四
御幸一也が、怪我をしたらしい。
それを知ったのは大学二年の秋のことで、あいつがプロに行って二度目の秋ということでもある。
何気なく眺めていたネットニュースの文面に、胸が、心臓が冷やされた。凍る心地と言っても、相違ない。
意図的にあいつの情報をシャットアウトしてきたというのに、どうしてここで。朗報ならまだしも、よりにもよって、マイナスな内容だなんて。さくりさくさく、手書きの矢印みたいな刺が、心に突き刺さった。
「なに深刻な顔してんの」
「っわ、亮さん!?」
「あはは驚きすぎ」
「いきなり背後はやめてくださいよ……」
「やーだね。お前面白い顔してんだもん」
けらけら笑ったその人は、定食の並んだトレイを向かいの席に置く。それからどさりとリュックをおろし、愉快と言わんばかりの目線を、改めて向けてきた。随分と楽しんでいらっしゃるご様子で。
高校の時から、この人にはどうも逆らえない。尊敬してるからか。いや、もっと根本的な、逆らったら最後、末代まで祟られそうな凄味があるせいだと思う。きっとそうだ。
「御幸絡み?」
「へ」
「違うの、倉持がそんな顔すんの、大抵御幸のことジャン」
「大抵って、……そんなに、そんなですか」
「そんなだよ」
予想が当たっても大きく喜ぶ様子はない。むしろ当然という顔をして味噌汁に口付けた。今日の学食の味噌汁なんだろう。見たところ、油揚げと玉ねぎが入ってる。
正面から漂う香りに、昼飯を食いに食堂まで来たのだったと思い出した。学生食堂ということもあり、安価でたらふく食える。亮さんが食べてるのと同じ定食にしようかな、あの甘い味噌汁美味いし。
「御幸、怪我したんだってね」
「知ってたんスか」
「うん、そーゆーニュースに載るより、ずぅっと前にね」
「あーっと……、春市経由スか」
「うん。あいつが降谷から聞いた、ってのを聞いた」
皿に盛られた肉野菜炒めを大きく箸で摘まみ、大口を開いて食べる。あれも美味いんだよな、野菜はしゃきしゃきしているし、肉には味噌ダレと思しき味がしっかり染みているし。いいなあ、見てるだけで腹減ってきた。適当なとこで話切って俺も買いに行かねえと。
小柄な割にこの先輩がよく食べるのは、一重に高校時代の食トレのせいだろう。今でこそ自分も人並み以上に量を食うことができるが、高校入ってすぐはゲロ吐くか、耐え忍ぶかで苦しんだものだ。たった今、話に出てきた後輩二人も、見事にあの食トレに苦しんでいたっけ。
ぼんやりと思い出した二人のうち、目の前の先輩の弟は同じ大学に在籍している。とはいえ、大学の野球部には入っていない。甲子園で戦い抜いてきたというのに。だからこそ、燃焼しきって野球を辞めたのだろうか。理由は、知らない。
もう一方の怪物エースは、プロ一年目。豪右腕を発揮するだけでなく、打者としても活躍する二刀流ルーキー。と、世間では持て囃されている。まだ一年目だってのにな。試合をするたびでかい活躍をあげているし、新人王最有力候補みたいだぜ。
そんな二人は、未だにやり取りを続けている。おかげで、春市に会うたびプロ組の近況を聞かされるのだ。
ついでに、別の大学で野球を続けている馬鹿のこともよく喋っている。たった三年で見違えるほど強かになったとは思ったが、結束も一層強固になったらしい。
「へえ……」
「まだ御幸のこと気になるんだ?」
「いや、別に、」
「顔に書いてあるよ。気になって気になって、もう仕方ありませーんって」
箸で人のこと指すのは止めましょうよ。つーか、分かってて聞かないでください。
じっとりと視線でそれを訴えれば、知ったこっちゃないねと軽快な笑いを返された。弟みたいにニヤリと笑ってくるより清々しいから、まあいいか。良いことにしよう。俺がどうこう言ったところで、頑固なこの人が変わる訳がない。
ため息を堪えて、鞄の中のペットボトルを取り出した。中身はあと半分、もう気温も高くないし、今日は部活もない。買い足さなくても間に合うな。
「で、気になってるんだろ」
「そりゃあ、まあ。気にはなりますけど」
「なら連絡とってみれば」
「……でも」
「そうだよ、お前ら、あれだけつるんでたんだから、連絡くらいとれるでしょ」
