微睡んだ意識の中に、光明が差し込む。
 眩しいな、今日はオフなんだから、まだ寝ていたいのに。

 ――目覚めるとそこは、見たことのない天井でした。

「っへ」
「おはよう、御幸君」
「ぅえ、あ、オハヨウゴザイマ……、」
 起き上がって声の方を振り向けば、華やかながら下品さのない衣服に身を包んだ藤原先輩の姿。オフィスカジュアルってこんな恰好を言うのだろうな。周りにいる連中は、皆ユニフォームかジャージである。あとは黒のスーツか。OLという生き物は、自分の生活からは離れたところに存在している。それだけに、新鮮だ。
 じゃ、なくって。
「えっ!? ……ってぇ、」
「昨日散々飲んでたからねえ」
 声を張り上げた途端、頭がぐらりと揺れた。ずきずきと痛むそれは、二度と味わいたくないと誓ったはずの痛み。咄嗟に頭を押さえれば、黒髪をバレッタで止めた彼女がくすりと笑った。
 笑わないでください。言い返したいところだが、頭痛と混乱がそれを許してくれない。
 ここは、どこだ。見たことのない天井に質素な壁面。明らかに一人用ではない広さのベッド。唯一の救いは、いっそグロテスクな玩具が転がってないことと、浴室がしっかりとした壁で覆われていることか。ラブホテルではない、ビジネスホテルの類だ。あれシティホテルじゃあないよな、さすがに。でも部屋広いしな、ありうる。なによりダブルベッドというのがどうにも突っかかる。うん、どうしよう。
「……っぁー、」
 間抜けに開いた口からは意味をなさない音しか出てこない。まさか、まさかとは思うが。そんな馬鹿な真似をするような、軽率な男じゃないと思っていたが。息子は正直でしたとかやめろよ頼むから。
 あれこれ不安を膨らますより、準備を整えきった彼女に答えを求めるのが一番早い。分かってはいるが、覚悟は決まらない。だってそうだろう、一夜の過ちをしていたとしたらと考えると躊躇しか浮かばない。俺には倉持洋一という心に決めた人がいるというのに。しかもたぶんあいつ、俺の家で待ってるし。
 揺れる頭でどうにか昨晩を思い出す。先輩に挟まれて無理やり連れていかれた女子アナとの合コン。恋人がいるんだと断ろうとも、行くだけ行くだけと強制連行された。そして出会ったのは、嘗ての先輩。化粧の仮面を張り付けた面子の中に、一人見たことのある顔があったらそっちに靡くだろう。それでもなんやかんやと酒を盛られてしまったのだが。最終的に「爆発しろイケメン」と先輩にぼやかれたのも覚えている。
 ああそうだ、合コンの途中までは、なんとなく覚えている。問題は、どうやってここに至ったか、その記憶が欠落していることだ。おい、記憶亡くなるまで飲んだのいつぶりだよ。二十歳なってすぐに先輩に飲み屋連れまわされた以来じゃねえの。
 だかだかと心臓が逸るにつれて、頭痛の響きも増していく。
 埒が明かない。そんなの分かってる。でも、聞くのは怖い。いや怖がってんじゃねーよ、話が進まねえだろうが。ごくりと唾を飲み込んで、顔をあげた。
「あの!」
「なに?」
「ァ、の、……その、えーと、」
 涼やかな声が耳に届くと猛烈な羞恥に襲われた。アレ、こういうシチュエーションって男が照れるもんだっけ。ヤっちまったと頭を抱えるのはよくあるけどさ。あまりに彼女の立ち振る舞いが平然としているものだから、自分が情けなくなってくる。声も裏返ったし。あれどういうこと、そんな動揺することなんてしてないのか。でも所詮は男と女だろ。何かあってもおかしくないだろ。ナニなんて起きて欲しくないけど。ないけどよお!
