随分とまあ、あっけなく終わったな。
 昔と違って、今の卒業証書は丸めないらしい。深い青の皮張りホルダーに挟まった状態で渡されたそれは、本のように中身を見ることができる。
 ちょっと立派に見える紙に、つらつらと列をなす文章。中学を出たときに見たのとほぼ同じ活字が並んでいた。
 ただ一点、自分の名前を除いて。
 印刷されるもんだと思っていたが、こればかりは筆で手書きしてある。国語か、書道の教師が必死に書いたんだろうな。卒業生、約一六〇人。お疲れなこって。
「なーに感傷に浸ってんだ」
「っ! ……浸ってねーよ」
「うわ、最後の最後でその目ヤメロって」
 ぱたんと証書を閉じたと同時に、後ろから肩を組まれた。いきなり来てんじゃねーよ。ちょっと驚いたじゃねえか、クソが。
 全身に響く動揺を、さして厚くない面の皮で隠す。これにもすっかり慣れたもんだ。隠せる程度の動揺、って考えることもできるけど、誰もいないところに行けば途端に無表情は崩壊する。それだけの威力をこの動揺は持っている。
 よくもまあ、誤魔化せるよな。ポーカーフェイスでもないのに。いや、知らないうちにポーカーフェイス身に付けていたってことか。今更気付いたところで、ありがたみのない成長だ。
 はっはっはと変わらない笑い声をあげたそいつは、俺が張り倒すより早く、するりと腕を解いた。そして、隣を歩くことはなく、そのまま数歩先を進んでいく。行き先は、昇降口を出た広場で待機する、後輩たちの元だろう。
 並ぶのも面倒で、数多くの同級生と混ざって昇降口の扉をくぐった。視界に入る桜並木は、まだ色付いてもいない。咲くのには、もう一か月はかかりそうだ。それこそ、入学式シーズンに満開を迎えそう。
 卒業証書の背で、肩を叩いた。

