二
最初はゆっくり、そのうちに小走りになって、地を蹴る音がはっきり耳に届く。だかだかと心臓を騒がせながら走って、荒れた息のまま五号室に飛び込んだ。
灯は点いていない。暖房も点いていない。カーテンすら閉められていなくて、外のうすぼんやりした光が室内を照らしていた。そういや今日は月が出ていたな。星が見えるほど東京の空は暗くないけれど、郊外まで行けば天体観測もできるかもしれない。
はあ、と吐いた息は、白く濁りはしないものの、確かな重さを持って地面に沈んでいった。
出入り口の扉に寄りかかれば、今度はずるずる、体が崩れ落ちる。今沢村帰ってきたら最悪だな。開かねえと大騒ぎするか、無理やり開けようとして俺を転がすか。春市だか降谷だか、あるいは金丸のところだか、どこへ行ったのかは知らないが、もうしばらく帰ってきてくれるなよ。
「っあぁ、ああ~……」
クソ眼鏡に触れられたところが熱くて仕方がない。
こちらから撫でるように触れてやった感触も鮮明に残っている。早く消えろ、消えろよ、消えちまえ。念じれば念じるほど意識してしまう。そう分かっていても、消えろと懇願するのはやめられない。
消えろよ、早く、頼むから。
感触の残る右手首を逆の手で絞めつけた。右肩は冷たい扉に押し付ける。
『――お前がいい』
ついでに瞼も閉じたところで、弱弱しいあいつの声が頭に響いた。
ことの発端は、ここ数日恒例となっている、ゾノと御幸の口論であったらしい。らしい、というのはその現場に俺が居合わせていなかったから。
いつもなら、騒ぐあいつらの半径二メートル圏内にいて、殴り合いに発展しないよう注視している。けれど、今日は赤本を小脇に抱えた純さんと、薄い参考書をぺらぺらと遊ばせた亮さんにつかまったのだ。
「最近あいつら毎日やりあってンな」
「問題だけは起こすなよ~」
からかうとか、諫めるとか、そういう意味は込められていない。単純に、様子はどうなのか、新体制は上手くいっているのか、と心配しているのだ。
冬合宿が始まれば、口喧嘩する余裕などなくなる。俺たちもそうだったし、今のうちにやれるだけやり合っとけ。副音声まで聞き取って、礼を言った。
それから、まだざわめきの残る食堂に向かった。これまでの経過からすると、言い返しきれなくなったゾノがどすどすと足音を立てて出ていくところか。床抜けねえように歩けよ、なんて悪態を飛ばされていたこともあったっけ。お前トドメ刺してんなよ、と諫めたのは確か四日前のこと。
だが、視界にはまだゾノがいた。じゃあまだ続いてんのかな。そうは思えど、逆に御幸の姿がない。
違和感に首を捻った。先に御幸が折れたのか。珍しいこともあるもんだ。
これは面倒なことになるかもな。一応、どうなったのかだけでも聞いておこう。
ぐるりと食堂を見渡せば、丁度よく呆気にとられた春市を見つけた。両脇に馬鹿二人もいるが、こいつらは当てにならない。連日あの口論を見せつけられているせいで慣れてしまったのだ。またでっかい声でしゃべっていやすね、うるさいなあ、くらいにしか思っていない。
「春市、」
「よ、ういちさん……」
「おう、あいつら今日どうなった」
沢村が口を開く前にバックチョークを決めておく。お前が口を開いても擬音ラッシュでよく分かんねえんだよ。
口を半開きにしたままの春市が我に返るのを待っていれば、ばしばしと腕を沢村に叩かれる。安心しろよ、落とすほどの圧かけてないし、落ち着けば呼吸をできる程度の力加減にしてやってるから。
「お互いが胸倉掴むまで行って、でも、今日洋一さんいなかったから止めれる人もいなくって、」
「ゲ、もしかしてゾノ、御幸に一発いった?」
「いえ、先に御幸先輩が怖い顔して振り払ったので、なんとか」
