七
実家に顔を出した大晦日。
三箇日に泊って行ったあいつは、仕事に追われる日々に戻った。
渡した合鍵は、まだ一度も使われていない。
手元の鍵を真上に投げた。同じ軌道を通って落ちてきたそれは、決して突き返された鍵ではない。複製元の、純正キーだ。車の鍵と一緒にまとめた銀色は、右手に収まった瞬間カチャリと金属音を立てた。
倉持が合鍵を使わない理由。そんなのはっきりしている。あいつが俺の家に来るのは、いつだって俺がいるときだから。そりゃあ使う必要ねえわな。
使うとしたらこれからだ。明日からは合同自主トレが始まる。気心の知れた連中と沖縄まで。オフからの解放、また野球漬けの日常がやってくる。それが仕事なのだし、むしろ楽しんでやってるから文句はない。いっそ、野球と向き合っていた方が雑念を消せるから気が楽だ。
もう一度、鍵を宙に投げた。道端で、やることではない。
――ついでに言えば、恋人の仕事場の、真ん前でやることでもない。
瓶底眼鏡越しにミラービルを眺め三秒、透き通った自動ドアに人影が見えた。走ってきたそいつは、注意書きに沿って自動ドアの前で立ち止まる、なんてことはしない。ガラス戸を平手で叩いて反応させ、ドアが開くまでの一瞬すら惜しいと足を急いていた。
別に、どこにも逃げやしないってのに。
「よう」
「っよう、じゃねーよ!」
「はっはっは、悪いな急に」
「悪いって思ってねーだろクソが、書類片付いたから良かったものを……!」
声をかけると同時に、息のあがった倉持は俺の胸倉を掴んだ。かつて九センチだった身長差は十二センチに。たかが三センチ、されど三センチ、こいつの高さから掴み上げられたところでほとんど苦しくない。しかも走ってきたせいで若干蟹股、余計に身長差広げてるって分かってる?
「いきなり来やがってよお!」
「悪かったって、でもしばらく会えなくなるからさ」
「そのために二日三日とおめーん家行ったんだろうが……」
「それはそれーこれはこれー、直前にも会っておきたかったんですう」
「語尾伸ばしてんじゃねえよキッメエ!」
そういうお前は、おまけに舌打ちするのやめような。ほんとにこれで営業ってんだからビックリだ。話の様子からすると、優秀さ故の多忙に思えるが実のところはどうなのだろう。今度ナベにサーチいれてみるか。
苦笑いを浮かべ、ひとまず駐車場へと足を向けた。オフィス街と言えど、あちらこちらにコインパーキングがある。利便性の高いところほど円の前の数字は大きくなるが、どうせ一時間しか停めていないのだ、大した額でもあるまい。
「おい、」
「ん?」
「お前免許持ってたのか」
「持ってたよ。むしろなんで持ってねーと思ったんだよ」
「野球以外てんで駄目なお前が運転?」
「それくれーできるっての」
「正直に言え、何回車ぶつけた」
「一度もないし、ついでにペーパーでもないからな。俺を何だと思ってんだよ」
まじかよ、とか、嘘だろ、とか、眉間に皺を寄せたまま倉持はぼやく。だが、駐車場に入って愛車のロックを解除すれば、なんの断りもなく助手席に乗り込むときた。堪らねえな、シートベルトをするのを横目で見るだけで口元が緩む。
いくら悪態を吐いたって、そこそこの信頼を向けられていること丸分かり。誰かの運転が恐ろしいと思ったら、普通後ろに乗るもんじゃねえの。俺なら絶対、鳴の運転する車には乗らない。天変地異が起きてゴールドになったとしても嫌だ。
「倉持はさ、」
「んだよ」
「免許持ってないの?」
「バイ免はある」
「原チャリ?」
「ちっげーよ、大型だっての」
「そっちとって何で普通免許とらなかったんだよ」
「なんとなく」
車体が震えると共に頬杖をついた倉持はそっぽを向く。どうせ隣の軽自動車しか見えねえんだからこっち見ろよ。
慣れた手つきで静かに発進させると、横顔がふくれっ面に変わった。まさに惚れた弱み、どんな顔をしていても愛おしいの範疇だけど。しまった、そう思ったら余計に見たくなってきたじゃん。ほらこっち向けよもう。