 ――この春、ようやく俺たちは、青道を卒業する。

 証書を小脇に抱えたまま、見慣れた面子の集まる所へ向かえば、真っ先に同室の後輩が駆け寄ってきた。前方を歩いていたはずの御幸を華麗にスルーするあたり、ホント笑える。そっちに行ってやれっての。
 御幸もまずは自分のところに来ると思っていたのだろう。足が止まって、ぎしりとこちらを振り返った。お前のその顔笑えるぞ。最後に良いもん見られたな。
「ぐらもぢぜんばいぃいい」
「うるせえ涙拭け鼻かめ、でもって先にあっち行け」
「冷たすぎやしやせんか!」
「俺は後で良いつってんだよ、おら、御幸のが世話になったろ、そっち行って来い」
 乱暴に背中を蹴っ飛ばすと、御幸のところより先に春市のところへ。そして「倉持先輩がひでえ」と報告。
 だから、そっちじゃねえっての。ほら、コミュ障拗らせてる降谷がどのタイミングで御幸とこ行けばいいか困惑してんだろ。一緒に行ってやれってんだ。ついでに春市連れてって良いから御幸の相手してろ。
 そのうちに先に御幸からその三人組に近付いていった。解せぬとはっきり顔に書いてある。小言の一つや二つぶつけながら近寄っているのだろう。その証拠に沢村の口がはっきりとヘの字を描いた。
 さて、あのうちの誰に絡むだろう。エースの降谷からか、エース争いに食いつく沢村か。
 何となく眺めていたら、真っ先に馬鹿二人に挟まれた春市の頭をわしゃわしゃ撫で回しはじめた。おめーも天邪鬼だな、地味に後輩二人がショック受けてんぞ。
 まあ、春市も入ったばっかと比べて相当生意気になったからな。兄に似てなのか、馬鹿二人の手綱を引いていたためなのか。天邪鬼が構いたくなるのも、分からなくはない。
 何を話しているのか聞こえはしないが、あの様子だととりあえず卒業を祝い祝われってとこかな。しばらくして御幸の目が沢村と降谷に向くと、沢村はおろか降谷ですら、ぼたりと涙を落とした。へえ、お前もちゃんと感傷に浸れるんだな。
――お疲れ様です」
「おー……、って東条か」
「エッ、駄目でした?」
「いや、なんか意外なとこきたなと思って」
 そのうちに話しかけてきたのは、副主将に就任した東条。まず白州のとこに行くと思ったのだが、ああ、まだあいつ出てきてねえのか。
 徐々に御幸を中心に人の壁ができていく。流石は主将、慕われ方が違うねえ。
 なんでも、レギュラーに入ってない一年にはストイックでシビアな先輩と思われているらしい。性格の悪さまで露呈しなくて良かったな。おかげでその信望だぞ。
「どーだよ、調子は」
「いやあ、未だに馬鹿騒ぎしてます」
「ヒャハハッ! だろうな、毎日聞こえてくる」
「試合じゃ頼もしいのに、それ以外だとああですから」
 ついに涙腺を決壊させた降谷に御幸が慌てふためく。つられて沢村の号泣が響き渡るときた。おい、春市、お前ニヤッて笑うな。ほんと亮さんに似すぎだろ。
 ただでさえ大所帯で目立つってーのに、余計に視線集まってるぞ。外れにいる自分達には突き刺さらないが、いずれあの輪に突入しなくてはならないのを思うと憂鬱だ。このまま荷物まとめに帰るかなあ。
「先輩達は、よく喧嘩してましたよね」
「秋冬はな。御幸とゾノのそり合わなかったし。お前らは騒ぐけど、そんな喧嘩してねえよな」
「喧嘩する前にあの二人が突っ走っちゃうんですもん」
 東条が指さした先には、だばだば涙を流す投手コンビ。
 金丸の気苦労、痛み入る。ちゃんと追っかけて襟首捕まえとけよ。春市だけに任せとくと、三人まとめてどっか行くからな、気を付けろ。
 いっそう大きく慟哭した沢村に、金丸の手刀が決まった。間髪置かずに響く奇声。
 あ、御幸のツボに入った。
 何気にあいつ、沢村絡みだと唐突に笑いだすんだよな。なぜ笑われるのか、沢村自身分かっていないらしく、半泣きのまま抗議を始める。やめときゃいいのに、余計笑われるだけだぞ。
 それとなく東条に視線を戻せば、苦笑いをしていた。気持ちも分かるけど。
「おめーもあっち、行かねえの」