「……あの」
「なぁに柄にもなく躊躇ってんのさ、ちょっとでも気になったら声かけてた奴がさあ」
「……あのですね!?」
着々と皿が空になっていくのを眺めつつ、テンポよく繰り出される言葉でコンボを決められる。連続攻撃に反撃するにはタイミングが重要だが、今だと思ってガードを解くと、こちらの一手より早く次の攻撃を浴びせられる。弾き返しすら敵わない。
そもそも、食いながら口が回るってこの人器用すぎやしないか。すべては亮さんだからの一言で片付けるところだが、若干不満のある身としては、それで納得したくはない。
抵抗するにはどうすべきか。みっともないなんて格好つけずに、でかい声で一度抑え込めばいい。そうして声を荒げると、涼しげな目を向けられた。
「なにさ」
「ぅぐ、その……」
「はっきり言ってよ~、鈍臭すぎ、いつもならギャンギャン言ってくるじゃんか」
「……俺、卒業、してから」
「連絡取ってないんでしょー。だからこそ、この機会にやっとけつってんの」
「ちょっ、それも知ってたんスか!?」
「俺の情報網舐めてんの?」
甘くみていました。野球関係者以外にも広く交流を持っている人だとは思っていたが――しかもどの方面でも強かさと計算高さで、人を手のひらの上で転がしてるくらいだし――これほどとは。
どこから知られたのだろう。あいつと連絡を取っていないだなんて、誰にも言った覚えはないんだけど。
いや、ナベちゃん辺りには口走ったかもしれない。一般入試で入ったというあいつは、学部は違うが、一般教養でよく顔を合わせる。レポート提出前とか、そうじゃなくてもだけど、何かと世話になっている。
ありうる、あの辺にぽろっと零し、紆余曲折を経て亮さんの耳に届くとか、充分すぎるほどにありうる。
「ほんの一言でもいいんだろうしさあ、なんかすれば」
「なんかすれば、って」
「御幸もその方が喜ぶよ」
「ナニイッテンスカ」
「だってあいつ、キモイくらい倉持のこと好きじゃん」
「ハァッ!?」
肉野菜炒めの最後の一口を頬張って、亮さんは何を今更という顔をする。
待て、落ち着け、この人が見ていたのは高一、高二のときの俺とあいつだ。一年にして一軍入りした生意気その一その二とか、少しは頼もしくなった気がする後輩A後輩Bの程度だ。陰練場所が同じということまでこの人は知っていたし、たぶん仲間としてって意味で、だ。その意味であって欲しい。その意味であってくれよ、頼むから。
「好きとかなんとかじゃなく」
「好きでしょあれはー、俺らが引退した後、んで御幸が怪我した後かな? 事あるごとに物欲しそうにお前のこと見てたし」
「も、物欲しそうって、」
「えー、まさか気付いてなかったの? うっそでしょ~」
「……ちょっと、良いスか」
「言ってみな」
「いつから気付いてましたか」
「いつだろ、お前の方は気付いたらって感じだったし、」
「うぇええぇえ」
「ああ、御幸のは俺が引退した頃かな。それこそ、決勝で薬師とあたった頃……、や、もうちょっとあとかも」
噛んでいた煮物を呑みこんで、淡々と言ってのける。そこに痺れも憧れもしないが、頭だけは抱えさせてほしい。
穴があったら入りたい。これに尽きる。
ねえ、どういうことスか。俺の「気付いたら」ってのも突っ込みたくて仕方ないけど、引退してからよく御幸のそれに気付きましたね。受験勉強しつつも目を掛けてくれていたってことですか。ねえ。しかもその頃って、御幸が無自覚に俺に傾いたというか、甘えはじめた時期っスよ。
腹のど真ん中にクリティカルヒット、サドンデスステージで一撃喰らったみたいな衝撃が走った。ビームだかレーザだか、そういうのに呑まれて瞬間移動したい。できれば自宅に。
「引かないん、すか」
「プレーに支障出てなかったし」
「そこですか!」
「当たり前。意識しすぎて、かったるい動きになってたらブッ飛ばしてやろうと思ってたけど、むしろ良い動きするようになったから良いかなって」
「ゆるっ……」
「厳格な先輩じゃなくて良かったね。純に知られてたら一生ネタにされるか、それか気遣われるかのどっちかだよ」
