梯子するのも気が引けたが、飲み足りないのも確かだった。
 その結果宅飲みに至ったのも、必然と言えば必然。

 問題は、無防備にくつろがれたとき、俺の理性はもつかということ。

 さっそく緩められたネクタイに息を呑んだのは3分前。暖房をいれるのに合わせてスーツの上着も脱いだため、薄くなった体がよくわかる。家に帰れば誰だってする行為。それを俺の家でやられてみろ。嫉妬やら哀愁やらで沈みかけた気分が高揚に向けて直進しやがる。
 にやけそうになる面をどうにか堪えて、酒とつまみの入ったコンビニ袋を木製のローテーブルに置いた。スゲエんだな、コンビニって。酒の種類は別として、つまみになる惣菜があんなにあるとは思わなかった。
 テレビの前で立ち止まった倉持をよそにソファに腰かければ、変わらぬ心地よさに包まれる。ほろ酔いも後押しして、このまま寝転がりたくもなるが客人がいる手前我慢。ダッセェ誘いをした分、かっこつけたいだけともいう。
 左腕に鞄と上着を持った倉持はまだ動かない。そんなにテレビが気になるのだろうか。視線を送りながら、袋の中身をテーブルに並べた。
「こ、んの」
「どしたー?」
「高給取りが!」
「言うに事欠いてそれかよ」
 勢いよく振り返ったと思えば、全力で顔を顰めて盛大な舌打ち。大げさかもしれないけど比喩じゃない。僻みはよくないですよ倉持クン。さっきナベの彼女さんによからぬ疑いを持った俺が言えた話じゃねえけどさ。
「んだよこの大画面、ゲームやりてえ……」
「その年でまだゲームしてんのかよ」
「年もクソもあるか。CoDとかやべえ面白ェんだからな」
 シーオーディーとやらがどんなゲームかは知らない。だがおそらく、臨場感を楽しむゲームなのだろう。例えば映画を見るように。そうじゃなくても、大きな画面でゲームをするのは楽しいことなのかもしれない。とはいえ、そっちのゲームより、試合を動かすゲームの方がずっと楽しい俺としては、よくわからないの一言に尽きる。やれれば一緒なんじゃねえの。
「ゲームすんならお前もそこそこイイの持ってんじゃねえの?」
「こんなサイズ買えるかよ。むしろ置けねえ……」
「はっはっは、贅の限りを尽くしてみました」
「禿げ散らかせ。んだよこのサイズ、50……、いや55か?」
 ローテーブル下に敷いた毛足の長い絨毯に荷物を置きつつも、視線はテレビから離れない。そんなにやりたいのかよ。あいにくゲーム機なんて持っていない。一応再生を兼ねたブルーレイレコーダーを繋いではいるが、活躍したのは片手で事足りる程度。もっと早くに再会していれば、あるいは自覚していれば、それとなく買っていたような気もする。吉と出るか凶と出るかは微妙なところだな。
 一足先に缶ビールを開けた。小気味のいい音が部屋に響く。
「なあ、テレビなんてもういいだろ、飲もうぜ~」
「宝の持ち腐れってこのこと言うんだろうな」
