八
しっとりとした疲労感を抱え、玄関扉に鍵を突き刺した。
重さと共に鍵が外れたのを確認し、玄関扉を手前に引く。
会いたいなあ。
浮かんだそばから、見慣れない黒のスニーカーが目に入った。
「へ?」
俺のではない。布地のスニーカーは、足の形に合わないからかしっくりこないのだ。だから好んで履きはしない。しかし、ゆったりとした空間の真ん中に鎮座しているのは、星のマークが入った布地のスニーカー。俺のじゃない。では、誰のものだ。
――言うまでもないか、見慣れないとはいえ、片手で数えられる程度には見ているものなのだから。
焦る気持ちを押し込んで、それでも靴を脱ぐのに手間取ってしまう。なんでこういう時に限って、靴ひもをきつく結んでおくんだろう。ちょっとの動作がスムーズにいかないだけで苛立ってしまう。
なんとか脱ぎ捨てたそれを、几帳面に揃える気力は沸いてこない。一分でも、一秒でも、あのドアの向こうを確認したい。数メートルもない廊下を駆け、ダイニングキッチンに続く戸に手を掛けた。
そういえば、あっちにいる間にメールがあったんだ。いつ帰る、たったそれだけの文字列。されど強烈な威力を持った文字列。宿泊先で異様にテンションの上がった俺に、チームメイトが怪訝な目を向けて来たなあ。そんなのどうでもいいと思うくらい、嬉しくなった。でも、喜び狂う様を気付かれたくないとも思ってしまって、「土曜日。」と単語で返したんだよな。ほんとは電話を掛けて声を聞きたかったんだ、必死に衝動を殺して一語を送り返したんだ。
勢いよく、ドアを開けた。
「っく、らもち、」
「よぉ、帰ったか」
愛しい顔が、視界に飛び込んだ。それと同時に、コンソメの香りが鼻腔を掠める。
改めてその出で立ちを注視すれば、右手に、お玉。左手に、手塩皿。シンプルな黒のカットソーに、カーキのスキニーパンツ。思いの他、細い。膝から下にくしゃっと皺が寄っているせいかもしれない。だが、上半身に視線を戻せば、どうしても、腕にフィットした黒に目が留まる。そんで、その先にお玉と皿だろ。
はっはっは、エプロンついてなくて良かった。
ぱたんと、ドアを閉じた。
『……オイ』
一枚挟んだ向こうから、ツッコミを兼ねた低い声がする。一目見た瞬間に扉を閉めたんだ、ドスの効いた声が響いても文句は言えない。再びドアを開いた暁には、フライパンが飛んでくるかも。
落ち着けと、ゆっくりと息を吸って、そして吐き出した。重たい荷物が肩にかかっているのに、まるで重みを感じない。むしろふわふわと浮いていきそう。その癖、腹の中をぐるぐる巡る熱だけは、しっかりとした重量感。蹲りたくなるのだけは必死に堪えて、間抜けに緩んだ口元を隠した。
ここで一つ断っておこう。別に、言うほど細くはない。社会人野球を続けているだけあって、肉付きは良い方。同年代のサラリーマンを並べれば、一目瞭然だ。決して、今のあいつは細くない。
しかし、記憶に住まうあいつに比べたら。今の今まで一緒にいたプロ野球選手と比べたら。ついでに、腐るほど見ている自分の体と比べたら。……細くも見えるってもんだ。相対的にとはいえ、細いものは細い。世の中の平均と比べて細くなくても、俺にとっては細い。
そんな俺目線で細い倉持が、お玉もって鍋をかきまぜている。体の線が見える黒のカットソーっていうのもポイント高い。黒って細く見える色なんだっけ。際立つだろ。若干厚みの失せた上半身、今の体格差なら抱きしめたときの格好もつくんじゃねえか。はっは、やーべえだろ。
唇を目一杯内側に巻き込んで、にやける口に叱咤を打つ。過剰に出てきた唾液を飲みこんで、今度はそっと扉に手を掛けた。
「……、」
「んだよ、その顔はよお、あぁ?」
「いや、その、思った以上に衝撃的でな」
「そもそもお前がいつでも来いってコレ渡したんだろうが」