「え、と」
 耳に髪を掛けた彼女は静かな微笑みを携えたまま首を傾げる。待って、どういうことだこれ。俺昔から小説読み取り苦手なんだって。登場人物の心情を捉えろだなんて、知ったことではない。第一、何を考えているのか、どうしてほしいのか、空気を読むのは倉持限定にしか使わない神経だ。
 緊張でか唾液がやけに口に溜まる。ごくんと飲み込んで、縋るように彼女を見やった。
 頼む、何もなかったと、そう言ってくれ。
「……昨日は、すごかったわね」
「ああぁぁああ」
 終わった。顔を両手で覆ってベッドに逆戻り。嘘だろそんな、おいお前昨日、じゃなかった一昨日散々倉持としたろ。なのにどうしてこんなことになった。いくらなんでも盛りすぎだろう。そりゃああいつ相手だったら何回でもしたいし、休みが重なれば一日中肌を重ねていたいと思うくらいに食指は立つ。だがすべては相手が倉持だからだ。
 それ以外に立ってどうする。サイアクじゃねえか。どうしよう、どう説明しよう。なんて言ったら倉持に見放されずに済むだろう。浮気は男の甲斐性だ。関係ねえよ、あいつの前で不誠実晒したことに代わりはない。ただでさえ自分のこと卑下して「俺なんか」って漏らす奴だぞ、何よりも倉持を優先するくらいで丁度いいんだ。
 だというのに。ああマジで俺なにしてんの。混乱が堂々巡りして「どうしよう」に舞い戻る。
「ぷっ」
 ふと、彼女が噴き出した。
 すべての表情が消えて、むくりと体を起こす。動くたびに頭が痛もうと関係ない。ついでに、彼女の笑い声ですら頭痛を煽ってくるが、この際無視しよう。ぎゅうっと眉間に皺を寄せて、体を折り曲げながら笑う彼女を睨んだ。
「ちょっと」
「うん、っふふ、ごめんなさい、からかって」
「からかうって、」
「大丈夫、何もしてないわ」
「……ほんと、ですか」
「ほんとよ。私こっちのソファで寝たし。おかげで体ばっきばき!」
「ぅえ、それは……すんませんっした」
 くつくつと笑いながら彼女が指さしたのは、一人掛けのソファ。寝そべるようなサイズではないため、文字通り座ったまま寝たのだろう。そりゃあ体も固まるでしょうね。ははは。苦笑い染みた笑いを零せば、それがまた可笑しかったのか口元を押さえて顔を綻ばせる。その顔に、虚偽はない。ということは、つまり。
「して、ない」
「そう言ってるでしょ?」
「あ、ハイ」
「もう、むしろ感謝してほしいくらい。他の子が連れてったらどうなってたか」
「は、ははは、笑えねえ……」
「たぶん大丈夫だとは思うけど、撮られてたらごめんなさいね」
「いや、それはもう全然……、シてないってのが確かならそれでいいです……」
 もう一度顔を覆って、しかし今度は前かがみに体を倒した。よく見てみれば、自分の衣服も乱れていない。合コンに連れていかれた、そのままの格好をしている。ついでに言えば、複数の香水とアルコールの臭いが入り混じっている。うわくっさ。倉持がいたら即座に顔を歪めたろうな。早く風呂入れって言って鞄だけひったくられて、俺本人は風呂場に直行させられるやつ。そんで風呂入ってる間に倉持が着替えを持ってきてくれるんだ。ああ、まずい、会いたくなってきた。
「ほんと、倉持君のためにも自分は自分で守りなさいね」
「はい、ほんと、そうしま……」
 ん?