「いやあ、俺は……。っていうか、ほら、外から見てる奴が一人くらいいないと、バランス悪いじゃないですか」
 ……こいつ、確か中学までは投手だったんだよな。そうとは思えぬ人の好さ。いや、すべての投手に一癖も二癖もあって堪るもんかと思うけど。自己中心的とか、自分に高いプライド持っている奴が多いのは事実だろ。それこそ降谷とか、稲実の成宮とかが良い例だ。
 つい、東条を見る目に訝しさが入ってしまう。
「その目、止めてくださいよ」
「意外なことが立て続いてんだ、諦めろ」
「ひっでえ~、俺副主将なってから倉持さんの苦労、ちょっとは分かったかなあって思ってたのに!」
「俺の苦労だァ?」
 今度は眉間に皺が寄る。俺の代で苦労したのは間違いなく御幸とノリだろ。他にもいるけど、歴代の先輩と比べたとき、頭一つ抜けてるのはあの二人。
 御幸はまあ、言うまでもないとして、ノリは背後に二つ、でっかい影を抱えていた。それでも重圧に負けず、あいつらの前を走り続けたんだ、やっぱり投手だよ。なんだかんだ言っても、肝が据わっている。
 東条の言葉に心当たりが見つからなくて、更に目付きが悪化した。だが、そいつはへらっと笑って流すときた。思いの外、強かだ。
「あの二人ほど、エゴの塊でもなければ、春市みたいに追いかけるべき背中があるわけでもない。かといって、信二みたいに猪突猛進もできない。じゃあ俺は何ができんのかなあって、あいつらから離れて考えてみたんです」
 未だに騒ぎ続ける連中を見る東条の目は、柔らかくも冷静だ。
 この手の目は、何度か見たことがある。
 例えば、渡辺久志という男。一年の時はそこまででもなかったが、二年になって、野球を続けることに迷いを感じるようになって。それでも、止めることはできなくて。中心に立てないからこそ、見ることに特化していった。
 例えば、夏川唯という女。入部してすぐの頃から、部活や選手の様子について綴った日誌をつけていた。おかげで、部員の些細な変化にはすぐ気付くし、その場で何を言うことが最もベストか、マネージャーの目線から捉えていた。
 自ら「見る」ことを選ぶとは、物好きなやつだな。そういうのは、「見る」しかできない奴が始めることだってのに。
「いざ一歩引いて眺めたら、あれこれぼろが見えてきて。上にどっしり構えてもらうためにも、手回ししなくちゃと辿り着きました」
「面倒くせえこと考えやがって」
「面倒だけど、誰かやっといた方がいいことでしょう?」
「まったくだ、俺がいなかったらあいつら何回殴り合ってるだろうな」
「御幸先輩の顏にも傷ができてたでしょうね!」
「ヒャハハッ一回止めずにやり合わせたら良かったか?」
 しんみりしかけた空気を悪ふざけでガラリと変えると、何かを感じ取ったらしい御幸が真顔で振り返った。さりげなくゾノもこっちを窺っている。
 聞こえたか、いやそんなわけがない。この距離と、あいつらがいるところの騒がしさを思えば、せいぜい俺の笑い声しか届いていないはず。あっ、だからか。
 冗談はさておき、分かりやすくいざこざを解消してやったのはあそこの二人くらいだ。あとは気落ちした奴のネガティブが伝染しないよう発破掛けるとか、無駄に体力有り余らせた馬鹿がオーバーワークしないよう首根っこ捕まえておいたとか、その程度。苦労というほどの苦労じゃない。
 なんだよ東条、俺の苦労なんてあってないようなもんを見えたとか言いやがって。本当に見えたってのか? 慣れねえこと、してんじゃねえよ。
「そのうちに、生意気ながら見えたモノもありまして」
「へえ、言ってみろよ。見当外れだったら卍固めな」
「キッツ! ……けど、外れてないと、思いますよ」
 そっと俺と目を合わせてから、東条は騒ぎの中心に目を戻す。その先にいるのは、相変わらず御幸と戯れる馬鹿二人。
それから悪い顔をする春市。ほんと逞しくなったな、御幸を悪い顔で笑ってやれんの、後輩だとお前だけじゃねえか。こりゃあ、一発くらい技仕掛けてから卒業しねえと。