いつの間にか小皿もお玉も置いていたらしく、ポケットから鍵を取り出して軽く揺らした。鍵の脇では猫が揺れる。倉持の家の鍵に付いていたのとはデザイン違いだろうか。つーか、同じキーホルダーでまとめないんだ。紛らわしいとか、そんな理由かな。
「それは、そうなんだけどさあ」
襟ぐりから、鎖骨が見えた。首から伸びた筋とか、喉仏とか、日焼けしていない肌とか、もう目に毒。猛毒。
ここで物欲しげに唾を飲み込んだら、どんな目で見られるだろう。いや、恋人なんだから、ムラッときても仕方ないのか。欲情するのが当然か。はは、今なら倉持抱けるかも。でも、こいつになら抱かれてもいいと思う。愛し合えるのならば、大した問題ではない。
ふらりと一歩、近寄った。そしてようやく、荷物の重さが戻ってくる。よりにもよって今かよ。もう少し後でもいいじゃん。
まあ、関係ないね。もう一歩、じっと倉持を見つめながら近寄った。
「お前さあ」
「ん?」
「とりあえず、その荷物置いて来い」
「……」
「置いて来い」
「……ハイ」
無言の抵抗もむなしく、ぴしっと寝室を指差されれば行くしかない。
それ以上カウンターキッチンには立ち入らず、つま先を寝室に向けた。俯きながらおもむろに頭をかけば、一層荷物が重くなる。
あのまま近付いて抱きしめてでもやれたら、叱られた子どもの気分を味合わずにすんだのだろうか。それだけの甲斐性、俺にはねえよ。嫌がられたら本気で凹むもん。折角背中を預けたいと思えた相手、拒まれたくはない。
寝室の扉に手を掛け、名残惜しくもキッチンの方を盗み見た。けれどあいつと目は合わない。おそらく、こちらの視線には気付いているのに。さっさと荷物を置いて来いということか。
「なあ、」
「あぁ?」
「っ、ナンデモ、アリマセン」
ため息になりそうな吐息を誤魔化して、暗い寝室に入った。
ここで荷物を置いて、即行戻ることは求められていない。それなりに荷物を整理して、あわよくば着替えてから戻ってこい。言外にそう放っていた。面倒だが、今済ましておかねば後々もっと面倒。それをよく分かっているから、ああいう態度をしたのだろう。よくできた彼氏だよ。
投げ捨てた鞄の前に座り込み、詰めたものを取り出した。気を紛らわすために、あいつの事を考えながら。
帰ってきて一番のあの顔、すぐにドアを閉めてしまったせいでおぼろげだが、上機嫌に綻んでいたな。あいつ自ら台所に立つくらいだ、俺の帰宅を待ち遠しく思ってくれたのだろうか。だいたい、いつ帰るのかと聞いてきたくらいだ、どうでもいい、とは思っていないはず。
『よぉ、帰ったか』
耳に残る柔らかい声、満面ではないが、朗らかさを含んだ笑顔。どうして咄嗟にドアを閉めたんだ、あの倉持を、もっと堪能しておけよ。三分前の行いに頭を抱えたくなる。
薄ぼんやりとした記憶を、必死に想像で補っていれば、ゆっくりと輪郭がはっきりとしていく。どうせなら、赤らんだ顔してほしいなとか、ちょっと恥ずかしそうにしてほしいなとか、妄想もこっそり付け足して。
あれ、でも羞恥に歪む顔で笑うって、相当レベル高くねえ。どんな時なら見れんだろ。褒め倒しても見れる気はしないし、逆に突っぱねたら二度と隣に立ってくれないくらいの凄味がある。くすぐる、とか、触れる、とか。それこそ、あられもないことを、してしまう、とか。
――過った面に、カッと脳みそが沸き立った。
鞄から取り出したジャージに、頭を突っ込んだ。
「~~~~っ!」
それはやめだ、戻るのにいらない時間がかかる。
帰ったときに、自分じゃない誰かがいる。そっちだ、そっちに思考を走らせよう。
寮生活をしている間は、違和感ばかりが先立っていた。実家じゃ俺が帰るのが一番早かったし、一人でいるのも苦ではない。むしろ気楽とすら思える性分だ。自分じゃない誰か、まして他人と生活を共にするのは、慣れるまで時間がかかった。高校一年のときなんか、しばらくもやもやを胸に抱えていたっけなあ。