「うっわあー、それは目に見えるんで……、そうなんなくて良かったっス」
ギャンッというイヌ科の泣き声と共に過った先輩。沢村は今日もあの先輩に蹴り飛ばされているんだろうか。罵倒入るのも、気にかけてもらってる証拠だから文句言わずに喰らっておけよ。
卒業して二年、知られていると気付くにしても、もう少し覚悟を決めてから気付きたかった。面白そうじゃんのたった一言で他人の心を引っ掻き回してくるこの人に、何かを求めるだけ無駄なんだろうけど。本当に敵わない。
ペットボトルのキャップを捻って、抹茶入りというお茶を飲み込んだ。
「んで、連絡すんの、しないの。するでしょ、しなよ、しろ」
「ゥゲフッ……、め、命令形スか」
「鬱陶しいんだよ。意地になって御幸を忘れようってのなら止めないけど、ちょっとニュースで見た程度で覚悟ガッタガタじゃん。諦めな」
「亮さん、オブラートに包んでください」
「包んだところで俺にメリットある?」
「無いです」
俺のことなんてお構いなし。どこまでも安定している。自分にとって楽しいか、そうでもないか。今日の亮さんの「楽しい」は、きっと俺が慌てふためくことだ。見事に手のひらの上で転がされている。
大きく息を吐いた。その通りに行動しない限り、おそらく解放してくれない。この場で御幸に電話しろ、って言ってこないだけマシなんだろうか。
悲壮感で満ち溢れていく。だが、俺にだって思うところはある。
「俺が、連絡する意味ってあるんスかね」
「なんでないと思うワケ」
「俺から連絡しないのは、まあわざとですけど、あっちからも来たことねーんスよ」
「確かに、御幸もまめに連絡とるようには見えないね」
「……向こうが俺ンこと忘れてんなら、それでもいーかなって。高校ン時、あんだけ頼ってきたのに今来ないってのは、たぶん忘れてるってことだし」
折角、無自覚のまま別の道に進んでいったのだ、わざわざ掘り起こす必要もない。むしろ、これで連絡をとって下手に関係が続いて、そんで拗らせて自覚されたらどうする。
既に自覚したうえで、昔の笑い話に昇華してくれたのなら万々歳。だが、果たして今のあいつにその余裕はあるのだろうか。怪我をして最前線から引き下げられて、一番の取り柄の野球すら上手く行っていない状態。
俺の予想じゃ、きっとない。
亮さんから目を離しながら吐き捨てると、味噌汁の椀に口を付けたまま、じとりとした視線を向けられた。
その口が離れたとき、今度は何を言われるだろう。つまんないなあ、かな。
「つまんないね。大人になっちゃってさ」
はい、的中。ちょっと語尾が違うとか、その後にも言葉が続いたとかは差分ってことでご容赦ください。だいたい三等くらいの当たりと例えればいい。景品はなんにもないけど。
「酒飲める年なりましたし!」
「うわー、今度潰す」
「やめてください」
この調子で話をずらしてしまおうか。
軽いジャブを放つつもりでニヤリと笑えば、すぅっと目を開いて睨まれた。これはまずい、マジで潰される。飲み会のときは覚悟しておかなければならない。何って、この人、自分は下戸なくせに誰かを潰すのは上手いんだ。しかも潰しておいて絶対介抱しないし。気を付けよ。
この方向で話を進めると、自分の首を絞めてしまう。仕方なく、話の流れを元に戻した。
「それにほら、……プライドも高い奴なんで、ここで俺が慰めに入ったって屈辱でしょーし」
「縋らせて口説き落とすとかしないの」
「亮さんは俺をなんだと思ってんスか」
そりゃあ自分の性別が男じゃなかったら、それを武器にしてなんかしてたかもしんねーけど。
女って怖いよな、全部が全部恐ろしいわけじゃないけど、必ずどこかで計算してる。どのタイミングで涙を見せるだとか、いつ既成事実を作ってしまおうかとか、あと女子同士の派閥、あれ意味わかんないくらい怖い。
さておき、俺は俺だ。あいつとどうこうするだなんて。
確かに、適当な言葉を使って甘やかす程度なら、今でもできるかもしれない。今の方が一度距離を置いた分、上手く甘やかしてやれるかもしれないな。ちゃんとしてるとこしか目に入ってないんだし。
まあ、甘やかすだなんて、しないさ。