「で、そのまま機嫌損ねて御幸がどっか行ったと」
「はい……、何で喧嘩してたかまでは、よく聞いていなかったので分からないんですが」
「いや、ジューブン。ゾノのこと頼むわ、部屋戻っても荒れてるだろうし」
息ができる、と気付いた沢村を解放して、ぐるりと思考を巡らした。不機嫌になったあいつはどこにいる。この時間に誰かに愚痴ることはまずないし、そもそも愚痴をこぼす前にできる限り自分の中で消化しようとする。部屋か、あるいは、いつもの練習場所か。素振りしながら頭冷やしてるってこともありうるな、先にいつものとこ見に行くか。
がっちり決まっているのに呼吸はできる。そんな状況に感動したのか、馬鹿二人がきらきらとした目を向けてくる。だが構ってなんかやらない。そっちのことも春市、ヨロシク。
そして何も持たずにカゲレン場所に行って、シけた面をする御幸と一言二言。
茶化して、軽く貶して、でもフォローしてやって。ちょっと甘やかしすぎかな、と思う程度に、俺にしては上等な言葉をかけてやった。「どっしり構えてろ」とか「支えらんねえだろ」とか、自分のしたことに不安を抱えている風だったから、つい口が緩んだのだ。
記憶を辿れる範囲でなぞっていくと、目の奥がちりちりと熱くなった。
ついでに、そのあとゾノとやりあった理由を聞けば、忘れたと言う始末。さすがにいただけなくてチクってやると脅せば、――ああ、今度は思い出すだけで頭が沸騰しそうだ。
待って止めてと背後から縋りついた熱。ほとんど後ろから抱きしめているみたいなモンだ。
襲ってきた重さとぬくさと、あいつの匂いに気が狂いそうだった。どうにか手の平で額を叩くも、離れる気配は一切ない。頼らせろの加勢しろに、ナベちゃんを勧めておいたが、返ってきたのは
『――お前がいい』
知らねえよ、お前は俺をどうしたいわけ?
押し寄せた高ぶりに呑まれるのだけはどうにか堪えて、距離を取るも、すぐに迫られて、
『悪い、ちょっと背中貸せよ』
背後から裾をつままれて、右肩に額を乗せて、たった二か所にだけ触れた劇的三分間。
ほんの十数分前のことだというのに、動揺しすぎて断片的にしか覚えていない。鼓膜を介して背骨を震わせた言葉いくつかと、感触と、あと深く繰り返される呼吸ばかりがぐるぐる渦巻く。正直、どういう流れで離れて、ここまで帰ってきたのかもおぼろげだ。
やけに息苦しいのは、心臓が騒いでいるせいか、心因性のものなのか。
ギュッと胸が締め付けられると、少女漫画では描かれているが、そんな可愛らしいもんじゃない。痛い。苦しい。息ができない。無理に呼吸をすると嘔吐きそうになる。
唇を噛み締めて、どうにか扉の冷たさに意識を向けた。
「くそっ、」
やっぱり、逆効果だったかも。背が冷えるほど、与えられた熱が顕著になる。いっそはっきり拒んでしまえば良かった。
そうしたら、微かな名残に揺さぶられることもなかったろうに。
一方で、あいつから頼ってきた、甘えてきた、というのに喜んでいる自分もいる。同じチームとなって二年目、なかなか弱音を吐かないあいつが、ついに情けない面を晒したのだ。やっと、ここまで来た。
撫でれば安心すると言わんばかりに額をすり寄せてきて、裾を摘まむ手にも力が入る。冗談で張り付かれたときの鬱陶しさとはまるで別物。
人の温かさで慰めてやれるのなら、正面から受け止めてやれば良かったか。
「ヒャハッ、」
馬鹿じゃねえの、あいつが背中を貸せと言ったんだ、それ以上を与えてやる義理などない。でも血迷う程度に、俺も心地が良かった。
なんて癪なんだ。あいつの言動に振り回されているのも、それによって心が苦しくなっているのも。