 流れるように悪態を零される。実際その通りだから言い返すつもりもない。引っ越して早々に殴り込んできた某投手にも言われたもんだ。でもあいつの家よりはシンプルに質素にまとめたんだけど。むしろ同世代であの豪勢さに匹敵する方がおかしい。だって王子だし、とか、ああ思い出したら疲れてきた。やめよう。
 ぺしぺしと隣を叩けば、渋い顔そのままに倉持がどすりと腰かけた。大の男が並んで座っても余裕のある広さ。増した重さに沈みが深くなることもない。優秀だろ、このソファだけはほんとに気に入ってんだ。
 再び浮かんだ笑みを、今度は隠さずに缶ビールを一つ差し出した。――そこでやっと、表情を固めた倉持に気付く。エ、なんで。
「ナニソノ顔」
 訝しげに見つめていると、鈍い動きで手を組み、両肘をそれぞれ腿の上に着地させた。企業のお偉いさんが社長机でやってそうな、なんだっけ、なんとかってアニメの司令官みたいな人がやってるポーズ。全然タイトル出てこねえ。
 その体勢になって数秒。浮いたままの缶をいい加減に受け取ってくれないものか。折角開けたのだし、今更乾杯もなにもあるかと、先に自分の開けた缶に口づけた。
「……腹立つ」
「なんでだよ」
「ハラタツ」
「聞けって」
 ちらりと目線だけあげてこちらを睨んでくる。さっさと持てと差し出した缶をゆっくり揺らせば、目線をこちらに固定したまま片手が伸ばされた。かしりと掴んだ瞬間、互いの指先が掠める。この程度で動揺はしない。ちょっと肩が揺れそうになるのを堪えるだけ。結局焦ってんじゃねえかって? 分かってるよ、自分が一番分かってる。
「は~らたつ~!」
「んだよ、改めて」
「すっげームカつく」
「いくらなんでも理不尽すぎねえ?」
 何が楽しくて好い人に貶されなきゃならないのだ。愛が滲み出ているならまだしも、淡々と虐げられるのを喜ぶ性癖は持ってない。
 ぷしゅっと炭酸の抜ける音がして、間髪おかずに倉持はビールを呷った。飲まないとやってられないってか。悪態を立て続けにぶつけられたこっちがやりたいんだけどなあ。一気飲みの如く喉が上下するのを見て、ちびっと自分もビールを舐めた。これで急性アルコール中毒とか笑えないからやめてくれよ。
 そして飲み切ったのか、否か。高い音を鳴らして、缶をテーブルにたたきつけた。
「……んだよ、」
「あ? なんつった?」
 その勢いの割に、言葉は小さい。取り込んだアルコールが回ったせいなのだろうか。
 つまみとして買ってきた枝豆を一つ掴んで、さやごと齧った。指で摘まめよとか、行儀が悪いだとか、そんなこと言われる筋合いはない。だってここ、俺の家だし。好きにさせろ。
 軽く噛んで豆だけをつまみ出す。程よい塩っ気、柔らかさ、コンビニ惣菜舐めてたわ。殻を空き袋に放って次の一個を咥えた。
「……ぃ、」
 はいはいなんだって。倉持の方を向きつつ、そっとさやを甘噛みする。
 据わった目線に、鈍く、射抜かれた。