「なーに拗ねてんだよ」
「拗ねてねえよ」
「はいはい。あ、お前ん家どっち」
「……ハ」
「だから、倉持の家、どっちって。俺ん家と近いのは知ってっけど」
機械の音声に従ってコインを数枚。あと三分早かったら二枚少なくて済んだのに、どうせ取られるなら、もっとのんびりしてれば良かった。
持ち上がった黄色と黒を越え、とりあえず左折すれば、二度目の呆けた声が聞こえてくる。
まあ、急に言ったという自覚くらいあるさ。何の前触れもなく「仕事何時に終わるの」とメールし、時間だけの簡素な返信に「じゃあそれまでここで待ってるな」と会社の写メを送り。極めつけが「お前ん家どこ」。そんな返事でも仕方がない。
「ハァア?」
「三回も言うことねえだろ」
「なんで、いつもテメーん家だろ」
「そうだけど。一回も行ったことねえなって思ったら気になって」
「気にしてんな、そんで来んな」
「あれ、でも車停めるとこある?」
「聞けよ」
聞いてるよ。でも来るなと言われたら行きたくなるのが人の性。それを一字一句その通りに言ってみろ、ハンドルを握ってようと、時速六十キロオーバー出してようと、お前は手を出してくるだろ。危ないでしょうよ、倉持君や。
「いや、まじ来んなよ……。狭ぇし散らかってるっての」
「それだけなら構わねえよ、行きたい」
「あのなぁ」
「行きたい」
「だから聞けっての」
「うん、でも行きたい。はっきり言ったよ、受け止めてくんねえの」
「んのやろぉ……」
やっとこっちを向いたと思えば、前髪をぐしゃりと握りつぶした。きっと「なんで俺が一歩譲らなきゃならねえんだ」と思っているのだろう。
シートに全身を預けた倉持は、上に向かって大きなため息を吐いた。吐き出した幸せもそこなら重力にしたがって戻ってくるかもな。左折しながら盗み見れば、涙袋が誇張された微妙な顔をしていた。悩んでるな、でも俺はもう行く気でいるよ。良しの一声を待ってる。
頼むってば。
「ほんと、せっめーぞ」
「四畳半よりは広いだろ」
「なにもないし」
「倉持がいたらそれで十分」
「じゃあもう十分ってことじゃねーか」
「お前ん家行けたら十二分に幸せ」
「百パー超えてっぞばーか」
「限界超えさせてくれよ」
「つぎ、……信号右な」
「っ!」
咄嗟に左横を向かなかった俺を褒めてほしい。それどころか右後ろを確かめて車線変更、遠心力に体を揺さぶられることなく交差点を右折してやった。直進のつもりだったけど、ふうんそういう道もあるんだな。初めて知った。
つい、にやける。片手ハンドルなったら倉持に怒られるかな。それはやだなあ。けど、口元を隠さないと緩んだ面を見せるはめになる。
代わりにハンドルを握る力を強めた。その力で、込み上げてくる情動をいなせたら良いなと思って。まあ、できないんだ、これが。超嬉しいもん。
「にやけてんじゃねー」
「いやいや、近道教えてくれたんだなあと」
「……遠回りだよ」
「えっうっそ!?」
ああ、だめだ、今度は左を向かずにいられなかった。すぐに頬を押し返され前に首が戻るけど、どういうことだよそれ、聞き捨てならねえな。俺はいち早くお前の家に行きたいの。分かるか。分からねえわけねえよな。そうだよな。
「なあ!」
「もう、少し、」
「あ?」
潜んだ声につっかかってしまう。もう少し、ってなんだよ。心の準備させてくれって? 家に招くくらい「しっかたねえな」で受け止めてくれる男前な倉持はどこへ行ったんですか。初夜直前の処女かよ。
そういえば、何晩越しても、こいつとセックスするとこ想像できねえな。え、それ恋人としてまずくねえ。
「――お前が運転してるとこ、見てたい」
「ぅへっ!?」
「そのまま真っ直ぐ。しばらく行くと左にでっかいスーパーあるからそこまで」
早口の一呼吸で言い切った倉持は助手席のシートに沈み込んだ。どことなく視線が俺を向いているのは、気のせいじゃない。