靄は今もかかっている。けれど、別のものだ。張り付く嫌悪感とか、言葉にできない不快感ではない。ともかく淡くて、甘くて、柔らかい靄。わたあめの海とでも例えようか。でもわたあめと言ったら雲っぽいな。どっちにしろ、べたべたと纏わりついてくるものじゃん、やっぱり違う。
――頼りになる。いてほしいとき、傍にいてくれる。
それを恋人だからの一言で片付けてしまうのは、何かが違う。だが、その他の表現方法がわからない。もっとまじめに国語やっとけば良かった。辞書をめくったって、思い当たる単語一つ浮かばないのだから意味がない。
ああ、まずいな。本当に、あいつの存在が大きすぎる。手放されたら、自分が消えちまうんじゃねえかってくらいに、多くを占めている。たぶんそれは、恋人という関係になる前から。無自覚の恋心が芽生えた頃から。
俺にとって、なくてはならない人。
それが、倉持洋一という男。
***
秋大が終わったところで、喧嘩の数は減りやしない。むしろ増えたとすら思える。
理由は簡単だ、比較的合理的な俺と、明らかに感情的なゾノが衝突するから。分かりやすいだろ。もちろん、それが全てとは言わないが、大半を占めているのは確かだ。
誰か止めてくれればいいのに、そうは思いつつどうも納得できない意見を言われると反発してしまう。反発が次なる反発を呼び、口喧嘩と化すのだ。一応、どちらかが胸倉を掴まれたら――まあ、圧倒的に俺が掴まれることが多いんだけど――倉持の仲介で幕が閉じる。ガタイの良い野郎二人に物怖じしない辺り適任だよな。
人気のない場所で素振りをすれば、あたかも走馬灯のように本日の言い合いが駆け抜けた。浴びせられた罵倒に近い主張が再生される。だが音声はほぼゼロ、何で揉めていたかうろ覚えなせいだろう。思い返せば、くだらないと一蹴したくなることで喧嘩をした日もある。きっと今日のも、そこに分類されるのだろう。ゾノにとっては、どうだか知らねえけど。
いや、主将なら意図を汲んでやるべきなのか。主将ってそんな頑張んねえとならないのかよ。任命されて数か月経つが、未だにあるべき立ち位置が分からなくなる。
「はぁああぁ……」
大きく、ため息を吐いた。素振りの手も止まってしまう。
喧嘩が悪いとは言わない。真っ向から意見を聞けるってのはいい機会だ。それに、いつだかみたいに練習や試合中ギスギスすることもない。それだけ大した内容ではないのか、ある程度双方が納得する結論に辿り着いているからか。ぜひとも後者であってもらいたい。
ノリ曰く、一部の後輩は、口の悪いゾノの大声とオブラートに包まない俺の物言いに震えているらしい。一方で白州は、金丸や東条はこちらがいくら揉めようとさほど気にせず、大丈夫だろうと謎の確信をもってると言う。ナベに至っては、鈍感すぎてこちらの喧嘩を喧嘩と捉えない馬鹿二人を心配していた。いつも俺にからかわれるうちに、鈍くなったのではないか、と。失礼な、投手に応じた扱いをした結果があの馬鹿二人なんだって。
あれこれ考え始めると、頭が痛くなってくる。疲労感も三割増し。やめたやめた、素振りを再開すべく、グリップを握った。
「――シケた面してンなあ」
「く、らもち……」
「珍しく引きずってんじゃねえか、今日の、荒れたのか」
そういえば、さっきの騒ぎに倉持の姿はなかったな。おそらく先輩に捕まっていたのだろう。でなきゃ、殴り合いにならないよう見ててくれてるはずだし。
握り込んだ力を緩めバットを下ろすと、甲高い笑い声をこぼしながら近づいてきた。ただでさえ足りない頭で慣れないことを考えるからそうなるのだ。そう嘲笑っているみたい。ハラタツな、こいつ。
「そこまででもねーよ。どっかの誰かがいないおかげで、しばらく胸倉離して貰えなかっただけー」
「ヒャハハざまーみろ」
「おっまえなあ、ちょっとは労われ」
「一発殴られた方が男前増すんじゃねえの」