――居心地良すぎてムカつく」

 咥えたさやが、がちり、噛み切れた。
「うん?」
 豆を食いたいんだ、別に塩味がするからと言って殻ごと食う趣味はない。しかし切れてしまったことに代わりはない。もごもごと口を動かして分け、さやだけ吐き出した。
 さて、倉持君。
「は?」
「は、じゃねーよ、なにココ」
「俺ン家」
「んなこた分かってんだよ」
 帰宅して二度目の舌打ちを聞くと、枝豆に倉持の腕が伸びる。指先を追いかければ、3つ入ったそれを掴んで、滑らかに口元まで引き寄せられた。親指と人差し指で挟んで押して、飛び出した豆が口に吸い込まれていく。
 わずかに動く口を見守っていれば、喉仏が動いたタイミングで次の缶を掴んだ。
「えっ」
「何回聞き返してんだテメーは」
「いや聞き返すだろ」
 じんわりと、胸に熱が広がる。酒飲んでるんだから、そのせいで熱くなったんだと誤魔化すこともできるけれど、今回ばかりはそうしたくない。
 緩みそうになる頬をどうしたらいい。ただでさえ酔いでうっすらと浮遊感があるのに、ああそうか、この気の抜けた顔も酒のせいにしてしまえばいいのか。都合よく酒のせいにして、これまた都合よく別の理由を作り上げる。傲慢だと言われたっていいさ、あながち間違っちゃいない。
「意味わかんねえ……」
「俺も意味わかんないなー倉持クーン」
「そんな好み似てたか、いや違ぇよな……?」
「あれ、聞いてる?」
「むしろ、なんか……」
 じろりと倉持がこちらを向いた。眉間にはしっかりと皺が刻まれていて、歪んだ唇もそのまま。営業さんがそんな厳めしい顔していいんですかね。その険しさ張り付いたらどうすんの、仕事になんねえだろ。クビになったらどーすんだ、なんなら養ってやろうか。
 いやはや、大分酔ってるな。気を抜くと思ったことすべてぶちまけてしまいそうだ。酩酊して右も左も分からないのとは訳が違う。うっかり口が滑るのだけは避けなくては。
「なんだよ」
「……お前さあ、この部屋のモン、なに基準で選んだんだよ」
 そんなことを聞かれても。つい、呆けた顔になってしまった。
 ソファ以外は利便性など考えずに揃えたため、基準らしい基準はない。そりゃあ寝具は寝心地も踏まえて選んだが、"なんとなく"以外に言いようがないのだ。倉持には何らかの基準が見えたのだろうか。いっそ教えてほしい。
 かといって何も考えずに返事をしては、プロレス技をかけられるかもしれない。人目もないし、この身は自分で守らねば。
 ひとまずぐるりと部屋を見渡した。大画面テレビに、分厚い遮光カーテン。座り心地の良いソファとシンプルな木製のローテーブル。テーブルの下には毛足の長い絨毯を敷いてあるが、部屋全体ではない。
 カーテンの向こうにはベランダがあるけれど、今そこは気にするところじゃないだろう。備え付けの棚には野球関連雑誌やらスコアブックが詰まっていて、その一段に卓上カレンダーを置いている。壁掛けのカレンダーはなく、時計を一つかけているだけ。何ということはない、少しばかり広い独身男性の部屋。
「基準、って言われてもなあ」
 もう一度、部屋を見渡した。引っ越したばかりの頃は若干の違和感があったものの、住めば都、今となっては帰ってきたと安心感を得られる場所だ。
 そのうちに、ふと、ここに越してきたことを思い出した。約2年前、一通り家具を揃えたところで、鳴に殴り込みをかけられたときのことだ。なんで知ってんだと頭を抱えたくなったなあ。その時は、今自分がしたように鳴がこの部屋をぐるりと見て。
 なんと、言われたのだったか。横目で倉持を見やれば、缶に口づけたまま首を傾げられた。
『一也っぽくないね』
 ああ、そう、こんな感じ。
『誰かのために揃えたみたい』
 うん、こういうことも、言われた。
『もしかしてさあ、』