――ぽつり、昔、ノートに書き留めた二文字が過った。
いや、ないだろ。それはない。絶対にない。ありえない。つーかうん、マジでないって。気持ち悪いし、気色悪い。浮かんだ言葉は脳内で主張を続けた。
「ぁああ信じたくねえ……!」
出てきた声は、喉を引き絞ったせいもあって、ずいぶんと掠れていた。
その域に立ち入ってはいけない。いつだか養護教諭が「思春期ならば気にすることはない」と言った内容と重なるが、まさかそれが我が身のことになるなんて。
体を縮みこめて流されたくなる衝動を抑える。どこに連れて行ったら消えてくれるのか、まったく分からないが、とりあえず腹の奥底へ。
それでも、あの二文字に体を委ねたいと打ち震える。
固く瞑った瞼から、涙が滲み出て来た。みっともねえのはどっちだよ。確かにこんなところ、誰にも見られたくねえわな。あいつが意地になって隠そうとしていたのも分かる。
まあ、あいつには今後も背中を預けてもらわねえと困るんだけど。
「すき、とか、」
陥って堪るか。
足掻いている時点で、沼に落ちたも同然だってのに。
体に触れた熱も、手の平の感触も、じっとり張り付いて離れなかった。
昨日の情けなさは、どこへやら。朝練の時点で既に名残も無かったし、本当にあの三分間で調子を取り戻したのだろう。
突っ伏した狭い視界で、教室の斜め前方にいる御幸の背中を捉えた。今日もあいつはスコアブックを眺めている。あの弱った姿を、確かに見たはずなのに、実は夢だったのではないかと思えてくる。一晩経っても消えやらぬ感触だけが、あれは事実だと訴えていた。
これじゃあ、休み時間にあいつをからかってやることもできないな。暇になるたびあいつの席に向かうわけじゃないけれど、手持ち無沙汰になるとつい足が向いてしまうのだ。
今日だって、気を抜いたらそうしてしまいそう。だめだぞ、今行ったら、余計に熱がぶり返す。何を話したらいいか分からくなる。
この体勢は、少々肩がこる。ぐっと一度背伸びをして、故意的に視線をあいつから逸らした。窓際ではなく、廊下側にだ。
「あ、」
すると、見慣れた顔とぱちり、目が合う。前髪の一方だけを伸ばした、なんだっけ、シンメトリーとかいうやつ。
「お、こっち見た」
にやりと笑った夏川は、こっちへ来いと手招きをする。まさか目が合うのを待っていたのだろうか。その前に教室入ってくるとか、呼びかけるとか、大きい声出すのが嫌だってんなら誰かに呼んでもらったら良いのに。
御幸じゃなくていいのか、と一度視線を戻すものの、相変わらずスコアブックを見つめている。たぶん、周りが見えていない。でもって、夏川の存在には一切気付いていない。
俺を呼んだんだ、無理してあいつの集中を切らすこともあるまい。がたりと椅子を退いて、教室の前方にある出入り口に向かった。
「どした」
「高島先生からギョームレンラク!」
「倉持ごめんじゃまー」
「おー、悪い」
ぴらっと差し出された紙切れを受け取ろうとしたところで、同じクラスの女子がするりと横を通り抜ける。その場は戸口に高く腕を立てて、その下をくぐってもらったが、……ここで話すと確かに邪魔だな。昼休みにまだ余裕があるのを見て、廊下の窓際まで移動した。
縁に寄りかかって渡された紙を受け取れば、つらつらと手書きの文字が並んでいる。達筆気味では、読みやすいかと言われたら首を捻る字。監督の字だ。
「監督、急な出張入ったんだって」
「んで、このメニューしろってことか」
「うん。倉持か御幸くんに渡してくれればいいから~、って預かってきた」
「ふぅん」
ずらりと並んだそれは普段の練習を思えば軽い方。ただ最後に「コーチの指示があった場合は、この限りではない」と添えられている。いくらでも変わりうるってことか。まあ投手陣に構うことが多いだろうし、こっちは基本このメニューを進めればいい。