肩を竦めて見せれば、一通り食い終わった亮さんが呆れたと頬杖をついた。次の苦言はなんだ。そっと身構えた。
しかし、その口が開くより早く、焦点が俺の後ろに定められた。
「あれ、兄貴、と洋一さん!」
「春市、」
「……ねぇ、なんで倉持呼ぶ時だけ嬉しそうなの」
「う、だって久々に会ったし……」
振り向けば、長い前髪をした春市の姿。切らなきゃとぼやいていたのはいつのことだったか。ついでに食堂の入り口を見れば、わらわらと人だかりができていた。
時間を確かめると、二コマが終わって五分ほど。昼飯を食いに、なだれ込んできたのだろう。混む前に飯を済ませる予定が、なんてこった。
「何の話してたの」
「御幸のハナシ」
軽い会釈の後、春市は俺の隣に腰を下ろす。自分の姿勢が良くないせいもあるが、座った高さはほぼ同じ。もしかして身長追いつかれたかも。亮さんとそこそこ差があったから、春市にも追いつかれまいと思っていたが、世の中甘くはできていないらしい。
自分より小さかった奴に抜かれるって、屈辱だよな。この場で口にしようものなら、すまし顔の亮さんに脚を蹴っ飛ばされるだろう。言っては、いけない。黙っていよう。
御幸と聞いて心当たりがあるらしく――そりゃそうか、亮さんに入ってきた情報の一部は春市からのものなんだし――膝の上に鞄を置きながら困った風に笑った。
「あーっと、その、兄貴には言ったけど。……御幸先輩、結構荒れてるみたいですよ」
「うん、俺はソレ聞いた」
「その話、降谷から聞いたのか」
「はい。試合で当たっても出てないし、顔合わせられたと思ってもピリピリしてるし、つまんないって」
「ヒャハッ、降谷らしいな」
「うっわ~大物になるとは思ってたけど、荒んだ御幸見てつまんないって」
「でも、本人には言ってないそうなので、そのへんは、いくらか……」
降谷君も成長しましたよ。空気を読まない発言が神がかっていたのは沢村だったが、降谷も周囲のことなど気にせずに喋る鈍感ぶりを発揮していたものだ。それを思えば、まあ成長したといえるだろうか。
新体制になったばかりの頃までしかはっきりとした印象がない。だからだろう、しっくりこないが、春市が言うからには成長しているのだ。
馬鹿・馬鹿・腹黒で金丸と東条に世話掛けてたみたいだよなあ。ああいう面子だったからこそ、てっぺんまで昇って行けたのだろうか。あームカつく。
更にペットボトルを傾ければ、亮さんがにやりとした。待ってください、余計なこと言わないでくださいよ。視線で諫めても、九割九分無駄になる。知ってた。
「まー、それで倉持に御幸慰めて来いよって言ってたの」
「兄貴、それ押し付けることじゃないと思う」
「鶴の一声になると思うんだけど」
「う、それは、まあ」
あー言ったよ、やっぱり言ったよ。でもすっぱり否定を言った春市は褒め称えたい。どうせなら鶴の一声の方も否定してくれてもいい。つーか鶴の一声って、なにそれ。
「どういうことだよ」
「うーんと……、洋一さんは御幸先輩を気負わせずに奮い立たせるの、上手いので」
「はあ?」
「そーそー、御幸煽るの上手いんだよ」
「兄貴、煽るって言い方は、」
「だいたいあってるじゃん」
言葉を詰まらせた春市に、また柄の悪い声を向けそうになる。だが聞き返したところで、亮さんの容赦ない物言いが突き刺さるだけだろう。
口を開けたまま息だけを吐いて、がくりと項垂れた。何をしても俺の望む答えは返ってこない。どちらかというと、引き出しの奥底にしまった感情を掘り起こされそう。
既に突き回されて、高校時代に気付いた淡い感情が顔を出しかけているが、あえて見ないフリ。
顔を見られていないのを良いことにギュッと目を瞑った。何を言われようと、その感情はあいつにぶつけず、墓場まで持ってくと決めたんだ。この二人にどう言われたって、それを捻じ曲げてなるものか。
もし、万が一、億が一にでも曲げることがあるとすれば、あいつ自身が望んだ時だけ。こっちから仕掛けて堪るもんか。
自己暗示を掛けて目を開けば、きゅるると腹が鳴き声を上げた。そうだ、飯。飯食わねえと。
「とりあえず、飯買ってきます……」
「いってらー」
「僕も買ってくる、から、ごめん兄貴、荷物」