 言うことは言いきったのか、彼女はソファ脇に置いてある鞄を手に取る。おそらくここを出るのだろう。待て今何時だ。いやそこじゃない。
「くらもち、って、え!?」
「起きてから何回『え!?』って言うつもり?」
「いやだって、うっそ俺誰にも言ってない」
 そうなのだ。内心では散々倉持への愛を囁いてはいるけれど、それを表だって言ったことは一度もない。正しくは、倉持と二人きりのとき以外に、俺と倉持の関係を暴露することはしていない、だ。あいつと一緒にいたら鬱陶しいくらいに愛を紡いでるもんな。それくらいしないと、御幸一也にとっての一番が倉持洋一だってこと、あいつ信じないし。
 さておき、俺と倉持のことは、誰にも知られていない。だのに、なぜ、藤原先輩の口から倉持の名が出たのか。開いた口が塞がらない。
「言って、ないんですケド」
「寝言って言えばいいのかな、酔っぱらった戯言かも。……しばらく倉持君のこと呼んでたわよ」
「ッヘ」
「しばらく倉持、倉持って呼んでたかと思えば、途中からずっと洋一って言ってるし。もう道端に置いて行こうかと思うくらい」
「そ、れは大変申し訳アリマセンデシタ」
 相変わらず彼女は微笑んだままだけれど、その発言はスルーできない。あの藤原先輩が投げ出す程度に倉持のことを呼んでいたってことだろう。先ほどとは別の意味の羞恥が込み上げてくる。
 そんな俺を知ってか知らずか、実に楽しそうに、彼女は言葉を重ねた。
「それだけ好きなら、不誠実なことはしちゃだめよ」
「ごもっともです」
「なにより、女は怖い生き物なんだから」
「はい」
「まあ身をもって反省してもらうのも一つかと思ったけど」
「怖いこと言わないでくださいよ……!」
 不誠実はするなと言っておきながら、そういうことをほのめかすだなんて、あんまりだ。まさに女は怖い、といったところ。本当にしてないんだよな、改めて不安になってくる。ここから見えるゴミ箱も空のままだし、大丈夫だと思いたい。
 あ、俺コンタクトつけたまま寝ちまったじゃん。やけに視界がくっきりしていると思えばそういうことか。気付いた途端に目が乾いたかの心地になる。起きたときから違和感はあったろうに、二日酔いの頭痛のやったかやらないかという混乱の縁にに立っていたため気付かなかった。どんだけ余裕なかったんだよ。
 今すぐにでもとってしまいたい。どうせ使い捨てだ。鞄の中に瓶底眼鏡は入っている。取ったって何の支障もない。一応、手を洗ってからとった方が良いよな、という適当な思考が働いているおかげで、目玉に指を伸ばさずに済んでいる。うおおお、でも取りたいな。不快感を訴える両目は、続けて緩く笑んだ彼女を映した。
「安心して。――あなたたちにあてつけたいワケじゃないし」
「……それって、どういう?」
「ああ、もう行かなきゃ。お金は払ってあるから、ゆっくりしていって」
「えっ、さすがにそれは悪いですって!」
 ぽつりと気になる言葉が零れ落ちたが、すぐに別の言葉に意識が連れていかれる。いやせめて金くらいは出させてください。ここは俺が出しておかないと。男だからじゃない、介抱してもらって、どこの誰とも分からない女と既成事実を作る危機から救い出してくれた上、宿泊代まで出してもらうわけにはいかないだろ。
 咄嗟にベッドから降りようと体を動かせば、ああクソ、なんでこのタイミングかな、がつんと殴られるかの頭痛に襲われた。二日酔いが収まるまで大人しくしてろと言うのか。こちとらさっさと家に帰って、俺のオフに合わせて有給取ってきた最愛の人を抱きしめねばならぬと言うのに。まあそうする前に風呂入れ命令が入るんだけどさ、分かってるってば。
「ィッ、て……」
「ああもう無理するから」
「でも、せめて金くらいは、」
「気にしないで。代わりに、そうね、……いつか大切な人の話を聞かせてね」
「ッそんなんで、良いのなら」
 いつでもしますよ。今までどこにも吐き出し口がなかった分、うざいくらいに惚気るかもしれない。あんな可愛い倉持のこと、誰にも言わずにいられた今までがおかしいくらい。俺だけの秘密にしておきたいことだってたくさんあるけど、自慢したいこともいっぱいあるんだ。