最後まで目を通して、部活の流れをざっくり描く。噛み砕いて覚えたところで一言礼を言えば、夏川がへにゃりと笑った。
「もー二人とも気付かないからどうしようかと思った」
「一思いに呼べば良かったろ」
「だって倉持寝てたじゃん」
「ちょっと突っ伏してただけだっての」
「授業中寝るなよ~」
「だから寝てねえよ!」
受け取ったそれを二つ折りにして、失敬なとため息を吐いた。微睡むことは確かにあるが、ちゃんと授業くらい聞いている。むしろ主将の方がひでえぞ、授業ガン無視してスコアブック睨んでることあるからな。最近じゃ大分減ったけど、主将になったばかりの頃は、いやあ、酷かった。そんだけ追い詰められていたってことなんだろうケド。
「まあ、倉持はさておき、」
「さておくのかよ」
「さておかせてよ。……あーいうときの御幸くんって近寄りがたいんだよネ」
「そーか? 周り見えなくなってるだけで話しかけりゃ反応すんぞ」
「その話しかけるっていうハードルが高いんだって」
気にすることねえのに。
でもまあ女子だし、夏川は空気読む方だし、いつなら大丈夫で、いつならまずいといった線引きがはっきり見えているのだろう。そうだとしたら、あいつ基本アウトじゃね。いつでも独りでいさせろオーラ放ってるじゃん。
ほんと、昨日のあれはなんだったのやら。ゾノに探り入れてみっかな、どうやってあいつを凹ましたんだって。俺が聞くより春市介して聞き出した方が確実か。
あれこれ思考を巡らせていれば、苦笑した夏川がこそっと呟いた。
「一年のとき、どうやって伝言すればいいか分かんなかったなあ……」
「あれ、あいつと去年、クラス同じだったのか」
「うん。最初はイケメンってテンション上がったけど……、」
ああ、これはオチが見えたな。
夏川が率先して御幸に近寄るとこなど見たことがないし、どちらかといえば一年を可愛がっている印象の方が強い。
でも並んでたら並んでたで様にはなるよな。長い前髪が邪魔そうではあるけど、きれいな顔立ちしてるし。口を開けば底抜けに明るいし。
「三日で性格知って萎えた!」
「ヒャハハ、クソ眼鏡め、ざまあみやがれ!」
ほら、このオチ。
溌剌と言い放ったそれは実に小気味好い。痛快だ。
「ああ、でもちゃんとかっこいいとも思うよ、最近は」
「へえ、去年と比べて変わったって?」
「うん。だってがんばってるじゃん。それは、御幸くんだけってわけじゃないけど、うーん……、主将って大変なんだなあって」
「哲さんの偉大さ、思い知ってるみたいだぜ」
「あはは、あたしも貴子先輩の偉大さ噛み締めてるよ」
差し入れのおにぎり作るのも先輩いるだけでペースが変わるし。ほとんどぼやくように零したそれに、先日の悪夢が過った。ああうん、あれは酷かったな、お前がチョコチップなんか突っ込むから、辺り一面阿鼻叫喚したんだぞ。なんでこうなったと思った。
それは置いておくとして。
選手もマネも変わらない。三年生が抜けて、新体制になって、戸惑いながらも進んでいる。教室の方を見やれば、ぎりぎり、あいつの頭が見えた。
「御幸くんは、がんばってるよ」
改めて、言いなおされた言葉。ずしりと体が重くなる。なんで俺が重くなってんだ、あいつに向けられた言葉だろ。
そうなんだよな、と返してやりたいのに。当たり前だろと笑い飛ばしてやりたいのに、表情筋がうまく働かない。
そんなの、俺が一番知ってるよ。
誰かと話しているときはまだマシで、独りになった途端、重圧に押し潰されまいとあいつは葛藤しだす。新体制始動直後に比べたら、幾分気楽に構えるようになったが、それこそゾノと言い争えばそれなりに凹む。改善策を探して彷徨う。