「これ以上男前になってどーすんだよ。女子だけじゃなく、野郎人気もあげろってか」
野太い歓声も球場じゃ悪くないけど、普段向けられるなら黄色い歓声が良い。そんなの今はどうでもいい。
こっちが真面目に悩んでるってときに茶化しやがって。勘の良いこいつのことだから、そうやって気を紛らわせた方が良かれと思ってしているのだろう。あながち間違ってもいないのが悔しい限りだ。一言二言の応酬で肩の力が抜けてくる。作り物ではない、自然な笑いが落ちてくる。
どうせなら、喧嘩がヒートアップしている時も、落ち着かせてくれる言葉をくれたらいいのに。お前なら、ゾノの沈静化にも活躍できるだろ。
二対一になることを避けてか、意地でもこいつは喧嘩に参加して来ない。俺が多数の暴力にさらされても入ってこないあたり、単にどこにも加勢しないと決めているだけかもしれないが。ほんの一瞬でも味方してくれたら、心強いのに。
ぐしゃりと、前髪を掴んだ。
「俺さあ、」
「ん?」
「どうしたらいいと思う」
「何をだよ」
「諸々の、喧嘩について」
「知るか、ンなもん」
「ひっでー、副主将としての知恵貸せよ」
弔ってはくれるが助けてはくれない、ってか。"副"ってついてんだから仕事してくれよ。
こうやって、様子を見に来てくれるだけありがたいか。俺がここで練習してるなんて、こいつしか知らねえわけだし。いや、正しくは、他にも知ってる奴はいるんだろうけど、近寄ってこないだけ。もし努力を誰にも見られたくねえって奴がいたら、俺が引退した後にでも、ここで練習するんだろう。
深く、長く、息を吐きだせば白く染まった。動いてないと指先が冷えてくる。冬が、やってくる。寒いのはやだなあ。首筋を掠めた北風に、腹の奥まで冷えた気がした。
「御幸、」
「ん~?」
「副主将、と、してで、……いいワケ?」
飲みそびれた息が詰まる。肺にヒビが入ったみたいだ。
そのくせ、全身を流れる血液は熱闘の如く滾っている。取り込む空気が冷たいせいで熱を感じているのか、本当に血が過熱されたのか。頭に上ってこないといいな。こんなのがせりあがってきたら、皮膚越しにも血の赤が滲んでしまう。
「第一、ゾノも副主将とかそんなんカンケーなくぶつかってんだろ。ならお前もお前個人の考えぶつけりゃいい」
「そ……、れで、毎回拗れるから困ってんだろ」
「そんなもんだって、あーだこーだ揉めて、練って、どうにか納得できる答え見つかったら、"主将"で"部"の方針になるんだろ」
「そう簡単にいくかよ」
「いくわけねーよ。けど、……あの先輩たちだって、そうだったし」
言われてみれば、去年の今頃、あの人たちも揉めていた、か? 大声で暴れまわる純さんを増子さんが諫めていたり、哲さんが遅くまで残ってんなと思ったら亮さんが丹波さんを滅多叩きにしていたり、……いやそれいつものことだろ。って、流してたけど、あれが今の自分が繰り返す"喧嘩"だったというのか。うそだろ、まじかよ。
はっはっは、笑っちまう。俺もあの馬鹿二人と同列かよ。さっぱり気付いちゃいなかった。何かと先輩に近かったこいつだから気付いたのか。一部の後輩みたいに喧騒を恐れている同輩もいたんだろうか。
「よく、見てんな」
「おめーが見てなさすぎなんだって」
「つーか、達観してる? お前ほど周り見えてるやついねーよ」
こういう風に、眺められるのなら、ほんと、お前の方が主将向いてたんじゃねえの。そう思うくらい。わざわざ俺を選んでくれたんだから、口が裂けてもこんなこと言えないが。
ただ自信はなくす。俺が、一番上に立っていいのか、って。適任が他にいただろって。また負のスパイラル、思考の連鎖が止まらない。
「ばーか」
「なんだよ、いきなり」
「馬鹿だよばーか、ばーかばーか。先輩も、俺らも、お前に先頭走ってもらいたいって選んだんだ。今更うじうじしてんじゃねー」
「ついてきてくんなきゃ意味ねえだろ?」
「……ばーか」