 つい、情けなく顔が緩んでしまう。そんな俺の面を見届けた彼女は、またぷっと噴き出した。それから、しゃんと背筋を伸ばす。仕事に行くのだろう。昨日も遅くまで、しかも大の男の面倒を見たせいで睡眠時間も削れてるだろうに。そう思うと申し訳なさが増してくる。ほんとに、払わなくていいのかな。どう、しようか。
 わずかに迷っているうちに、藤原先輩は軽く手を振って部屋から出ていった。うわかっこいい。ああいう所作に惚れる男もいるんじゃなかろうか。それじゃあ、あまりにも野郎がなよなよしすぎか。
 ふうっと息を吐いて、立ち上がった。俺も出なくては。ゆっくりしていっての言葉に甘えても良いが、何より倉持に会いたくて仕方ない。遅くまで起きて待っててくれたとしたら、そう思うだけで切なさでいっぱいになる。朝帰りになった理由は、大人しく全部吐き出そう。何事もなく済むよう、先輩が手配してくれたことも。それから、俺たちの関係がバレてしまったことも。
 衣服から漂う臭いを拭い去りたいけど、まずは帰宅だ。頭痛でよろめくのをどうにか堪え、ホテルの一室を飛び出した。


◇◆◇◆


 慌ただしく鍵を開け、玄関扉を勢いよく手前に引いた。外気と違って、わずかに生暖かい室内。あいつは今どこにいる。寝室か、ダイニングか、それとも呆れて帰ってしまったろうか。少なくとも最後のはないな。だって靴あるし、なにより倉持優しいもん。
 脱ぎ捨てた靴を揃えもせずに、ダイニングに飛び込んだ。ふわりと漂う、甘い香り。ここが自分だけの空間だったときには無縁だった匂いだ。部屋に広がる匂いといえば、せいぜいコーヒーのほろ苦いものくらい。だが、今ここにあるのは、苦さとは遠くかけ離れた、甘ったるいココアの香りである。
 シンクを覗き込めば、案の定水につけてすらいないマグカップが置いてあった。絶対にいる。じゃあ、どこに。
 顔をあげて耳を澄ますと、水の流れる音が聞こえてきた。その音源は、当然目の前の水道ではない。どちらかといえば玄関より、風呂場の方だ。
 音につられてふらりと足を踏み出す。先にカップに水入れとかないと、ココアが乾いてしまっているし。そう頭の片隅で思おうとも、もう足取りは止まらない。真っ直ぐに洗面所に向かい、籠にぐしゃりと放り込まれた服を確認。先ほどより鮮明になった細かな水音。曇りガラスを隔てた向こう側に、そいつは、いる。
 唾を飲むことも、息を呑むこともしない。自然に、かつ躊躇いなく、浴室の引き戸をスライドした。
「くらもち!」
「ぅおわっ……、お、かえり」
「……タダイマ」
 換気扇を回していようと、浴室の湿度は高くなる。むっとした湯気と共に、日に焼けていない背中が目に入った。くっきりと浮き出た肩甲骨を、シャワーの湯水が滑っていく。立ち姿勢で、シャワーノズルを片手に頭からざんざんと浴びている。後ろに流していることの多い前髪が、ぺったりと額に張り付いていた。その裸体に、サラリーマンらしさはない。むしろあどけなくて、昔を見ているようで、どくりと心臓が脈を打つ。
 ごくん、ようやく喉仏が上下した。
「さみーんだけど、閉めろよ」
「あ、うん。悪い」
 ぎゅうっと顰められた眉間に、大人しく引き戸を閉めた。曇りガラスに隔たれて、くっきりとした音がわずかに濁る。ついでに、縁まではっきり見えた肌色も、モザイクが掛かったみたいにくすんでしまう。もっと見ていたかったのに。しれっと諫められたのが少し侘しくて、視線が足下に落ちた。それから、瞬きを一つ。
「っ、」
 あ、そうだコンタクト。外さねえと、って思ったのに結局ここまでつけたまま来てしまった。一度曇りガラスに踵を返し、そばの洗面台で手を洗う。ついでにうがいを数回。ぺっと吐き出して三秒、両目から水分をすっかり失ったレンズを取り出した。途端にぼける視界。まあ、慣れた世界だ。家の中なら、視界がおぼつかなくとも何となくで動けるし。
