや、それでもイイかも?
 にやけそうな唇を噛み締めることで誤魔化せば、ふっと桃色が目に入った。
「すみません、騒いでて」
「ッいーよ、亮さんがまとめて叱ってくれるみたいだし」
 びくりと肩が震えたのに、気付かないでくれたろうか。頬を掻きながら頭を下げる弟くんに、苦笑いを返すしかない。これで亮さんだったら何を言われることやら。
「ほら、そこ2人もこっちきて正座」
「「エッ」」
「ヒャハハハハ、ざまあみろ!!」
「お前が一番うるさいんだよ」
 きっちり正座をした倉持の脳天に鈍い音を立てて手刀が下った。それを見て笑った沢村の頭にも、同様の一撃が振り落とされる。
 連鎖してエンドレスに響く甲高い笑い声に、本家本元・叫喚担当が殴り込んでくるのも、きっと時間の問題。

***

「よくもまあ見放されねえよな」
「それねえ、あたしも思うわ」
「思うんなら直せよ」
「他人のこと言う前に自分の行いも見直しなさいって」
「うーるせぇー」
 はっと意識が戻ってくると共に、彼女の台詞のどきりとした。
 久しく聞いていない、あの笑い声。かっこつけた笑い方、大口開かない笑みはいくつも見たが、甲高く耳につくそれは随分と聞いていない。多少なりとも盛り上がれば勝手に飛び出してきたのに。当たり前のようにそこにあると思っていただけに、違和感で記憶の倉持が歪んでいく。
 倉持が彼女と話している間に軟骨の皿を空にすれば、丁度良く店員が別の皿を持って来た。頼んだのは手羽先と、ええとつくねだったか。肉ばっかだな。どうせ払うのは俺なのだし、別のモンも頼んでしまおうか。シンプルなメニューを広げて、店員に言づけた。
「じゃあまたね」
「おー、二日酔いには気をつけろよ?」
「こっちの台詞ですぅ~」
 そのうちに話も終わったらしい。白く細い指をぱらりと振って、彼女は去っていった。残り二人がこちらを見て色めきだっていたが、気付かれたろうか。話しかけてこないあたり、ただイケメンだ男前だともてはやしている程度な気がする。
 とりあえず、会話の定石として、彼女のことに触れておくか。本音としては、俺以外の奴のことを意識して欲しくないのだけれど、何事もなかったように流すのも不自然だ。
「誰? 仲良いみたいだったけど」
「あぁ、大学の同期。で同僚」
「ほんとにそれだけかよ~」
「他にあってたまるか。野球好きだってんで話合うダケ」
 倉持はさっそくやってきた手羽先を手に取り、がぶりと噛み付いた。その間一切目が合わないものの、吐き付けるように発した言葉に安心しているのも確かである。
 箸など使わずに食べ進め、たまに唇についた油を拭う。明らかに機嫌が良くなったあたり、思った以上の味と見える。このまま他の奴を忘れて、目の前の飯だけに夢中になってくれたらどれだけ楽か。飯に敵わないのなら仕方ないと思えるのだ。比べるだけナンセンスだろう。
 端についた軟骨までがりがりと削り取って食ってるし。決して上品な食べ方とは言えない。でもそれが倉持らしい。
「野球好き、なのに俺のこと気付かなかったな。うわ、いざこうなると切ねえ」
「今すぐそのビン底叩き割ってやろうか」
「ヤメテ」
 人目を気にすることもあるまい。グラスを空けてから、俺も手羽先を掴んだ。
「ま、選手として知っててもおめー自身には興味ねえだろうな」
「エー何でそうなんのさ」
 それは聞き捨てならない。食いつこうとしたそれを口から遠ざけ、黙々と腹を満たしていく倉持を見やった。
「なあ、なんで」
「ん? あいつナベちゃんの彼女だから」
「……ハ」
「だーかーら、ナベちゃんの彼女。大学からだから、もう5年とかになんじゃねーの」
「ホッ!?」
 とすり、手羽先が落ちた。小皿の上で良かった。
 なんと。とても快活な女性であったが、まさかナベの恋人とは。あの手のタイプよりおしとやかな大和撫子を好みそうだが、人は見かけによらないものだ。
 頭に満ちた純粋な驚きが引いていくと、納得と感心が残る。ナベが食えない性格になったのも絡んでいそう。
 落とした手羽をもう一度つまみ、一口齧りついた。ぱりっとした皮を食い破れば、パサつきのない柔らかな食感と胡椒の風味が広がる。あー、こーれは美味いわ、倉持が上機嫌になるのも分かる。胡椒じゃなくて山椒にしてもあいそう。あとカレー粉とか。余計にこいつ好みになるんじゃねえのかな。
 次の一口を咀嚼して、いつ作って食わせようかと思考を巡らす。飯を作るだけの余裕があって、尚且つ2人とも夕飯時に都合の合う日とは。やっぱり週末になんのかな。
 ふと、気になった。
「そういや倉持って女いねえの」
「あぁん?」
 この様子じゃいないことなど目に見えているが、確認だ。これで期待に反する返事をされたら絶望するが、まあおそらく大丈夫だ。
「さっきも自分の行い見直せって言われてたろ。お前なんかしたワケ?」
「……別に」
「え~なんだよ気になってきた。倉持クンの女性遍歴聞っきたっいなぁ~」
 いないに王手。言葉を濁らせ、続きを渋るということは、少なくとも今はいないということで間違いない。もしいるのなら、隠し事の苦手なこいつのことだ、僅かにでも顔が紅潮するに決まってる。それでも念押しはしておこう、にやりと口を歪めながら畳みかけた。
「ははは、えぇ~、まじで今彼女いねえの」
「あー……」
 言いたくない。言って堪るか。言ったら馬鹿にするだろ。
 その辺りの思いが交差している。綺麗に骨だけになった手羽を小皿に起いて、視線を左右に泳がせた。微塵も緩んだり、綻んだりしない。恋人に値する人がいるのなら、少なからず顏に現れるものだろう。
 腹の底から歓喜が込み上げる。良かった。本当に、