天才であっても、一介の高校生。がんばらねえと、やってけねえさ。
「アー……、ゴメン」
「なにが?」
「今、地雷踏んだ、よね」
「……踏んでねえよ、気にすんな」
しまったな、気付かれたか。
戸惑いをにじませた声に、罪悪感がこみ上げる。お前は本当に悪くないんだよ、俺が勝手に違和感持って、くだらねえ嫉妬しそうになっただけ。
沢村とかにするように、頭を撫でそうになるのを抑え込んで、苦笑を返した。この苦笑は引きつってないだろうか。そうであってほしい。
「何を言っても、言い訳にしか、聞こえないかもだけど」
「いいって、ンな気にしてねえし」
「――倉持だって、がんばってるよ」
俺の、どこが。ぽんと放物線を描いて放たれたボールを、掴むことができない。半分開いた口から、何も言葉が出てこない。
「お節介だったかな。でもあたしはさ、倉持もがんばってるなあ、って見える」
「ど、いうことだよ」
「そのままだよ」
ゆったりと笑った夏川は、そっと教室の奥に目を向けた。確かめなくたって分かる。さっきまで、俺が見ていたところ。頬杖をついて、ページを捲る御幸だ。
俺のどこが。あいつに比べたら何の重圧もないし、せいぜい中田とかと競って、木島や春市との連携を密にするだけ。あとはゾノとか麻生とか、あの辺の我が強い連中と御幸の諍いを中和したり一年に絡んだり。三年生が抜ける前と、していることはほとんど変わらない。
「わっかんねえ……」
「そう? だって、小湊先輩が抜けた今、倉持が頼れる人っているの」
「へ、」
「やっぱお節介かな、でも言わせてね。他の人の背中を押してる倉持はよく見るんだけどさ、誰かに寄りかかってるとこは見たことないなって思ってたんだ」
マネになんか、普通見せないことなのかもしれないね。わずかに切なさを含むトーンで言うと、夏川の視線はこちらに戻ってきた。
夏川の言う「頼る」は、きっと女子の思うところの「頼る」である。必ず俺たちのそれと一致するとは限らない。
けど、その「頼る」に、憧れるとか追いかけるとか、俺を立ち上がらせて走らせる要素が入っているとしたら。重なるところも大きい。
「二遊間ってそれまでと遜色ない鉄壁になってるでしょ。核が、小湊先輩から倉持に移ったってだけで」
「……まだ程遠いって」
「倉持にとってはそうかもね。まだ、小湊先輩には及ばないって、「俺が春市を引っ張んないと」って、思ってるんでしょ」
「思って、……るけど」
だってそうだろ。バックがどれだけ心強いかで、投手の、バッテリーの不安は変わってくる。打たれても大丈夫、守ってくれると安心感があれば、よりベストに投げられる。それが好調につながって、一勝になる。
まだ鉄壁と呼ばれるには、俺も、他の奴らも未熟なんだ。やらなきゃならないこと、できなきゃならないことは山ほどある。
その山ほどを測るものさしが、マネと選手とで違うのも仕方ないことだ。実際プレーしているから、分かることもあるんだし。
「男の子だもん、気負ってかっこつけるのも分かる」
そんなつもりなかったが、夏川からしたらそうなのか。
そりゃあ、できることなら努力しているとことか、所謂がんばっているところを見られたくない。泥臭いとこ見られたって、ダセエだけだろ。
それを大人は美しいと抜かすけど、こちとら、そこばかりを切り取られたくはないのだ。地道な努力を積み重ねた先にある、試合でのスーパープレイに感心しろよ。その方が、ずっと鼻が高いし、スゲエって見られてすっとする。
「だからこそ、あたしらには見せなくていいからさ、」