ある意味でやましい空想は遙か彼方。まさかのドライブデート。いざ体験するとなると心臓に悪い。標識の一つ二つ見逃しそう。いえいえ、安全第一で走りますよ、なんせ愛すべき彼が俺に見惚れてくれているのだから。はっはっは、誰だ俺。
「何、買うんだ」
「色々。冷蔵庫、空なんだよ。あとちょっと良い酒買ってこーぜ」
「ははは、部屋はアレでも飯だけは豪勢にって?」
「うーるせえ、ほんとに違う道言うぞ」
バックミラーを一度確認。後続車はいない。思いのほかかっ飛ばしてたらしい、スピードメーターはいつもより大きな数字を指していた。これはいけない、もったいない。貴重な二人きりの空間を、わずかでも引き伸ばそうとアクセルを緩めた。
そんな希少価値高いデートを経て、行きたくて仕方のなかった倉持宅に到着した。
フロントガラスごしに見上げて、つい、呆けてしまう。思っていたのと違う。聞いていたのとも噛み合わない。
「……別に、」
「んだよ」
「そこまで狭そうでもないじゃんか」
「テメーはどんな家想像してたんだよ」
存外広々と駐車スペースのとられた賃貸アパートは、築三年の非常にきれいなものだった。それぞれ一つずつスーパーのビニール袋を提げて車を降りて、倉持の後に続く。清掃の行き届いたコンクリートの階段を上って、扉は二つ目。廊下もさびれてる様子はなく、学生が住む簡素な印象もない。
あちらこちらを見ているうちに、倉持はスーツのポケットから鍵を取り出した。そして玄関扉にざくりと突き刺す。キーホルダーの猫体を揺らした。猫の腹に書かれてある"モンクロ"とはなんだろう。ユニクロと似たロゴだけど、ゲーセンで取った粗悪品だったらどうしよう。それはそれで倉持らしいか。
「……開けねえの?」
「閉まった」
「しまった?」
鍵を刺し、捻ったのだから玄関の扉は開くはず。鍵をノブに刺したまま固まった倉持を見ていれば、今度はゆっくりとした動作で手首を逆に捻った。微かに聞こえてくる、鍵の外れる音。
「っかしいな、俺ちゃんと閉めてったよな……」
「ド忘れじゃねえの、でなきゃ、」
「……あ、空き巣じゃねえ、よな」
「いや、まさか、……なあ?」
互いの目を合わせれば、こっちもそっちも引きつった笑みを浮かべていた。だったらどうする。犯行現場を取り押さえられれば幸い、もし刃物を持っていたらデッドエンド。自主トレ前に死ぬとか馬鹿みたいじゃん。
極力音をたてないように、倉持は鍵を引き抜いた。今、扉は開いている。ノブに手を掛け、ごくり、喉が上下した。右手に筋が浮かび、力を入れたのが分かる。さて、何事もなければいいが、むしろこんなところで非日常に遭遇したくない。
ごくり、俺の喉がなったか否か。スローモーションで、玄関の戸を引き開けた。
――カレーの、香り。
おおよそ五センチばかし開け、かちりと固まった。思ってたのと、なんか違う。っていうか、カレーって。倉持の家からカレーってどういうことだよ。作ってたとでも言うのか。冷蔵庫が空と言って、カレーを作ったと言わない道理とは。
嫌な予感がする。もしかして、もしかしなくとも、カレーを作ってくれる誰かが、こいつにいるとしたら。それが野郎なわけがない。たいていの場合は女性で、こいつの部屋に入れるだけの親しさをもった人で。ぐるりと巡った嫌悪で、掴みかかりそうになった。
いや、実際こいつに向けて腕は伸ばしたんだ。ただ、掴むより早く、倉持が家の中に駆けこんだ、というだけで。
あの焦りよう、命中しちゃった。まさかの修羅場という非日常。期待もしてなければ、望んでもいない。そういえば自然消滅した彼女がいるんだっけ、その子が戻ってきていたのかな。ありうるわ、ははっ。
ああ、もうやだ。脱ぎ捨てた革靴を見ているだけで目頭が熱くなる。くたびれた背中を追いかけていけない。だってそうだろ、女の子が中にいたとして、俺は明らかにこいつの"恋人"ではなく"友人"に見えるのだろうから。
ぎりぎりの理性で買い物袋の取っ手を握りしめた。ぐしゃり、鳴ったのはビニール袋か、歪んだ心か。
「――ん、っで来てんだよ、クソババア!」
一瞬で、頭が真っ白になった。
え?
エ?