 使い捨てのソレをゴミ箱に落とし、アルコールやら香水やらの臭いを付けた服も脱ぎ捨てる。籠に突っ込もうか、でも倉持のが入ってるしなあ。どうせ洗わなくてはならないのだ、そのまま洗濯機に突っ込んでしまえ。ネットを使え? 色物は分けろ? ンなの気にしてらんねえよ。
 今は、なにより、この扉の向こうが大事。
 再び戸に手を掛けた。だが先ほどと違って、勢いよく引き開けたりはしない。普段自分が使うときのように、静かに開けた。
「なあ、」
「うっわ、んだよまだ何かあんンの、か……!?」
「はぁ、あったけ……」
 頭を濯いでいたところだったのだろう。ノズルを持っていない方の手の指が、髪を梳きながら泡を落としていく。おかげで両脇ががら空き。するりと腕を回して、濡れた素肌に抱き付いた。ぴったりと重なるのが心地いい。くっついたせいで俺の体にもお湯がかかるが、どうせ風呂に入るつもりだったし都合いいや。
「なぁあんで入ってきた、っつーかくっついてんじゃねえよ!」
「だって俺すげー酒臭いし。いいだろ、一緒入ろうぜ」
「っならすぐ上がるから待ってろよ」
「もう入っちゃったし。いいじゃん、な?」
 すっぽりと体を閉じこめて、こちらを向いた米神に唇を寄せる。張り付いた髪の毛がさくりと当たるが不快ではない。ちゅうっと吸い付くと、口内にうっすらと水が入ってきた。
 腹に回した腕を下に滑らせながら、じっと瞳を見やった。この距離なら、見えないということもない。言葉では嫌がっているものの、心の底から嫌悪しているわけではない。手の平の皮一枚で下腹部を撫でてやれば、普段きつく尖っているはずの目がぱたんと壁を作った。欲情を悟られたくないのか。シャワーの音で誤魔化せると思ってるのかもしれないけれど、短いタームで繰り返される呼吸は聞こえてるからな。くるりと腹を撫でる手で丸を描いた。
「っおい、」
「したい」
「上がってからにしろって……」
「待てねえなあ」
「盛ってんじゃねえ」
「おねがい」
「ぁ、のなあ!」
「倉持は、したくない?」
「……」
 人の体って、結構都合よくできてるんだな。皮膚が薄くて、脈拍を感じやすいところのすぐ下に耳があるんだから。そっとずらして囁けば、微かに肩が震えた。まだ躊躇いがある。そんなの風呂場だからだ。そりゃあ、負担を思えばしない方がいいに決まってる。でも、な。風呂場でいちゃいちゃしたいじゃん。してみたいじゃんか。
 というか、今すぐにでも倉持を抱かなきゃならない気がしたのだ。後ろめたいことをしたわけではないのに、浮気男の心理ってこうなのかな。大丈夫、危ない橋だったみたいだけど、一番はお前だよ。朝帰りしてごめん。心配かけたよな。俺ん家来たとき、寝落ちしないかぎりは夜風呂入ってんのに、今入ってるってことは待っててくれたんだろ。
 抱きしめる力を増せば、おもむろに倉持の腕が上に伸びた。静かに目で追えば、シャワーノズルを壁に掛けたところ。それから少し屈んだかと思えば、頭上から降り注いでいたお湯が止まった。ぱたりと熱が止まり、湯気をいっぱいに含んだ空気が冷えていく。
「寒くない?」
「水道代、もったいねえだろ」
「気にしねえのに」
「そーゆーことじゃねえ」
 換気扇の音がこうこうと響き、浴室の湯気を晴らしていく。倉持に触れ居ていない部分がざわりと冷えた。まだ、温まっていない。つい、ぎゅうっと体をくっつけてしまう。
「……したいんだろ、」
「うん? うん」
「風邪引いたら、ただじゃおかねえからな」
 ぐるりと、倉持の頭がこちらを向いた。間もなく、唇の表面が触れる。互いのソレが歪むか否か、それ程度の接触。もっと深くて濃厚なものだってしているのに、たったそれだけの感触にカッと頭に血がのぼる。倉持が目一杯瞼を閉じていたこともあるだろう。卑猥なこと、淫靡なこと、してるのに、初々しいったら。
 密着した肌を一瞬離した。その隙にこちらを向いてくれるこいつは、本当に察しが良い。ぺたりと胸が触れた瞬間、緩めた腕を腰と、それから倉持の後頭部とに滑らせた。これだけお膳立てして、照準を外すことは許されない。まあ、外すわけないけど。
 がぶりと噛みついたところで、俺より幾ばくか細い、そんでもって現役の頃より筋肉の落ちてしまった腕が背中に回った。