「御幸先輩に、言わないんですか」

 柔らかな声色に、どれを食らわせようか、吟味しようと並べた技の数々が吹き飛んだ。
 前言撤回、こいつ、ちゃんと見えている。
「何をだよ」
「はは、卍固め決めない、ってことは当たってるんですよね」
 ついでに食えない。
 わざわざこのタイミングで言うことかよ。しかも話の流れからすると、俺たちが引退してから気付いたってことだろ。接点減ってから分かるってどんな観察眼してんだ。
 上手いこと隠して来たってのに、自信失くすわ。そんなわかりやすくはねえと思ったのによお。
「……言わねえよ」
「どうして、」
「言ってどうなるってんだ」
「脈、あると思いますけど」
「あっちは無自覚、気付かせてやることもねえさ」
 高校野球から離れて、物理的な距離も離れて、きれいまっさらに忘れちまえば良いんだ。もし、将来思い出したとしても、とんだ勘違いだったと笑い飛ばせるくらいには、噛み砕いて消化しておきたい。
「プロに、行っちゃうんですよ」
「都合良いって」
「もう、二度と言えなくなるかも」
「だから言えなくて良いっての」
「……倉持さんは、辛くないんですか」
「辛いわけ、」
 ない、わけがない。
 東条の言った通り、御幸はプロに行く。三月中は高校生ってことになっているけど、一か月もすれば手の届かない存在になる。しかも同じくドラフト指名された成宮のいるチームなんだと。
『結局あいつの球受けるのかもな』
 そう笑っていたのは、秋の暮れだったか。
 ――あの感情を大人しく受け止めたのも、だいたいその頃。
「年とって拗らせるより、今言っちゃった方が、楽だと思います」
「なんで拗らせる前提なんだよ」
「だって、そう見えるもので……」
「それこそ若気の至りだろ。大学入って一、二年もすりゃ、忘れるって」
「その間に御幸先輩が自覚したら?」
「ナイ。それこそ、あいつのは勘違いだし」
「勘違い、って」
「勘違いだよ。頼れる相手ってのが、甘えられる相手っつーのと混ざって、好きだと錯覚してる」
「錯覚じゃないと思いまーすよー」
「しつけえな」
 お前は俺をどうしたいんだ。下手な気遣い見せるくらいなら、最初から突っ込んでくるなって。それこそ、純さんの影響で少女漫画の脇役みたいな真似してるんじゃないだろうな。お節介な奴め。
 この三年間で、それとなく俺が背中を任せたのはあいつだけだし、あいつが弱音を零せたのも俺だけ。ただし先輩は除く。別に依存してるわけじゃないし、他の誰かであった可能性だってある。
 ただ、二年、三年とクラスが同じで、主将副主将と近しい関係にあったから、背中を預け合うに至っただけのこと。
 それをふまえて、東条は好意で「言わないのか」と背中を押してくれている。今お互いが離れ離れになったら、とりあえずの拠り所すらなくなって、潰れるかもしれない。取り返しのつかないことに、なるかもしれない。
 それなら、今後リスクがあるとしても、何らかの繋がりを作っておいた方が良い。
 例えば、そう。恋人、とか。
「ヒャハッ、ねえわー」
「強情ですね」
「そうでなきゃ、三年間も抱え続けらんねえよ」
「三っ、……えっ、」
 そこは戸惑うのかよ。
 分かりやすく目を白黒させた東条は、俺と御幸とを何度も見比べる。余計なことを口走ってしまった。
 どうすっかな。なあなあに誤魔化しに入るか、突っ込まれたからには全部吐き出しちまうか。
「そこまでは気付いてなかったのかよ、墓穴ったじゃねえか」
「おっ、俺てっきりここ一年くらいのことだと」
「認めたのは最近だけど、まあ、ほぼ三年間ずっとだなー」
 もう卒業するんだから、別にいいか。この際だし、言っちまえ。
 開き直ってしまえば、するすると言葉が出てくる。

 最初は、悔しいけれど、憧れに近かったこと。
 足しか認められないのが本当に癪で、亮さんがいたことと相まって意地になってボールさばきを身に付け、鉄壁と言わしめるに至ったこと。
 憧憬が恋慕に近付いたのは、普段の涼しげな表情が鳴りを潜め、歯を食いしばりながら必死に練習していたのを見たときのこと。
 それでも弱みを見せず、言わず、誰にも頼ろうとしないあいつを蹴り飛ばすしかできなかった自分に、実は嫌気がさしていたこと。
 ついに背中を貸せと言われて、柄にもなく舞い上がりそうだったのを、必死に堪えていたこと。
 ――隣には、もういられないと実感して、その衝撃のあまり、この感情の名前を認めてやるしか、選択肢がなかったこと。