「なああによ、お正月帰ってこなかったから様子見に来てあげたんじゃない!」
「余計なお世話だ、つーかどうやって入ったんだよ!?」
「大家さんに『洋一の母です~』って言ったら一発よ」
「クッソがぁあああ」
頭は働かなくとも、足は動かせるらしい。ふらりと前に出た右足が、玄関を踏みしめた。
「あ、そうだ、おかえり」
「いやンなのどうでも、」
「お・か・え・り」
「……たでーま」
すげえ、倉持が押されてる。壁の向こうを意識しつつ、そっと部屋を見渡した。
正面が靴箱、左側にはさっそく洋室。八畳はあるだろうか。ベッドがあって、ゲームソフトがずらりと並んだ棚があって、控えめな大きさのテレビもある。床にはコントローラーとゲームソフト数枚が散らばっており、これぞ倉持の部屋。ロフトあるし、ベランダあるし、結構広い。
恐る恐る靴を脱げば、ちょうど靴箱の壁の向こうから喧騒が響いていることに気付いた。なるほど、この壁挟んで向こうが台所か。便所と風呂もそっちのほうにあると見て間違いない。そろそろと、足音をできるだけ立てないように、近づいた。
けれど、なんとまあ空気の読めないやつがいたもんだ。
ビニール袋は、静かに揺れるということを知らなかった。
「アラッ、誰か連れて来たの?」
「っせえな、誰でもいいだろ」
「わかった、彼女だ~!」
「はぁあ、ちっげーよ! っておい聞けってのクッソババ」
アァアアア。
倉持の怒号を背中に連れて、ひょこり、女性が顔を出した。思ったよりも、若いだろうか。大きな瞳はあいつの三白眼と似ても似つかないが、細く強気に伸びた眉はなんとなく似ている。
ぱちりと目があえば、薄い唇が弧を描いた。そうしてニカッ、白い歯がさらされる。
こりゃあ、親子だわ。
「御幸君じゃない! どうも~洋一の母です~、まぁだこんなのと付き合ってくれてるなんて、あんたも良い友達持ったわね!」
「ダチじゃねぇよ!」
「ばかねえ、家に連れてきてんなら友達でしょ」
「そーゆーんじゃ、……あぁあもういい」
ダチじゃない。それはその通りなので構いません。倉持ってば正直者。切ないような、嬉しいような。恋人なのだから、否定してくれて構わないのだが、親の説明でも否定されると物悲しい。面倒臭いヤツと言われそうだ。面倒な恋人でごめん、付き合えて俺はとっても嬉しいです。
実質、していることは、チームメイトだったときと何一つ変わらないんだけど。ハグもキスもセックスもしてない。手を繋ぐことすら。あ、でもついさっきデートはしたな。訂正、ほんの一、二ミリ程度は恋人っぽいことしてたわ。
「いいえ、俺も世話になってますし」
「っは~、アンタ聞いた? この礼儀正しさ、ちょっとは学びなさい」
「ハッ、外面良いだけだっての。中身は性悪」
「はっはっは、いやはやまったく」
待って待って、ガンガン話振ってこられても心の準備ができていない。いくら倉持の家とはいえ、実家に行くくらいの度胸いる場面だよ、今。こんなことになると分かっていたなら、買い物してる間に覚悟しておけたのに。助けて、猫型ロボット。
この女性が倉持を産んだ人だと実感するほど、緊張は高まっていく。そうだよ、この人倉持のお母さんだよ。快活に笑う彼女を前に口が渇く。笑顔が引きつっていないか不安になる。
思いのほか焦ってるぞ。焦ってると自覚ができてるだけマシかな。でも笑顔でピン止めした口から心臓出てきそう。こりゃあマシじゃねえわ。何を口走ったらいいか分からないし、口を開いたところで正常に頭は回らない。
逃げたい。単に、母親という存在に慣れていないだけかもしれないが、脱兎したくて堪らない。
「あ~……、家族水入らずを邪魔するの、悪い、ですし。今日のところはこれで、」
「そうそう、カレー作ったのよ! こんなおばちゃんの手料理で良ければ食べてって」