当たり前だ。もし見ても見ないふりしろよ。ただでさえ練習で監督にしごかれるエグイとこ、見せているんだからな。
沢村を蹴り飛ばすとか、春市の踏み出した先に立っていてやるとか、降谷の安心を作ってやるとか。そうやって良い先輩面してるトコ見て笑ってろ。
絶対に、御幸に肩貸してるトコ見にくんなよ。あいつもプライド高いから、一度でも女子に見られたら二度と頼らなくなりそうだし。
「――ちゃんと、背中預けられるとこ、見つけなよ」
柔らかく、どこまでも優しく、そしてほのかにあたたかく、夏川は微笑んだ。一瞬、母親の笑顔が過ったのは黙っておこう。
女子というのは何かと喧しく騒いで色めき立つ生き物だと思っていたが、中には強かな奴もいるらしい。子どもを産んで強くなるとかババアは言ってたんだけど、そうでもないみたいだぜ。
たった今知ったから、威張って言うことじゃねえけど。
頷くことすら忘れて、夏川に見入っていれば、ほんの一秒、視線が離れた。教室の窓際、ある席に向いて、すぐ帰ってくる。それから、いたずらっ子みたいに笑った。
例えを目で示してんじゃねよ。
デコピンでもしてやろうかと手を出せば、先に口を開かれた。
「じゃないと、余計にぼっちって言われるよ。っていうかあたしがそう呼んであげよう!」
「ハ、やめろよ!?」
用意した手の形を変え、軽く、本当に軽くだぞ、頭を叩いた。けらけらと笑ってるから大丈夫、痛みは与えてない。
ひとしきり夏川が笑い終えれば、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。途端にはっと顔色を変えたあたり、次は移動教室なのだろう。
慌てて踵を返した背中に、遅れんなよ、そう言おうとした。
「さんきゅ」
あれ、違う。これじゃない。
まさかの言葉に振り向いた夏川は目を瞬かせた。でもな、俺も驚いてる。
「……どういたしまして!」
にっと笑い返してきた顔に、応じる言葉は何もない。気恥ずかしさとくすぐったさで、唇が波打った。もう、教室に入っちまおう。逃げるみたいだけど、あいつもばたばたと去って行ったからお相子だ。そういうことにしろよ。
口を尖らせて、教室の敷居を踏んだ。
――すると、鮮やかなブラウンに、吸い込まれる。
気付かれないように息を呑んで、一歩また一歩とその机に近づいた。本鈴まであと四分。この紙を渡すだけだ。
「誰」
「夏川。監督がいないってんで、高島先生からメニュー預かってきたんだと」
「ふうん……?」
なんでお前まで口尖らせてんだよ。拗ねるとか、機嫌を損ねるようなこと、なにもしてねえだろ。
メニューの書かれた紙を渡して自分の席に戻るも、横を向いて座ったあいつはまだこちらをねめつけていた。お前別に夏川とどうこうしてるわけじゃねえだろ。ま、なんか思ってても、脈ナシみたいだぜ。ザマーミロ。
キッと睨み返して三秒、何に満足したのか定かではないが、うっすら表情を緩めてから前を向いた。なんて顔晒してんだよ、結構情けねえやつだったぞ。それこそ、昨日見た顔みたいな。
しまった、また熱が込み上げてきやがった。折角、夏川と話しているうちに忘れられたってのに。
とことこ騒ぎ始める心臓に嫌気がさす。意識するなって方が無理な話だ。どうすっかな、どうしたらいいもんかな。
数学のノートを取り出して、書き留めた公式を睨んだ。去年習ったらしいけど、何度も使うからと改めて四角で囲った文字と記号。
(なんか、デジャヴ)
ノートの余白に、こっそりと二文字。〇・五のシャーペンの芯が、白に引っかかって薄く小さく字を描く。
教師が来るまでと突っ伏せば、いつだか浮かんだ涼しげな面と、たった今見た情けない面とが重なった。
まだ、気付かないふりをしていたい。