***

「倉持いるかー?」
「ぅげっ、なんの用スか!?」
「はは、うげっとはなんだ、うげっとは」
 ノックもそこそこに5号室にはいれば、教わったばかりという体操を必死にやる沢村に迎えられた。そうやって肩動かしつつこっちにしっかり顔を向けられるって、どれだけ柔らかいんだよ。倉持が「技決らねえ」とぼやくのもよくわかる。
 まあ、こいつが何をしていようと遠慮することはない。
「ってオイ、勝手に入ってくんな!」
「倉持は?」
「ジュース買いにいかれやし、だぁぁからぁあああなんでそうずけずけ入ってくるんスか!」
「えー、別に部屋汚してるわけじゃねーし、いいだろ」
「入室前には一言! はいこれ当然のマナー!!」
「先輩に敬語使えねえヤツに言われましても~」
 靴だって脱いだし。物を漁るわけでもないし。洗濯物に混じっていたタオルを置きに来ただけ。下手に沢村に触らせるより、直接棚なりタンスなりにしまった方が早いだろう? どの部屋だって、大まかな内装は同じわけだし。
「ぐぬぬぬ……、ってそのタオル、倉持先輩の?」
「おー。洗濯機の底に残ってたんだろうな。混ざっちまって」
「ふーん」
 気が済んだのか、気が散ったのか。体を動かすのをやめた沢村は俺の手元に目をよこした。
 そこにあるのは、何の変哲もないスポーツタオル。柄から倉持のと分かるし、もふりと柔らかな感触からも倉持のものだろうとピンときた。吸水性に拘ったからなのか知らないが、倉持の使うタオルはやたらふわりとしている。肌触りが非常に良いのだ。洗剤は同じものを使っているし、柔軟剤を毎回使う余裕はない。タオルそのものの質がいいのだろう。
 じっとそれを見つめた沢村が、おもむろに手を伸ばしてきた。
 まずは人差し指。ぷすりとタオルの折り目をつつき、今度は親指を覗いた4本で表面を撫でる。徐々に目を見開いていくのが面白い。まあ、最初は驚くよな。ヤンキーみたいな面したやつが、こんなふわっふわのタオル使ってるとか。驚き通り越して笑う。俺は笑った。そして殴られた。懐かしい。
「ふぉお……!!」
「感動するよなあ」
「すっげ、もふもふする……、倉持先輩こんなタオル使ってんのか」
 くしゃりと指先で掴んでは離し、手をタオルに埋める。
 楽しそうなとこなんだけど、これ倉持本人に見られたらどうすっかな。渋い顔で済めばラッキー、いつもの通りなら「きめえことしてんじゃねえ」と強烈なタイキックを噛まされるかな。運が悪ければ、ドアを開けた勢いでドロップキック。この場合、俺の背中に食らわせ沢村もろとも押しつぶすパターン。うわあ事故でも沢村と密着なんてしたくねえ。どうせなら倉持自身に寝技掛けられた方が、
「たでーまー」
「おかえんなさい!」
「……ぁにしてんだ、おめえら」
「倉持先輩のタオルめっちゃもふもふっすね!」
「ハァ? なんで知ってん……」
 声に振り向けば、頭上に疑問符を浮かべた倉持の姿。右手にはコーラの缶。間違っても沢村の分を買ってくることなどない。
 脱いだ靴を揃えることもなく部屋に上がると、満面の笑みを浮かべた沢村の手元――つまるところ、俺の手元でもある――を覗き込んだ。そして、キュッと唇が引き絞られる。
 やべ、くる。
「落ちつこうぜ、倉もぶふぇぁっ……!?」
「どーしておめーが俺のタオル持ってんだ」
「あででで眼鏡が、眼鏡が食い込んでるから、」
「うるせえ眼鏡と一体化しろ」
「そしたら練習ンときは眼鏡の上にスポサンっすね!! だっせえ!!」
 笑顔のまま握り拳作ってんじゃないよ、お前は。それに倉持君や、顔面を掴む力が一向に緩まないんですけどどういうことでしょう。眼鏡ごと手で覆われて視界が悪い。これ絶対跡ついてるよ、べったりと、指紋じゃない、こすれた跡がついてる。
 なんとか手首をつかんでめり込ませてくる力をいなすと、忌々しいと言わんばかりの舌打ちをぶつけられた。柄悪くタオルをひったくると口をへの字にしたまま棚に放る。ついでに財布とコーラも投げてたけど、いいのか、それ。開けたとき暴発させんなら俺にも拝ませろよ。
「えっえっなんでそんな機嫌悪いんすか」
「なんでもねーよ!」
「ばーか言わないでやれよ、この見た目でこんなふわっふわのタオルに和んでるのバレたくなかっ」
「和んでなんか? ねえですけどォ?」
「顎つかぶのもやべよーぜ」
 胸倉を掴んだところで、にやりと笑い返される。ついに学んだようで、最近はよく顔の一部を存外大きな手で掴まれる。とはいえ、粗暴さが増す行為のため教室じゃあ胸倉掴まれる方がまだ多いんだけど。どっちにしろ元ヤンキー隠せてないんだから気にすることないのにな。
 できれば、胸倉より顔掴まれた方が良いかな。ちょっと痛いけど、倉持の顔も結構な近距離で見れるし。誰かの歪んだ顔見るのって面白いじゃん。
「……倉持先輩って、」
「んだよ、まだ文句あんのか、あぁ?」