「おいと、マ?」
「洋一が迷惑かけてるでしょ? プロ野球選手に出すにはお粗末かもしれないけど、少しでもお礼しないと」
「しなくていーよお節介ババア……」
「喧しい」
「ぅぐぉぁっ……!」
躊躇いのない肘鉄が倉持の鳩尾にクリティカルヒーット。うわっは、ほんとに倉持の母っぽい。
マシンガンに近い言葉を浴びせられながら、そっと腹を押さえた猫型ロボット、違う、倉持を見やった。俺、どうしたらいい。緊張が加速してきて、どうしたらいいか分かんなくなってきたんだけど。混乱しすぎて自分の頭の整理すらできない。
ひたりと目が合い、まばたき二回。控えめなため息が聞こえた。
「食ってけよ。こいつ、一度言ったら聞かねえぞ」
「親をこいつと言うんじゃない」
「ヒャハッ、二度も喰らわねぇぅぶっ」
「調子に乗ってるのはこの口かしら~?」
一歩引いて肘鉄を避けたものの、顎を鷲掴みにされ睨み上げられる恋人の姿。親子ってこんなアクティブなものだっけ。親への我儘も悪態もほとんど言わずに育ってしまったため、目の前の光景が不思議な世界に見える。
ぽかんと口を開けたまま眺めていれば、弾くように倉持を解放したあと、ぱたぱたと部屋の奥に戻って行った。残されたのは顎を押さえてげんなりとする倉持に、呆けた顔の俺。母親って、スゴい。
沈黙を続けていれば、もにょりと、倉持の唇が波打った。
「……まあ、味は保証する。から、帰るなよ」
「いい、の」
「そもそもお前、俺ン家あがってくつもりでいたんだろ。"アレ"がいたのは予定外だったかもしんねえけど、今日のところはこれで我慢しとけ」
「いや、そうだけどさあ」
「なに、柄になく緊張でもしてんのかよ」
「……するに決まってんだろ」
お前だって、俺の親父に遭遇したら緊張するだろ。でもこいつのことだ、最初三秒固まるだけで、その後は和やかに話をしだすかもしれない。仮にも、華やかな営業職に就いているわけだし。なんで高校のとき友達いなかったんだよ。外面のせいか。
鞄をベッドわきに置いた倉持は、おもむろにロフトの梯子を上る。置いていくなよ!? どうしたらいいか分からないんだって。そろそろと酒の入ったビニール袋をテーブル横に置き、ロフトを見つめる。
――ふわり。水色が降ってきた。
「うおっ!?」
「ナイキャー、あと二枚いくぞー」
声をかけられたのと同時に、もう二枚落ちてくる。なんとか掴んだそれはクッション代わりの座布団。投げ下ろすにしてもタイミングはかってからにしろよ。
じっと倉持を睨み付ければ、なぜか台所から笑い声。そちらに目を向けると、上機嫌な倉持母が白いカレー皿を取り出したところだった。
「あ、ソレ二枚しかねーぞ」
「別にいいわよ、違うの出すから、……ってアンタどこ行くのよ」
「便所だよ、言わせんな!?」
乱雑に散った座布団をそれなりに並べておけば、台所の奥の空間にそいつは姿を消す。やっぱり便所はそこにあるんだな。ここからでも洗濯機が見えるし、風呂場もそっちで間違っていない。ってあれ、やっぱりおれ置いてかれた?
はっと気付くも時すでに遅し。腹を括る前に、高い女声が飛んできた。
「ご飯の量、どれくらいがいいかしら」
「な、んなら自分で盛りますよ」
「ふふ、その方が良いわね。"アレ"の分もお願い」
アレの言い方が見事に一致。またもや親子を思わせる一瞬を垣間見た。
手渡された皿を受け取って、一人前プラスアルファ程度に飯をよそう。そばに立つ彼女は、当たり前のことなのだが、あいつより小さい。たくましさはもう見たけれど、か弱さもある普通の女性だ。
二皿目にもおおよそ同じ量を分ければ、男の子ねえと彼女は笑う。皿を受け取った手は、赤く荒れていた。