――いる」

 ずぐりと身体が重くなった。
「ぅえ、」
 ああほらまた情けない声。予想を裏切られた程度で表に出してんじゃねえよ。ポーカーフェイス取り繕うのは得意なはずだろ。
 身体は重いのに、瞼だけは見開いたまま動かない。視界の中心に座った倉持は、泳がせた視線をようやく休め、こちらにちらりと視線を送った。薄い唇はヘの字で固定。後ろめたさが映っている。
「と、」
「と?」
「言えばいるし、いねえと言えばいねえ」
「ど、どっちだよ」
 動揺する俺をさておき、親指についたタレをべろりと舐め、呆れたように笑って言った。
「就職してから音沙汰ねーの。自然消滅ってやつ? じゃねーの?」
「お前、……随分と他人事だな。てか、自分の行いってそれか!?」
「だろーな」
 自嘲を混ぜたため息を吐くと、倉持はグラスに2センチほど残ったビールを飲み干した。次はどうするか、もう一杯ビールにするか、それとも豊富にそろえられている日本酒や焼酎に移るか。メニューに視線を落としながら、倉持は続ける。
「だって面倒だろ。お伺いしてお誘いしてお約束して、その上褒めてヒイキして。ンなもん仕事だけで充分だっての」
「別れたのは実質大学んときだろ」
「それはそれ」
 さりげなくつくねを頬張りつつ、店員を呼び止めた。
 低く心臓が唸りをあげる。安心するべきか否か。自然消滅に相違ないのだから、安堵が浮かんできてもいいはずだ。なのに嫌な汗が背中に張り付いてくる。らしくない、一挙一動にここまで焦らされるなんて。
 振り払わなくてはならない。努めて軽く、舌に言葉を乗せた。
「……な、俺のことは聞いてくんないの?」
「ふはっ、そもそも女いんなら俺に声かけてねーだろ」
 串にささった2つ目を咀嚼して、倉持は軽く笑った。
 困ったな、安らかさが欲しくて吹っかけたのに、この笑いじゃ落ち着けねえよ。いやあ、笑わないもんだ。あの、耳につく声で、こいつは笑わない。もう何年、聞いてないだろう。意識するほど自分が追い詰められていく。記憶とこんなに違うだなんて。
 平生ならここまで動転しないよな、思いのほか「いる」発言が響いてやがる。
「倉持のくせに」
「うっわ図星かよ」
 はっはっは、亮さんもすげえな。今まさに、自覚して苦しんでるわ。
 一先ず、残りの手羽先にかぶりついた。