「結構ないーぶっすね!!」

「ブッファァっ……」
「なっ、あっ御幸も笑ってんじゃねえよ!」
「らいーうくらもひとかっ……」
「あぁああうるせえよテメーはァ!」
「いだいって、いだい、頬引っ張んのやめて」
 ツボだわ。初めて会ったときも思ったけど空気を読まずに躊躇いなく飛ばしてくる沢村の言動はおかしくて仕方ない。しかもカタカナで言ってねえぞ、絶対ひらがな。なんとなくのニュアンスを覚えたばかりで、ともかく使いたくて堪らなかった言葉なのだろう。
 自分の失言を失言と気付いていないとはさすがである。ばーかばーか。合わせて笑ってやりたいが、倉持に頬をぎりぎりと摘ままれているせいで笑い声になり損ねた息がひゅーひゅー通り抜けるだけ。
「っははは、やっべ、くそ……、腹いてえ……」
「なんならその鳩尾に一発くれてやろうかぁ?」
「やめようぶふっ……」
「~~~~ッ、御幸ブッ飛バス!」
「ぬっ、なに、なんすか、なんでそんな怒ってらっしゃるんで!?」
「次は沢村だからな、覚悟しとけ!」
「ぅぇええなんで!?」
 倉持が沢村を向いた隙に、首にかけられた腕を捉えた。近距離で捕まってはその技から逃れることはできないが、両手首を押さえてしまえば力でねじ伏せられる。ばたばたと動かれようと、体格じゃ俺の方が勝ってるしな。
 案の定、思うように動けなくなった倉持が振りほどこうと必死になる。もちろん俺だって痛いのは嫌だ。そう簡単に振りほどかれちゃ堪ったもんじゃない。幾分優勢かな、あとは疲れるまで保てればいいだけ。
 ちらりと沢村を見れば、わたわたと逃げ道を探しながら震えていた。それもそうか、出入り口への道筋で俺と倉持が取っ組み合いをしているために、逃げようにも逃げられないのだ。はっはっは、悪いことをした。全く悪いとは思ってないけど。
「そーいやあさあ」
「へいっ、なんでしょうっ!?」
「何で倉持がナイーブだと思ったんだよ。タオルのほかになんかあんだろ?」
「ハァアアおい沢村ふざけたこと抜かしたら新技コンボ決めんぞ!?」
「ふっ、ふははははそうして御幸一也に捕まっているうちは俺の安全は確保されているのだァ~!」
「倉持~この手離してほしい? 離してやろっか~」
「ごめんさい、すびばぜん、御幸先輩どうかそのまま倉持先輩を捕まえといてください」
 と、可愛い後輩も言っていることなので、しばらくこの体勢でいましょうか。オイと突っ込んできたのはあえて無視させていただこう。おかげで足をかけようと窺ってくるが、不意打ちにならない限りは大丈夫。
 にやりと笑って沢村に続きを促せば、ほぼ同時に人を殺せるぐらいに鋭い眼光も放たれていた。
「その、」
「おう、言っちまえ?」
「オラ言ってみろよ」
「……とっ、」
 圧力のかけ方がおかしいよな。イイから吐けと俺は笑うし、痛い目みていいのかと倉持は凶悪に笑う。やっぱ、人を追い詰めるには笑顔が一番だよなあ。マウンドで常に不敵な笑み浮かべてればそれだけでバッターとして怯んじまうし。
「時計の、カチコチ苦手なとことかっ、」
「へえ」
「っ、悪いかよ!?」
 そういえばと見渡せば、この部屋には秒針の動く時計がない。さすがにないのは不便であるからデジタル時計がかかっているが、他の部屋のそれみたく、丸いアナログ時計ではないのだ。
「朝強いのにカーテンの隙間から光当たるとウッて顔するし」
「あーそれはな」
「誰だってそうだろ……」
 つーかそれなら二段ベッドの下使えよ。幾分和らぐだろ。けどきっちりカーテンを閉めて寝てるの考えるとかわいいな。見た目に似合わず。ギャップ萌え?ってやつ?知らねーけど。
「テスト前勉強するとき椅子に座布団もさもさかけて座り心地よくしてるとか、」
「逆に座りにくくねえ?」
「うるっせえな、沈み具合とかあんだよ」
 よくゲームをするせいで座布団やらクッションが置いてあるものだと思っていたが、まさかそんな使い方をしていたとは。寮生のためわざわざ椅子を買うわけにもいかないだろうが、勉強机備え付けのなんだから諦めろよ。それにテスト前の数日くらいだろ、耐えろっての。
「あとテレビ! 画面切れると困んなくてもムッとする」
「短気~」
「やってみりゃわかる、あれは頭にくる」
 茶化しはしたが、それもなんとなく分かる。切れた先にスコア載ってるだろってときよくあるし。監督たちにばれないようAV鑑賞会したときも絶対あれ切れてた。だってあんな端に恥部映るわけねーじゃん。画面サイズとか、比率の問題らしいけど、一介の学生がどうにかできる問題じゃない。
「そういうわけでの、ないーぶです!」
「うん、ナイーブじゃねーわ、フツー」
「辞書でもっかい調べてこい」
「な、なん、だと……!?」
 ドヤ顔で言い切ったとこ悪いけど、それ普通の範疇。沢村にとっては神経質に見えるのかもしれないけど、それはお前が鈍感すぎるだけ。妙なとこ気にしたり、一晩寝たらなんでも忘れられるほどの鳥頭でもないのは分かってるけど、お前はちょ~っと鈍いよな。空気読めないからかな。
「つーかこんなんただの好みだろ……」
「はは、ソレふわっふわのタオル好き~って認めたようなもんだぜ?」
「……るせーよ」
 もごもごと言い返そうとして、結局その一言。認めたってことでいいのそれ。
 ふわふわタオルが好きで、ちょっとした光とか音の刺激が気になって、自分好みの姿勢体勢に拘る。ナイーブと言えばナイーブなのだろうか。
 寮にいる間はどうにもできないけど、一人暮らしをはじめるとか、社会人になったら好みを揃えりゃいいんじゃねえの。そのときは、俺も家具選びを手伝ってやろう。それを言葉にすることはなく、むっとした倉持の額を弾いた。