わずかなやり取りごしに、どくん、どくんと鼓動が体中に響く。主将になったときよりも、ヒーローインタビューを受けたときよりも、ついこの前のスピーチよりも、心臓が喧しく騒ぎ立てる。こんなに緊張するの、いつぶりだよ。むしろ、これほど簡単に緊張を繰り返す質だったか。
ちょっとは大人しくしろっての。
***
くっきりとした、背中の足跡。あれ、確かコイツ素振りしに行ったんだよな。なのに、どうしてその白いTシャツの背に、きれいな足の跡ついてんの。
風呂場の脱衣所でたまたま隣になるくらい、何度かあった。話したこともあるし、飯時に隣り合う、向かい合うなんてこともあった。柄の悪い奴だな、という第一印象と、部内一ではないかという俊足。目にも留まる。
そこまで、親しい奴ではなかったけれど。どっちかといえばノリと話すことの方が多い。ポジションを思えば必然的。ついでにこいつは亮さんによく構われてる。遊撃手という守備の華に就いてるせいか、見た目に反した人懐こさのせいか。
「なあ、」
「んだよ」
その程度の仲の良さ。しかし、聞かずにはいられなかった。
シャツを脱ぎ捨てたため背中に足跡はもうない。視界にあるのはバランスよくつきはじめた筋肉と、大きく浮き出た肩甲骨くらいのものだ。
「すっげえ跡ついてたけど、お前なにしたワケ?」
「跡、って……、うっわんだこれ!?」
「気付くの遅くねえ!?」
いくばくか低い位置にある肩がびくりと震えた。脱いだばかりのシャツを広げて、自己主張激しい足跡を見つけたのだ。
そんなのつけられて気付かないでいるって、どれだけ鈍いんだよ。むしろ、風呂場までの廊下で他の連中がひそひそしてたの、このせいだろ。後ろ指刺されるとか、陰口を叩かれるだとか、気にしねえの。元ヤン風の見た目通りに慣れっことでも言うのか。
「あぁ~、さっき純さんに蹴っ飛ばされたからだな、ウン」
「何したんだよ」
「いや、亮さんがさ、純さんのわき腹突いて遊んでたから混ぜてもらって」
「お前だけ蹴っ飛ばされたと」
「つーか、亮さんに盾にされた」
「ははは、目に見える!」
「笑ってんじゃねえぞクソが」
「ェッフ……」
ケツに決まったタイキック。ナニコレ、超痛い。まだ下のジャージ穿いてて良かった。直に喰らったら絶対肌に跡残るやつ。純さんの悪行にぶつぶつと文句をこぼしているが、お前もどんぐりだよ。
じんじんと痛む尻をさすって、俺もシャツを脱ぎ捨てた。適当に丸めて籠に突っ込まれたそれは洗濯機行き。だってすぐに洗うんだぜ、丁寧に畳む必要ないじゃん。隣にいるこいつみたいにさ。その足跡ついたシャツまでそれなりに小さく畳んでやがる。A型か。知らねえけど。
「見てんじゃねえぞコラ」
「柄悪ぃな、そんなんだから生意気って言われんだぜ」
「おめーに言われたかねえよ」
はんっと笑って、倉持はジャージのゴムに手を掛けた。腰骨の上あたりの筋肉が少し盛り上がっていて、腹筋もきれいなシックスパックには程遠いがうっすら割れ目ができている。それでもまだ上半身は細い方。わずかに肋が浮いて見えた。
腕だ、首だの日焼けあとは、きっと自分にもできている。黒く染まった部分と、生白い部分とのコントラストが、やけに目についた。
――そして込み上げてきたのは、ほんの些細な出来心。
下着が半分見えたところで、サッと腕を伸ばした。
「てーいっ!」
「ヒョォウッ!?」
ナイス反応ありがとよ。
肋の骨と骨の間を指でなぞれば、そいつの両手はジャージから離れた。そんな半端に脱いだ体勢で大丈夫か、俊足を発揮できねえぞ。恐怖のタイキックだって放てまい。
「ンに、何すんだテンメーぅひっ!」
「はっはっは、こりゃあいいな、面白ぇ」
「面白がってんじゃ、ぅおわっやめっ、」