まだ言うか。呆れを孕んだ表情に、まるでこっちが悪い気になってくる。
俺の知らないところで手を回してくれてるとでもいうのか。ああ、こいつならありうるか。見た目に反して面倒見が良くて、気が利くこの男なら。あれだけ散々言い合っても、翌日何事もなく練習できるのが倉持のおかげだったらどうしような。足向けて寝れねえわ。
「お前は、」
目が、逸れた。なんでこっち見てくんねえの、俺に話しかけてきてんだろ。そんな誰もいない方見てんじゃねーよ。
そんな些細なことが気になって、一歩、倉持に近づいた。
「……扇の要だ、真ん中でどっしり構えてろ」
ぱたりと瞼が閉じてしまって、表情も、黒目の向きも分からなくなる。それ以上近寄るのを、牽制されているみたいだった。おかしいよな、牽制ってのは睨み合いの駆け引きが重要なはずで、今、こいつは目を閉じてるってのに。
「え、っと。それは、つまりー、……え?」
「ゾノとか他の連中に言われたくらいでブレてんじゃねーよ。貫くなら貫き通せ。でなきゃ、」
ようやく、黒目が顔を出す。
映っていたのは、見たことのない色。艶。そして、熱。
「――支えらんねえだろ?」
ヒャハッと笑えば、すぐにいつもの倉持に戻ってしまう。目の錯覚だったのかと思うほど。実際、気疲れした俺の幻覚だったのかもしれない。
脱力していく体に苦笑を零すと、ざまあねえなと憎たらしい笑みを返された。白い歯がこれまたカチンとくる。この野郎。
「で、今日は何で揉めたんだよ」
「……何だっけ」
「ちょっとゾノにチクってくるわ」
「マッテ! ヤメテ!」
「うっわ近ぇんだよテメエ!」
踵を返した倉持に慌てて縋れば、鬱陶しいと額をはねのけられた。弾ける音より、鈍い音の方が痛い。メヂッ、と入ったそこが地味な痺れを放ち始めた。
だがここで離して本当にゾノに今の話をされたらまずい。睡眠時間が抉られること間違いなし。時間が時間だ、騒いだ分先輩方からキツイ灸を据えられるかもしれない。余計に削れる。
べちべちと叩かれ続けるのを堪えて、後ろから抱き付くように押さえこんだ。引きつった笑みを向けられたってもう怖くもなんともない。ぎゅうとくっついているせいで、だかだかと騒ぐ鼓動が聞こえてきた。暴れるから息も心臓も乱れてんじゃねえか。俺も他人のこと言えないけどさ。
「離れろ!」
「ならたまには加勢しろよ!」
「俺に言うな、ナベちゃんあたりに頼め」
「なんでナベ」
「ぜってー、ゾノ何も言い返せなくなる」
「あ、確かに」
いや、でも。
ふと、三角形を描く目を見やった。思いのほか近いな。至近距離って感じ。
「――お前がいい」
言葉が零れた。あまりにも自然に落ちてきたもので、自分でも拍子抜けする。そこまで俺が倉持にこだわる理由ってなんだろう。やっぱり、頼れるから? なんだかんだ、秋大決勝で背中押してくれたのが効いてんのかなあ。押すっていうより、檄を飛ばすだし、むしろ退路を完全に塞がれたともいう。退く気はなかったし、むしろ奮い立ったから問題はないかな。
じっと目を見据えていれば、黒目の縁がわずかに震えた。
ただ、その景色は一瞬で遠ざかる。
「いっで!」
「っばか言ってんな」
一際強く額を叩かれ、倉持を捉えていた腕が緩む。その隙にするりと距離を取られてしまい、冷たい風が体の前面に流れ込んだ。寒っ。
「主将のピンチ支えてくれよー」
「うっせえな、口論くれえテメエで乗り切れ」
「頼らせろよ!」
「頼れってときに頼ってこねえお前が言うな!」
「うぐっ……、それは、まあ」
今度は俺が視線を泳がせる番。その頼らなかったときがあるおかげで、お前に背中預けたいと思ったんだ、なんとかプラスに捉えてほしい。どこまでも縋る台詞は吐きたくないから、尻切れ蜻蛉に言葉を誤魔化した。
「あああ帰る! んでゾノにチクるかんな!」
「あぁあ待って待って待って、」
結局そうなんのかよ。それだけはやめろって、なあ!