***

 そんなわけがない。
 いや、目の前の現実を受け止めなくてはならいのは分かっている。でも、いくらなんでも、まさか、だってこの家具揃えたの2年前だぜ。気付くとか、そういう以前の問題。ちょっと余裕が出てきた時期ではあるけど、コイツのことを考えていただなんて。全く考えていないのにここまで揃う方が気味悪いけど、それはそれだ。
 缶をテーブルに置き、一息。着々と枝豆を減らす倉持の方を向く気力すら湧いてこない。がっくりと、項垂れるばかりだ。
「どーした、死んだか」
「生キテマス」
 なんということはない、過去の思い出。一つ一つ当てはめてしまえば、確かに辻褄がある。けれど同時に、鳴に言われた言葉も頭をよぎる。嘘だろ、まさか。信じたくない。別に、俺が倉持を好いているということはいいんだ、それはもう、認める。
 でも、でもさあ。何回も"でも"が浮かんで巡り巡る。

『恋人でもいんの? 同棲して既成事実作りたいです、って滲み出てんだけど!』

 鬱陶しいったらありゃしない。
 当時は何言ってんだと笑い飛ばせたのに、2年越しの今日、これほどまでに心に突き刺さってくるとは。「キャーヤダー一也コワーイ」とか言う裏声までよみがえってきた。そんなとこまで思い出さなくていい。優秀な脳みそだと誇れというのか、できれば忘却したいことはダストボックス行き焼却処分してくれる頭がほしかった。
 ――居心地がいいと、倉持は言った。
 その後ろにムカつくだのハラタツなど付加しているとはいえ、はっきりそう言ったのだ。
「まさかゲロじゃねえだろうな」
「うん、違う、へーき、だいじょーぶ」
「ほんとかよ、吐くなら便所行けよ。せめて流し」
 つまるところ、この部屋は、倉持好みである。そういう解釈で、いいだろうか。いいよな。間違ってなんかないよな。
「ったくよー、枝豆食い切るぞ」
「うん、」
 テレビは、自分がどれだけ見るかも分からずに大きいものを買った。大画面の迫力はすさまじいと、ブルーレイディスクを再生するのも良し、最新ゲーム機を繋いで臨場感あふれる世界に酔いしれるも良し。そんな口車に乗せられて、まあいいかなあと買った。
「介抱なんざしねえからな」
「またまた~」
 我ながら良い買い物をしたと思うこのソファ。野郎二人が座っても沈み込みすぎることはない。けれど、寝具にこそ劣るものの、ごろりと横になったときの心地も良い。ぎらぎらしすぎない皮とか、アイボリーの柔らかな色合いだとか、腰かけたらしばらく動きを止めてしまうくらいに座り心地がいい。
「そのままくたばれ」
「死なばもろとも、そんときゃ倉持も潰れてくんねーと」
 分厚い遮光カーテンは、当初の予定だともっと軽くて薄いものだった。室内を隠せればいいだろう。そう思って量販店を訪れたのだが、小さい灯なら完全に外から悟られないというだけの遮光性が気に留まった。閉めてしまえば、朝か夜かも分からない、それだけ外界をシャットアウトできる。オフにぐだぐだするならアリだろうか。うっかり、衝動買いに近いものだと思っていた。
「舐めんな、こちとら上司との付き合いでなれたっての」