手を叩き落とされようと、構うものかとじりじり迫れば、いつの間にか倉持の背が壁についた。思いのほか冷たかったのだろう、その感触にもびくりと肩を震わせる。わかった、こいつ、くすぐったがりだ。間違いない。でなきゃ、指一本触れただけであんなに反応するわけがない。
悪い笑みを浮かべてるだろうな。背後から白州の呆れた視線を感じる。それからノリの止めないと、と思いながらも手を出せずにあたふたする気配。はっはっは、誰も助けは入らねえぞ。
「うりゃあ!」
「ひょぉうっ、っへは、ヒャハッまじふざけんンハハハハ!」
「あーら倉持君腰が抜けましたかぁ~?」
「ふっざけんブフッ、くっ……、ひぃえっへぇ・……」
くすぐっているうちに、倉持は壁伝いに滑り落ちていく。これ幸いと、両脚を跨いでマウントポジションに近い体勢をとってしまえばこっちのもの。くすぐられて力の抜けた腕に抵抗されようと、痛くも痒くもない。
がらっと風呂場への扉が開くと、呆れた何人かは俺たちを放って湯煙漂う方へ消えていった。ほらほら、どんどん助けの手は遠ざかっていくぞ。十本の指を、薄皮一枚だけ触るように滑らせれば悲鳴に近い笑い声を響かせた。
息も絶え絶え、笑いすぎて目尻に涙を浮かべている始末。こっちもその反応に笑っているから、若干腹が痛い。感度良すぎじゃね、大丈夫ですか洋一君。茶化すと、笑いにほぼ支配された悪態が返ってきた。悪態になってねーよ。
「まじ、みゆっ……、や、ひゃめっ」
「呂律回ってねー!」
「んる、っせ、誰のせひ、んぁっ!」
大暴れの大笑い。最後の砦のノリが、申し訳なさそうに、風呂場へと踏み入った。逃げ場は完全に失った、さあどうする、なにする。くすぐり続行に決まってるだろ。また指を蠢かせれば、一際大きく倉持がのけぞった。おかげで喉仏が天井に晒される。
はは、なんか、あれ、これ。
「……、」
手こそ止めないものの、くすぐったさと息苦しさで、途切れ途切れとなる笑い声を脳内に録音する。目の前の光景もきっちり焼き付いて系るから、録画している感覚に近いかな。
ごくりと、唾を呑んだ。これは、うん。あれだ。
「ぇっろ、」
「ぁに騒いでんだ、いっちねぇぇええん!!」
「ぅおっわ!?」
「あ? おめーらか、ん? 騒いでたのはおめーらかコラ」
わざとらしい足音を立てて近づいてきたのは、そもそもの発端であろう一つ上の先輩。最近髭を生やしはじめたそうですが、決して低くはない声と逆に平均より小柄な身長のおかげで残念なチンピラに見えますよ。嘘ですゴメンナサイ、言ってないのにすっげえ睨まれてんだけど。
つかつかと寄ってきた純さんは、俺たちに近づききる前に立ち止まった。そこからでも、俺の下に敷いた倉持は見えたのだろう。
息を切らして半狂乱に笑い声を漏らす倉持。そして悪い顔をしてそれに跨る俺。お互い上半身裸で、倉持に至ってパンツまでずり落ちかけている。
ヒクッと、倉持の喉が鳴った。
それが、合図となった。
「ホモだ、ホモがいるぞおおおお」
「ちっがいますって!」
「俺のこと、遊びだったのか……!?」
「クソ御幸、テメーも乗ってんじゃねえよボケッ!」
「グぶふぅっ……」
「ねー、純うるさ……、うわなにしてんのお前ら」
高々と純さんが叫んだおかげでもう一人脱衣所に顔を出した。発端その二、小湊亮介さんのお通り~っと。
悪ふざけついでにホモの流れに乗ってみたが、大分回復したらしい倉持に鳩尾を殴られたので声がでない。腹を押さえながらなんとか後ろを振り返れば、呆れた目をした亮さんが純さんの隣に立っていた。
「どうすんだよ、舎弟が襲われてンぞ」
「知らないよ、食われとけばあ?」
「っか~、亮介おんまえひっでえな!」
「倉持の反応面白いから仕方ないんじゃない? まあどうでもいいや、さっさと風呂入りなよ」
ひらっと手を振って踵を返した亮さんに、ああ面白かったと純さんも続く。いや、あんたらなにしに来たんだよ、注意しに?