 最後に、いつもの甲高い笑いではなく、吐息をたっぷり使った、消えそうな笑い声を付け足した。さて、どんな反応が返ってくるのか。いくらなんでも、これだけ吐き出せば、心の広い東条も引くだろ。
「な、んか」
「おう」
「熟年夫婦が、大恋愛した頃のことを回想してるみたいですね!」
「よおっし、何がいい、何の技で落とされたいかは選ばせてやるよ!」
「うわっ、ごめんなさいそういうのはホラッ、あっちにしましょうよ!?」
 柄の悪い笑みに作り替えてネクタイを引っ掴めば、流石に危機感を抱いたらしい、珍しく声を張り上げて慌てだす。そういう反応されると余計にキめたくなるだろう。
 そんなことを考えつつ、掴む場所をネクタイから胸倉に切り替えた。より、絶望が色濃く映る。
 知っているか、沢村はこの二年間、三日に一回この仕打ちを受けてたんだぜ。関節技で身動き取れなくするだけの日もあったから、そこまであいつに恐怖はないみたいだけど。でも同室だった一年には、植えついているかもなあ。
 ヒャハッと調子よく笑って、東条の頭を引き寄せた。
「うわっ!」
 そして、がしりと頭を掴む。万力の如く締め上げるのも悪くない。もうちょっと握力に自信あったらやってたかも。
 でも、今日くらいは、勘弁してやろう。掴んだ手を、そっと緩めた。
――っえ?」
「んだよ、不服か」
 さらりとした髪は、思った通り柔らかい。わしわしと掻き乱す様に撫でてやれば、じわじわと、東条の顏に赤みが差してきた。なんだっけ、背が高いと撫でられることがないから、……なんだっけ。何かで読んだ。ケド忘れた。
 まあいいや、余計なお世話を焼いてきた罰だ、思う存分撫でさせてもらおう。
「んぁあ何してらっしゃるんですか、倉持先輩!」
「あっ、東条君ずるい」
「!」
 と、思ったのだが。邪魔が入りそうだな。あちらこちらに髪が跳ねたところで解放すると、代わりに沢村が滑り込んできた。お前、なんでこういうときだけ足速いんだ、試合ンとき発揮しとけ。
 仕方なしに、東条とは違って硬さのある髪を撫でる。
「へっへっへ、倉持先輩に撫でてもらいやしたよおおお」
「栄純君、早くかわって」
「春男め、また現れたな!?」
「早く」
「春っち、目ぇやべえ」
「は、や、く」
「うるせーよおめーら、……っておい、降谷もさりげなく並んでんじゃねえ」
「僕は三番目で良いので……!」
 一発沢村の頭を叩いてから春市の頭に右手を移動。瞳のきらめきそのままにじっと見つめられると、もう撫でてやるしかない。なんだこの三人組。早々に春市へデコピンを落とし、降谷を屈ませた。
 視界の端からは、騒ぎの中心にいた連中が押し寄せてきている。突入する前に、そっちからやってくるとは。予想外だ。
「ほれ、気ぃ済んだか」
「はい……!」
「じーんとすんな」
「やです、します」
「そうだろう、そうだろう、倉持先輩に撫でられるとめちゃくちゃ嬉しいだろう!」
「沢村はとりあえず黙っとけ」
「洋一さん、僕も嬉しいですよ」
「ツッコミが追い付かねえんだ、け……」
 ぐるりと馬鹿・馬鹿・春市の三人に取り囲まれてしまい、本格的に逃げ場がない。そういえば東条はどこへ行った。あいつがいたはずの方を見れば、ちゃっかり金丸のところに退避していた。あの野郎。
 だがそれよりなにより、言葉を濁らせたのは。
「……んでお前も並んでんだ」
「はっはっは、後輩ばっかずりいだろ?」
 逆に後輩だったから文句を言わずに撫でてやったとなぜ気付かない。
 降谷の後ろから顔を出した腹立たしいばかりの眉目秀麗をどうしてくれよう。
 睨みつけたところで、緩んだ顔は変わらない。それどころか、じっとこちらを見つめる瞳に熱が籠っているようにすら見えてくる。
『脈、あると思いますけど』
 ついさっき東条の言った言葉が過った。
 そんなの、知ってる。でなきゃ、こんな熱視線、向けてくるわけがない。蕩けそうなくらい甘い声を出して、縋ってくるわけがない。
 こてんと首を傾けられたって、あざとくもなんともねえ。その図体でやる仕草じゃないんだよ、ばーか。
「くらもち、」
「~~ったくよお!」
 この場でその声出すなっての。
 止めと言わんばかりに目線の高さを合わせ、ずいっと頭を差し出された。仕方ねえな、撫でてやるよありがたく思え。
 頼むから他の三年は便乗してくんじゃねえぞ。この学年にそんな真似する奴いねえけど。一個上だったら、わらわらいたろうな。
 くしゃり、一度だけ撫でた髪に、約一年ぶりに触れた。ごわごわとした感触はそのまま、砂がかかっていない分、いくらか柔らかいだろうか。撫でた中で一番厚くて、頭を撫でるというより、髪を撫でつけているに近い。
 もう、これで、こいつに触れるのは最後。気付かれないように、瞼を伏せた。