「それ言ったら俺も先輩に飲まされてるって」
 壁掛け時計は一見アナログ。その実あれはデジタル時計。液晶画面にアナログと思しき円形の時計が表示される仕組みだ。電波時計でもあるそれは、アナログの中央に日付込みでデジタル表示もしてくれる。音が気になるなんて、一切考えなかった。単なる、物珍しさ。
「どこにいってもあんだな、アルハラ」
「楽しく飲んでるからそんな気しねえけどな」
 足下の絨毯は、その柔らかな肌触りが決めてだった。夏場は暑苦しいだろうけど、一面フローリングも侘しいものがある。毛足が長いこともあり、手入れは少々面倒かもしれないと言われたが、掃除は元から面倒なものだ。多少その程度が変わるくらいなんともない。触っても、踏みしても、伝ってくるふわりとした感触を保つためならば、いいだろう、と。
「っはは、」
「あ?」
「くは、あっはは、はっはっはっは!」
「うわっなんだよいきなり」
 一つ一つが噛み合っていく。噛み合って、しまう。なるほど、気付いたのは最近でも、無意識のうちに随分とやらかしていたらしい。そりゃあナベにばれるわ。亮さんが気付かねえわけねえや。鳴だって察しやがったくらいだ。
 ――部屋の中にあるもの、全部倉持を思い浮かべて揃えていたなんて。
 我ながら重症だ。気付いた時点で末期症状現れまくり。むしろ、なんで気付かなかったんだろう。
「笑い上戸、なわけねえよな」
「ふはっ、んー……、違うな」
「アーその顔すっげえムカつく、やめろ」
 今の倉持も、この部屋は気に入ってくれている。根本的な好みは変わっていないらしい。
 でも、変わっているところもたくさんある。恋心に気付く直前、気付いてから今まで、1か月そこらだってのに、かつてのお前との違いを見せつけられた。知れて嬉しい。それもあるさ。ただそれ以上に、変わってしまったことに衝撃も受けたんだ。
 どうして俺の知らないお前がいるんだ、って。
 子供っぽい仕草は鳴りを潜め、味覚も随分と大人になった。噛み癖はもうないし、甲高い笑い声を響かせてはくれない。
「っはー、あぁ……、ほんっと笑える」
「何がだよ」
「こっちの話」
「ォイ」
 あ、掠れた。酒のせいかな。こんな風に倉持の声も掠れるんだ。ああ、また知らないこいつを見つけてしまった。
 なんとなくは同じでも、もう、あの頃とは違う。違いが気になるということは、きっと焦がれているのは今のこいつではない。の、だと思う。
 それなら、――決別、しようか。過去に向けた恋心と。いつまでも追いかけてはいられない。自棄になったわけじゃない、いつかはしなくてはならないこと。それを酒の力をほんの少し借りて、口が軽くなったこの機に言ってしまおう。そう、思っただけなんだ。
 6年越し、ダッセエなあ。疑問符付きでに口を尖らせた倉持を、ちらり、横目で盗み見た。
「倉持、」
「んだよ」
 喉が焼けて、えずきそう。吸った息がつっかえて、音にできるかわからない。でも、言わなくちゃ。こいつのためなんかじゃなく、俺自身が、割り切るために。自分勝手で悪いな。墓場まで持ってける気もしないんだ。
 肺に取り込んだ空気を、静かに、吐き出した。