とりあえず倉持から退けば、ぐったりとしながらそいつも起き上がった。なんとなく足が震えているあたり、まだ力が入っていないのだろう。俺だってまだ鳩尾痛いし、ケツ痛ぇよ、だから睨むなって。
一息ついてからお互い風呂場に向かえば、やっと終わったかという目を突き刺された。そんなに騒いでたかな、率先して騒ぎの中心に行くことがないだけに不思議な気分だ。
「んだよ、やんのか、返り討ちにすっぞオラ」
「もうしねえって」
頭から湯水を被れば、途端に逆立てた髪の毛がへたる。ほどよく疲労を孕んだ顔に、滴る水。ゆっくりと上下する肩にどきりとした。いやいやいや、ねーわ。ねーよ。ない。そうは思っても、どくんどくんと拍打つ心臓は落ち着く様子がない。
隣で乱暴に頭を洗い始めた倉持は、瞬く間に白い泡に包まれていく。水気を帯びた肌に泡が落ちれば、その場に留まることなくするりと滑っていった。肩を背を、くすぐっていた脇腹を。白い線が伝って、落ちる。
『んぁっ!』
甲高い声が、再生された。そりゃあ頭にきっちり録音したけど、再生ボタンおしてねーよ。なんで今それ流すんだよ。
上昇の一途を辿る鼓動は、深呼吸をしたところで治まりはしない。怪訝な顔をしてこちらを向いた倉持にすら、どくんと脈打つ。はっはっは、今、こっち見るなばーか。
声にはしないで、石鹸のついた手のまま尖った口を摘まんでやった。
「苦っ、なにすんだてめえ!」
「はっはっは、尖ってたら摘まみたくもなるだろ」
さすがに風呂場では、もう暴れる気力もない。というか、これ以上近づいたら、謎の緊張で心臓破裂するわ。こっちの気も知らずに掴みかかってこようとしやがって。
この野郎と、シャワーをぶっかけた。
***
今思えば、あれ欲情じゃん。緊張じゃねえよ。同じドキドキでもまるで種類が違うっての。
受け取ったカレーライスの皿やスプーンをローテーブルに並べていれば、ようやく倉持が戻ってきた。濡れた手をひらひらさせながら、そばにいる母親の手元を覗き込む。ついでに布巾で手を拭ってるらしかった。
俺がさっき見た限りでは、彼女はサラダをわけている。トマトとキュウリとレタス、たぶんカニカマも入ったシンプルなもの。一言二言のあと、器用にも倉持は皿を三つ持った。
「ホテルの給仕みてえだな」
「知り合いが式場でバイトしてて、そいつに教えてもらった」
かといって、テーブルに置くところは雑。静かに音を立てないよう気を遣う様子はなし。
台所には戻らず、座布団の上に胡坐をかくので、膝立ちをしていた自分もそれに倣う。母親は台所で片付けを始めたようだが、手伝わなくていいのだろうか。ここが倉持の家というのを思うと、どう動いたらいいか分からない。せめて実家だったのなら、慣れねえことしてんなよと立ち上がれるのに。
どうしたものかとカレー皿を眺めれば、ごろごろと大きなじゃがいもと、割に小さく切られたにんじんが見えた。もちろん、つるりとろりとした玉ねぎも、ぶつ切りの肉も入っている。多いのは肉とじゃがいも、次いで玉ねぎ、最後ににんじんと言ったところか。こいつ、昔はにんじん嫌いだったのかな。その名残で、今も小さく少なめに入っているとか。
「先食っていーい?」
「気遣わなくていいわよ、食べちゃいなさい~」
「いただきまー」
「い、いただき、マス」
スプーンに大きくすくったそれはうっすらと湯気を立てている。ふぅふぅと軽く息をかけてから、倉持は口を大きく開けて飲み込んだ。咀嚼しながら次の一口をとり、着々と皿を減らしていく。静かに、俺もカレーを頬張った。
なんてことのない、普通のカレーライス。大きなじゃがいもがほっくりしているとか、見た目以上に肉にボリュームがあるとか、男子がいかにも好きそうなカレーだ。洋食屋とか、インド料理屋とか、そういう凝ったものではない。
でも、なんでだろうな。あったかくて、おいしいんだ。
どこか倉持の顔も綻んでいる。いきなり母親が来て、あれこれ悪態を吐かれて、ムッと唇を尖らせていても、にじみ出る嬉しさを隠せていない。きっとこれが、こいつにとって、"家庭の味"なのだろう。
「……うま」
「だろ? あいつに言ってやれよ、スゲー喜ぶから」
「はは、もちろん。美味いって言ってもらうことほど、作って嬉しいこともねーしな」
「ああ、やっぱ嬉しいんだ」
「そりゃな、心を込めて作ったのなら、なおさら」
だから、この前うまいうまいと言いながらすき焼き食ってったとき、めちゃくちゃ嬉しかったんだぜ。内心そう続けて、さらにカレーを頬張った。
カレーライスだなんて、子供の好物の定番で、普通であればあるほど色気から遠ざかっていく。それでも、上機嫌に緩むその顔を眺められるのなら、作ろうかという気になる。つい、一人暮らしの割に作りすぎてしまうと敬遠してたけど、こいつがいるなら、きっと大丈夫。
片付けを終えた倉持の母親が、向かいに座ると自然に口が開いた。ついでに情けなさそうな笑顔付き。
「おいしいです」
飛びっきりの笑顔を返してもらって、胸中で頭を下げた。後日になりますが、きちんと挨拶しに伺います。ついでに、緩んだ息子さんの唇に触れたくて仕方ないのを必死に我慢してること、ご容赦ください。