◇◆◇◆


 ちゅ、と湿った旋毛に口づける。
 普段なら鬱陶しいと払われるのだが、今回ばかりは抵抗されない。湯船に浸かって、ぐったりと俺に体を預けてきているのだ。そんな気力もないのだろう。たっぷり飲み込ませた腹を――もちろん丁寧に掻きだしてやったさ――後ろからそっと撫でた。
「もうしねえぞ」
「分かってるって」
 つんと尖った唇に触れるのは、止めておこう。殴られはしないだろうけど、機嫌を損ねてしまう。
「なあ、」
「あ?」
「……ごめんな」
「ならもう二度とココですんなよ」
「いや、そっちじゃなくて」
「ハァア?」
「だってそっちは倉持だってよがってたじゃん」
 唇を耳に乗せて囁くと、名残もあってか大きく体を上下させた。ちゃぷんと水面が揺れ、潜っていた両ひざが顔をだす。だが寒かったのだろう、すぐに湯船の中に体を沈めていった。さっきまでと違い、俺には寄りかかってくれなかったけど。重心を前に移動させ、風呂の中で三角座りをする。腰の位置はそのままだから、簡単にこちらにつれ戻すこともできる。腕はまだ回っているわけだしな。
 ……でも、俺に向かって背骨や肩甲骨、項を晒しているのも悪くない。
「他に、何謝ろうってンだよ……」
「朝帰りしたことに決まってんだろ」
「……ああ、そういやそうだったな」
「うん。やましいことはしてないけど、ずっと起きて待っててくれたんなら悪いことしたなーと、」
「どーこがだよ、酔い潰れてカワイイ女子アナに持ってかれるところだったんだろ」
「エッ」
 倉持の言葉に、腕が強張った。なぜそれを知っているんだ。俺、言ってないよな。言ってねえよ、記憶ないもん。酔っぱらってるときにラインなりメールなりしたとでも言うのか。そんなわけねえだろ、んな器用な真似、自分ができるはずがない。指先を力ませながらも、きれいな凹凸を見せる背中に張り付いた。
「な、んでソレ」
「藤原先輩が、メールくれた」
「ヘッ」
「しっかも間抜けな寝顔写メ付き」
「うぇえええ」
「ちゃんと、」
 あの人、そんな根回しまでしてくれたの。どんだけ気遣ってくれてんだよ。同性愛に目覚めた後輩をこうも寛容に受け止めてくれるだなんて、心広すぎやしないか。夏川とか梅本も同じ反応すんのかな。こればっかりは分かんねえな。
 それこそ間抜けに口を半開きにしていれば、倉持は一層体を縮ませた。折りたたんだ両脚を胸につけ、ぎゅっと両手で抱いている。俺の両手が、腹と腿とに挟まれたから確かだ。
 息を呑む俺を知ってから知らずか、倉持は小さな声を零した。
「……ちゃんと縛りなさいって、言われた」
 水面から顔を出した膝に、倉持は突っ伏してしまう。おかげで表情を窺い知ることはできない。それでも、形の良い耳は晒されたまま。真っ赤に染めたそこを、俺の眼前に晒していてくれるのだ。事後だからとか、風呂に浸かってるからとか、そういうんじゃない。まさしく、羞恥で、赤く色づいているのだ。
「~~っもうさあ!」
「んだよ!?」
「なんなんだよもう可愛いなあ!」
「可愛くねえだろ!」
「可愛いよ、すっげー可愛いよ、先輩にバレて恥ずかしい~ってしてるのも可愛いし、縛っていいのかなってもじもじしてんのも可愛い!」
「も、じもじなんざしてねえ!」
「してるだろ、そうやって小さく座って! ……真っ赤に、なっちゃってさあ」
 ぎゅっと抱き付いて、肩にぐりぐりと額を押し付ける。押し殺すように言葉を漏らせば、もっと小さな声で「ばかやろお」と返された。その拙い響きが可愛さ煽ってるんだって。なんて可愛いんでしょう。困っちゃうね、ほんとにもう。
「縛ってよ」
「縛りたくなんか、ねーし」
「縛ってください」
「んだそれ、Mかよ」
「痛いの好きなのお前だろ」
「ッバーカ!」
 浴室にわんっと声が響く。何も間違ったことは言ってない。俺より断然、倉持の方が痛いを好む。驚くくらいに、良い顔をする。詳しいことは省略するけど。