駆け出してトップスピードに乗る前に捕まえなくては。少なくとも一歩踏み出す幅は俺の方が大きい。即座に距離を縮めて、しかし先ほどとは異なり、羽交い絞め染みたことはしない。だってそしたら同じことを繰り返しそうだろ。
わずかに躊躇ってから、逃げる体の、その裾を掴んだ。指先にかかるほんの数センチ。くんっ、と引っ張りはするものの、走る勢いで振りほどかれそうな強さ。
止まって、くれ。
遠ざかるその背中に、疲労感と倦怠感が舞い戻って来た。折角こいつのおかげで肩が軽くなったのに、こいつのせいで重くなるだなんて。だったら最初から救いに来るなって。
うそ、来てくれなきゃ、嫌だ。
「今度はなンだ、……っ!」
「悪い、ちょっと背中貸せよ」
倉持の体がキュッと詰まった。地を蹴ったままに走り出さず、ブレーキをかけたのだろう。
これ幸い。シャツの裾を掴んだまま肘を曲げ、一回りは小さいはずなのにやけに大きく見える背中に近づいた。
また、その背にしがみ付きたい。抱きしめて重みをかけたい。でも、それは今することじゃない。次々と込み上げる衝動を抑え込んで、幾何か低い位置にある肩に、額を乗せた。
体を密着させたら駄目だ。風がどうにか通るくらいは空間をとって、触れているのは、摘まんだ裾と肩に乗せた額だけに留めよう。どうしてそう思ったか、なんでだろうな、なんとなくとしか表しようがねえんだ。
「三秒、だけでもいいから」
どうにか声を絞り出す。多量の吐息と一緒に出したため、胸が苦しい。息が辛い。肺一杯に空気を吸い込もうにも、ぎこちなくなって苦しさは消えない。
ああ、もっと長い時間を言えば良かった。三秒じゃ、全然足りない。腕も脚も、必要以上に重いったら。
「ヒャッハハ、三秒でいいのかよ」
「じ、十分、」
「却下、三分な」
「……さんきゅ」
さすがチーター様、よく見てらっしゃる。実は逃げるつもりもなく、捕まえられるのを待ってたのかねえ。そうだったらいいのに。
改めて深呼吸をすれば、ぽすりと、頭に何かが触れた。倉持の、手の平だろうか。髪越しではっきりとは分からないけれど、ごつごつとした表面が、子供をあやすそれのように頭を撫でてくる。俺もう十七歳ですけど。一年と経たずにケッコンできる年になるんですけど。どうにか悪態を絞り出しても、撫でられると言葉にする気力が消え失せていく。
額越しに、脈が聞こえた。布を挟んでいるんだから、自分の鼓動だったりして。それでもまあいいか。うっすらと感じる体温で、充分心は安らいでいくのだし。
やっぱり、もっと近くで。過るけれど、そこまで甘えるのはなんか違うだろ。
もう一度深呼吸をして、そっと、裾を握る手に、力を込めた。
***
こいつも料理できたんだ。一人暮らししてんだから、最低限はできるだろうと思ってはいたけど、ダイニングテーブルにはかぼちゃの煮付けとか、こふきいもとか、ちまちまと乗っている。
「おまえ、作ったの」
「んなわけねーだろ。お袋がタッパー入れて持ってきたんだよ」
「にしては、量多くねえ?」
「たいそーオメーを気に入ったそうで」
「ホッ!?」
今度こそとキッチンに入ったところで、机上の品々を二度見した。たった一回、しかもそれなりの下心を見透かされたかのタイミングだったのに。好印象を持ってもらうに越したことはない。それに、少しは挨拶しやすくなったと前向きに捉えておこうか。妙なハードルをあげられた気もするが、それはそれ。
たぶん困りはしないだろう。一先ずそう片付けて、ガスコンロ前の倉持のそばに。
後ろから両手を伸ばしかけて、ちょっと躊躇って、いや今はほら、恋人なんだし、大丈夫だよ、な。聞こえないようにそっと唾を飲んで、その腰に、腕を回した。ついでに肩ごしに鍋を覗き込む。丁度唇が、耳の高さ。
抵抗は、されない。
「それなに」
「……なんだコレ」
「作ったのお前だろ!?」
「まあそうなんだけどよ」