 ――だから、背中へ伸びていた両腕に、気付かなかった。

「おらっ!」
「うえっ!?」
 正面いっぱいから、温もりが訪れる。衝撃と、驚きのせいで、撫でる手が止まった。咄嗟に、その硬い髪の毛を握ってしまう。
 周囲のざわめきが、遠くに聞こえた。ぎゅうっと包み込んでくる体は、しっかりとした厚みがある。
 肩越しに見えた空は、飛行機雲一本を浮かべて、高く、遠く、晴れ渡っていた。
「ん、にしてんだよ!?」
「いや~、最後だと思ったらなあ~」
「知るかバーカ、クソ眼鏡、暑苦しいんだよ離れろボケがっ!」
「いでででで、髪引っ張るなって」
 文句があるなら今すぐ離れろ。
 徐々に周囲の音も戻ってきて、男子高校生特有の、低音の癖にテンションの高い声が響きだす。なあにがウェーイだ、フゥーだ、茶化してんじゃねえよ。
 羞恥に下唇を噛みしめた。ある意味同性で良かったな、ギャグで済ましてもらえてんぞ、クソが。
 これで無自覚とか性質が悪すぎる。本当はもうとっくに気が付いていて、俺からの矢印も知っていて、その上で「こういう行動をとっています」と言われた方がしっくりくる。
 ああもうやだ、顔に血が集まってきた。
「くーらもち、」
「ぅひっ……、今度はなんだよ!?」
 抱きしめられているせいで、御幸の唇が耳のすぐ傍にある。
 囁かれたそれに、ぞわり、背筋が震えた。息を吹きかけるように言われたからじゃない。
 その、声色のせい。
 まだ、甘ったるいままだったのだ。じんと染みわたって、脳髄を犯されている気分。内臓が痛い、呼吸が、しにくい。
 嫌だ、こんな、最後だから?
 最後だっていうんなら、最後にしようっていうのなら、こんなことするんじゃねえ。未練がましくなるだろう。折角言わなでおこうと思ったのに。揺らぐ。
 それだけ、俺は、お前が――

「ありがとう」

 息を呑んだ。
 そうか、いや、そうだよな。鼓膜にその音が届いた途端、すっと動揺が落ち着いて行った。
 俺は今、何を考えた、何を思った。こいつが大人しく思いに応えてくれるような男かよ。勘違いしては、いけない。
 この男が、自分の感情に気付いているにせよ、気付いていないにせよ、俺にソレを言うことはないんだ。
 金輪際、この関係が発展することはない。甲子園まで突き進んだチームメイトにして、高校時代に背中を預け合った悪友。きっと、そのポジションから移動することはできない。
 たった五文字に、突きつけられた。
 これから、どんどん遠くへ行く。俺なんか、手を伸ばしたって届かないところへ。今でこそ、隣にいるものの、すぐに追いつけすらしない世界に行ってしまう。引き止めることは、できない。
 それならば。
 腹の底で、自嘲して笑った。

「どーいたしまして、キャプテン」

 囁きかえして、ぶり返しかけた感情を心の奥に仕舞い込んだ。取り出さなくてもいいように、鍵を掛けて。次に取り出すのは、墓場でいい。
 深く息を吸うと、当然のことではあるのだけれど、御幸の存在を色濃く感じた。