 倉持が顔をあげたところで後ろから覗き込むと、うっと唇を波打たせた。しまった、ってか。耳と同じくらい真っ赤になった頬に、羞恥でわずかに潤んだ目。逆ハの字を描いている眉の間には切なく皺が寄っているときた。あの倉持が、これだけ情けない顔を見せてくれるんだ。心が通っていると自負したっていいだろ。
「俺は倉持のだって、縛ってよ。欲しがってよ。求めてよ」
「っでも、」
「まだ抵抗ある? 俺もうお前のこと手放さないよ。倉持がやだって言えばあーいう飲み会も断るし女についてったりもしねえよ」
「で、も」
「どうしたらいい、何したら、倉持が一番だって分かってくれる?」
「別に、そーゆーの、」
「いるだろ」
 必要なんだ。どんなに俺がお前を好きだと言っても、なかなか一歩を詰めてこない。ほんとに、もう一歩ってとこなんだろう。ただ、そこに踏み入ってしまえば、二度と後戻りできない。だからこそ、倉持は躊躇うし、戸惑うんだ。優しいというか、気遣いしすぎるやつだから。
 いつまでも待っていては、何も進展しない。俺から譲歩して、近寄って、捕まえて、縛りたくなる状況にしちまえばいい。求めざるを得ないよう、導いてしまえば良い。姑息なやり方だろうと言われても、こいつと居られるのなら、悪者にだってなってやる。勝負に勝つことには、昔から貪欲なんだ。
 
――結婚しようか」

 そんな風にぼんやり考えていれば、自然と、口から言葉が零れ落ちた。
 倉持の口から、掠れた声が漏れる。意味は持たない。言葉を理解しようとしつつも、混乱してしまって漏らした音だ。頭、真っ白になってんのかな。俺もときどきあるよ。お前の突拍子もない言動で、ごちゃごちゃ考えてたこと、よく吹っ飛ぶ。一番最初は高校二年の秋のこと。勝ってから倒れろって、なんだよソレ。でも本当に、あの言葉に救われたところもあったんだ。最近だと、告白したときだ。あの頃だけかよって、どれだけ胸が高鳴ったか。どれほどに、好きでいても良いんだって、許された気になったか。
 混乱しているうちに、畳みかけねば。ぱちんと思考が弾けると、流れるように言葉が出てくる。
「そうだよ、そうしよ。左手薬指にさ、結婚指輪。いいじゃん、今日買いにいこうぜ」
「おま、何言って」
「決まりな。丁度いいじゃん、そしたら俺も既婚者って見られるし倉持に悪い虫寄ってもこないし」
「ちょっ……、ハァアッ!?」
「嫌?」
 ここで嫌だって言われたらどうしような。流石に凹むぞ。立ち直れない、とは言わないけど、しばらく調子おとす。精神状況がプレイに現れるほどガキじゃないが、鳴あたりには気付かれるだろうな。それから「ざまあみろ」とか「ダサい」とか馬鹿にされるんだ。すげえ、目に見える。今は倉持だけ映していたいから、ちょっとどっか行ってろ。
 じっと目を合わせて、倉持の動揺に泳ぎそうになる瞳を縫い付ける。俺を見ろよ、俺はお前しか見ないから。そんで、応えてくれ。
「結婚、してください」
「ぅ、」
「お願いします」
「ぇ」
「一生の愛を、誓わせてください」
「~~~~っ!!」
 はは、頬だけじゃない、顔全体が真っ赤になった。
 湯船に浸かりながら言うより、もっと相応しいシチュエーションがあったろう言葉。でも、ちぐはぐなところのある俺たちなら、これもアリだろ。むしろ、こういうときじゃなきゃ言えなかったりして。思い立ったが吉日、一瞬一瞬を、悔いの無いように過ごさないと、だろ。
「ふ、」
「ふ?」
 瞬きするのすら惜しくて、ひたすらに倉持を見つめていれば、呼気に近い音がした。でも、息を吐き出したのよりは、声に近い音。わずかに首を傾げながら聞き返せば、一度唇を噛み締めてから、また同じ形に開いた。

「不束者、デスガ。ヨロシクオネガイシマス……」

 何で片言なんだよ、とか、もっと自信もって言えよ、とか、言いたいことはたくさんある。でも、この言葉以上を求めるのは酷だろう。たったこれだけの台詞を言うために、顔どころか全身を桜色に染めてるくらいなんだから。
 体をねじって、首を伸ばして、お互い無理な体勢だってのに、唇を寄せ合うのは止められなかった。

 唇に、愛を。恋に、終止符を。君に、口付けを。
 貴方に、一生を。