入っているのは、キャベツとブロッコリーとにんじんと玉ねぎ、それに海老団子だろうか。ちらりとゴミ箱に視線を向ければ、海老団子の文字が入ったラベルがある。間違いないな。
腰を抱く力を少し増して、すんっと鼻を鳴らした。コンソメスープの良い香り。美味そうだな、食欲がそそられる。
でもちょっと場所考えれば良かった。ふわり、――倉持の匂いも飛び込んできたのだ。一度気付いてしまえば、意識はすっかりそこに向いてしまう。
違う、そうじゃない、話を戻そう。
「野菜スープか」
「たぶん」
「なあ、ほんとにお前が作ったんだよな」
蓋を閉じると匂いも薄れる。完全になくなるわけではないけれど、スープのそれが割合を減らす。
ということは、至近距離の、倉持の匂いが際立つわけで。
失敗した。離れたくない。でも離れないとまずい。引かれる。裏拳喰らうかもしれない。それでもいいかな。いや、良くない。
理性のメーターが激しく揺れる。メトロノーム並の揺れぐらい。あっちに行ったり、こっちに行ったり。それでも抱き付いた力を緩めないということは、離れたくないに偏っているってことだよな。理性ほぼ負けてんじゃん。もう少し我慢強いはずだったのに、腹減ってきたからか。
「昔な、」
倉持が口を開く。合わせて、体が傾く。重心を、踵に移したのだと思う。胸に体重が乗っかって、つい、腕が強張った。
寄りかかってきている。あの倉持が、俺の腕の中で、それとなく俺に体重を預けている。
「試合とか、なんかあった日に作ってもらったんだよ」
「え、っと。お母さんに?」
「そ。野菜より肉食いてえんだけど、って言っても絶対これなワケ」
「ふう、ん」
相槌を打つだけで精一杯。
だって、あの倉持が、まさにその文字通り背中を預けているわけですよ。何度だって言おう、倉持が、俺に寄りかかっている。それくらい反芻しないと、冷静でいられない。
無自覚で寄りかかっている? そんなわけあるもんか。こいつに限って、それはありえない。わざとだ。故意的に体重を預けているに違いない。
心臓が尋常でない騒ぎを繰り広げる。こいつに伝わらないと良い。伝わったとしても、「なに緊張してんだよ」って言いながら赤面でも向けてくれないと。でなきゃ俺の矜持が崩れる去る。
既に冷静でもなんでもないな。離れたら取り戻せるんだろうか。ただ腕が思うように動かないんだ。だから、それはできないし叶わない。余裕よ、欠片でいいから帰ってきてくれないか。
「でもさあ」
「うん」
「――コレ食うと、すっげー安心すんの」
困った。横顔にノックアウト寸前。
易々と穏やかな顔見せてんなよ。見慣れない柔らかな表情しないでくれよ。調子が狂う。俺にもゆとりがほしいんだ、せめて小出しにしてくれないか。抱きしめるのを許してくれて、匂いに溺れそうなのを見逃してくれて、体を預けて、優しく笑って。
俺知ってるよ、その顔、よく後輩に見せてたやつだろ。沢村が些細な成功にこっそりテンション上げたときとか、小湊が躊躇いのない動きでプレーできたときとか、降谷が無茶の一歩手前で踏みとどまれたときとか。
俺が、切羽詰ったとき、とか。
堪らねえなあ、もう。
「だから、作ってくれたの」
「どーせすぐキャンプだなんだ始まるんだろ。食って休んで、そんでがっつり活躍して来い」
ぽすりと、頭に手の平が乗る。既視感が、全身を巡った。熱で沸き立ちそうな血液を連れて、地響きじゃないかというくらい心臓が震える。何年ぶりだろう。六年ぶり、いや七年ぶりになるのか。
「くらもち、」
「あー?」
コンロの火を消すと、もう穏やかな笑みはどこかへ旅立ち、いつもの顔が戻ってくる。きゅっと吊り上がった短い眉に、働きすぎで気だるい三白眼。たった今気付いたけど、頬から顎にかけてのラインも細くなったな。
嘗て、背中を借りたときより、やっぱり細い。それが日本人男性の平均と相違なかったとしても、俺にとっては細いんだって。