「俺、あの頃、お前のこと、――好きだったよ」

 これ以上視界にいれていたら、そのまま泣き崩れてしまう気がした。男の涙ほど無粋なもんはねえ。両手で顔の下半分を覆って、そっと瞼を閉じた。
 目があったのはほんの一瞬。噛み締めるように、ゆっくりとしたスピードで。上ずることもなく、するりと舌に乗って零れ落ちた。言ってしまった。心臓の騒ぎは収まらないが、肩の力は抜けたらしい。まさに脱力、自分の体の重みを、これでもかと突きつけられた。
 もう、これっきり。いくらなんでも、男から好意を向けられたって、なあ。嘗ての笑い声が、キンッ、また脳裏に響いた。

「ヒャッハハハ!」

 ここにきて幻聴とか、やめてくれ。未練がましくなるだろう。しかも目の前の人物の過去にだぞ。迷惑と不毛以外の何物でもない。
 震える涙腺を何とか抑え込んで、そっと顔をあげた。視線の先には、言うまでもなく、倉持がいる。
 ――ああ、目までおかしくなっちまったのかな。
「うわ、ばっか、今こっち見んなっ……!」
 手の甲で顔を押さえてはいるものの、その皮膚が、赤く染まっているのは隠せていない。故意的に逸らされた視線は斜め下を向いていて、合わせるのには時間がかかることだろう。
 同じく隠しきれていない薄い唇は、平常時の引き締まったそれじゃない。緩いカーブを描きつつ、何か言わねばと数ミリの隙間を開けて震えている。
 切なく寄せられた形の良い眉。むき出しの耳は頬以上に真っ赤だ。残念ながら目元は隠れているが、こちらも赤くなっているのだろう。酒の後押しだってあるんだ、きっとそうに違いない。
「くらもち、」
「っせ、見んなっての……」
「やだ、見せて」
「ふざけんな、性格悪いぞ」
「いまさらじゃん、そんなのさ」
 両の手首を掴めばこっちのもの。それは今も同じだろうか。
 ぎゅうと捉えたそこは生々しい。記憶の一片ではなく、ちゃんと、掴んでいるんだ。どことなく骨ばっているな。痩せたのかな。背格好からして痩せたのは明らかだったろ。でもこうして直接触るからこそ分かるものもあるだろ。
「っ、たく、よお!」
「ぅえ、あっはい」
「何年待ったと思ってんだ、」
「う、ん」
「いっそ言わねえことにしたんだろって、思ったし、」
「うん、」
「音沙汰ねえからこっちも気付かなかったことにしようって、思ったってのに、」
「うん、ごめん」
「謝ってんじゃねえよ、つーか!」
「なに?」
「ぅ、いや、……その、」
 口ごもったその先を強請って、つい手に力が入る。
 俺がさっぱり自覚ない頃からこいつは気付いてたんだとか、気付いてたんなら言えよとか、まさか俺を気遣ってたとか嬉しすぎるだろとか、くるくる言いたいことは駆け巡る。だが、それを言っては、今、倉持から引き出さなくてはならない言葉を逃すことになる。
 まだ、間に合うのなら。その口から教えてくれないか。
「なあ、くらもち、」
「……ぁ、」
「うん、」
「あの頃、だけかよっ」
 目の前が、カッと赤くなった。絞り出された声に、何と返したらいいか、まるで出てこない。ただ、衝動的に抱き寄せた体は、やはり、記憶のそれよりも細くなっていた。
 隣を離れた1年目。念願のプロ入りを果たした。
 思い出す余裕すらなかった2年目。怪我が再発して1軍から遠ざかった。
 唐突に思い出す高校時代を懐かしんだ3年目。リハビリ続きで腐りもしたけど、なんとか試合に戻ってこられた。
 足を止めてなるものか、勇み続けた4年目。1軍に腰を落ち着けて、クリーンナップに辿り着いた。
 一息ついて、無意識にお前を求めていたらしい5年目。主要にバッテリーを組んだ投手が、一足先にMVPに名を連ねた。
 久々に会ったその背に、恋を自覚した今年のこと。最優秀選手の名を引っさげても、あの俊足にかき乱されてる。
「さっきの、撤回」
 終わらせよう。不毛の恋を。
 代わりといっちゃなんだけど、腹を満たしてくれるぬくもりに、甘えさせてくれ。今のお前に、改めて恋焦がれさせてくれ。
 頼むよ。

「俺、今もお前のこと――、」