「すき」
「……そりゃどーも」
照れたのかな。一秒に満たない間に胸が苦しくなる。
「だいすき」
「ありがとよ」
皮肉で返ってこないあたり、もう照れは冷めてしまったのか。早いなあ、どうせなら、一言だけでもいいから、同じ言葉を貰いたいものだ。
「あいしてます」
「あ、そういや忘れてた」
アレッ、これは聞いてないな。羞恥もあるから拙い響きになったけど、本心から言ったっていうのに。なんだよ。一方通行って空しいんだぞ。
ここで抱きしめる力をまた強めたら、拗ねたと思われる。そんなガキっぽいこと、したくないし、見せたくない。ただでさえコイツの方が男前な性格しているんだ、これ以上差を開きたくはない。
仕方がなく、腕の力を緩めた。
すると、腕の中で倉持が方向転換。回れ右。布越しに倉持の体を掠めただけだってのに、大きく肩が震えた。
「ッヒャハハ、なにビビってんだよ」
「びびって、ねーし」
「嘘つけよ」
からかうのはやめてくれ。わざわざ指摘すんなよな、もう。
唇を尖らせたら、正面から真っ直ぐ見据えてきた。目を見て話せと、幼い時に言われたもんだが、実はそれって難しいことだよな。じっと見れば見るほど気恥ずかしくなってくるし。さて、今俺はこの目にどう答えたらいい。このまま抱きしめる、とか、頬を撫でる、とかだろうか。空気を一切読めない。
微動だにしない視線に、かちりと、体が固まった。
金縛り? それとも、対俺専用催眠術? 見つめられて動けなくなるだなんて、初めてだ。
涼しげな様子の倉持は、まったく気取らず、いたって自然に、俺の肩に両手を置いた。それから、くんっと背伸び。一気に距離が詰まろうとも、この体は動きやしない。鼻先が擦れると、迫った両目が、静かに閉じた。
――ふにゅり、歪む。
「おかえり」
まさに一瞬の出来事。何事もなかったかのように離れた倉持は、またコンロの方を向いた。鍋の取っ手を掴んで、そうか、きっとダイニングテーブルに持っていくのだろう。
呆気にとられていれば、倉持は鍋を持ってさらに距離を広めていく。ほんの数十センチ、数メートル。鍋敷きの上にそれを置くと、またキッチンに戻ってきた。今度は、ええと、お玉かな。
黒のカットソーを、指先が掠めた。
「~~っ!」
「ぅわっ、なんだよいきなぃ、ぅっ!?」
歯がぶつからなかっただけ、マシだと思っていただきたい。
掠めたままに手首を取り、もう一方の手で腰を捉えた。一発では角度が決まらず、ずるずると滑らせながら舌で薄い唇をノックする。
「んっ、……ふぁ、」
「……ぅん、んっ」
「っぅ、はぁ……」
初めてではないらしい。それもそうか。
互いの唇を、強引なくらい押し付けながら、舌を絡めた。少しでもこちらが引けば、向こうが伸ばしてくるし、逆にこっちから攻め入れば控えめながらも受け入れてくれる。それに、息苦しいと胸を叩かれることもない。
腰と背中に回して、腕に力を込めると、応ずるかのように背中の布地を掴まれた。
唇からも察していたが、自分のと比べると舌も薄い。先がちょっと尖っていて、掠めるたびくすぐったくなる。悔しいな、こいつの性感帯も探してやりたい。角度を変えながら、上顎を擦った。俺、この辺好きなんだけど。ぎゅっと瞑った瞼が震えたから、好きそうかな、なんて。
唾液が零れて、顎を伝う。そのくせ、水音がほとんど聞こえないのが不思議。触覚に全神経をとがらせているせいで、聞こえてないだけだったりして。倉持の耳にはヤらしく響いてたらどうしよう。思い出共有できねえじゃんか。
「ぁっ、……は、あ」
「っは、はは、はっはっは、倉持の顔、すげー真っ赤!」
「るっ、せんだよ、テメーが長ったらしく噛ましてくっからだろうが!」
背中に回された両腕が不穏な動きをする。しまった、このままじゃ技キめられる。
咄嗟に、そいつの後頭部を押さえて、――もう一度深く口づけた。