「はいはい、見てりゃ良いんでしょ」
「うん、お願い」
ひらりと手を振った亮さんを背に、長蛇となりつつなる列に並んだ。すぐに後ろに人が並び、さらにその後ろに、蛇の尾にいたのは一瞬だった。
傍から見て、そんなに俺は御幸と近い人間に見えるのか。そこそこ近かったとしても、背中は預け合ったとしても、もう過去の話だってのに。今も当時の距離が通じるかと言われれば、微妙なところ。
御幸に次第だ。
「あの、」
「ん?」
「さっきのですけど、えーっと、」
「あー、もういいよ、あの話は終わ」
「――御幸先輩は、きっと喜びますよ」
ヒャッハ、内心で甲高く笑い声をあげた。やっぱり、兄弟だな。それ、亮さんにも言われたわ。
がしがしと頭を掻いて誤魔化し、フードコーナーのトレイを引っ掴んだ。
飯を食って、三コマを終え、バイトを終え、春市にも亮さんにも釘を刺されたのに何もしていない。
だから、無理してあの人らに従うことも無いんだって。そうは思うものの、双方に言われた言葉がくるくると回って信念を揺らがせてくる。
まだ冬が来るには早いが、十一月の夜半は申し分なく寒い。上着の襟に、少しでも埋もれられないかと肩をあげた。契約して二年目のスマートフォンは、いじっていないこともあり、ひたすらに冷たい。握っていたくはないのだが、現代人の癖ってやつでか、つい、するすると指を滑らせてしまった。
呼び出したのは、御幸一也の四文字。
十一桁の番号と初期設定のままと思しきメールアドレスが表示されている。いくらなんでも、メールアドレスは変えただろ。このままとか、物臭すぎる。もっと野球以外に関心示せよ。
そのままタップを繰り返し、メール画面を呼び出した。結局あの二人の言ったとおりに動いてんじゃねえか。信念もクソもねえ。
文面はどうしよう。ため息を吐きながら顔の高さに持ち上げると、吐息でうっすら画面が曇った。
「思いつかねえもんだな」
なにが奮い立たせるのが上手いだ、上手く甘やかせる気がするだ。変わっていないどころか退化してんじゃねえか。
やめだやめ、変に気遣ったメール送る方が、あいつの癇に障る。でなきゃ倉持に気遣われたと余計に落ち込む。何気に両極端だよなあ、不器用な生き方しやがって。
はあっと息を吐いて、メール画面を閉じた。直前に開いていたアドレス帳が、再び液晶に戻ってくる。
家に着くまでのおよそ十分、このまま睨みつけているのか、行動に移すのか、諦めてポケットに仕舞い込むのか。
たった四文字を見ているだけで、腹の底から苦しさが滲んでくる。痛み混じりの、辛いやつ。
それだけなら良かったのに、淡くて、柔らかくて、泣き出しそうなくらい温かいものもあるときた。困ったもんだ、二年封印した程度じゃまるで弱ってくれない。
愛おしさに、冷たい画面をそっと撫でた。
――その瞬間始まる、通話画面。
「ぅおっ!?」
確かに画面はなぞった。だがそれだけで発信するとはどういうことだ。偶然か、たまたま感度が高くなっていたのか。
慌てているうちにコールが始まってしまう。その前に切れれば、向こうの履歴にも残らなかったろうに。ここで切ったら、確実に履歴に残る。もしかすると、改めて掛け直される。
そんなことで、あいつの声を聞きたくなんかない。けれど、このまま呼び出しをしていれば、あいつに電話が繋がってしまう。
「どぅし、えっ、~~ああクッソ!」
迷っていても仕方ない、掛けてしまった以上腹を括っちまえ。半ば自暴自棄にスマホを耳に当てた。
大きくなるコール音、今何回呼び出したのだろう。すぐに出ないということは、まだ練習なりリハビリなりしているのか、電話を取れない他の状態にあるのか。
時間が時間だ、寝ているのかもしれない。一人でぐっすり夢の中か、誰かと、例えば彼女と寝ているのか。
くだらねえこと考えちまった。他人の色恋沙汰に首突っ込むだなんて、野暮ってもんだろ。
つい、歩む足が加速する。
コールが、途切れた。来る。
『――留守番電話サービスです。ただいま、電話に出ることができません、』
「ッハ?」
聞こえてきたのは、女声を模した電子音。出ねえのかよ。というか、留守電設定なんかにする能力はあったのかよ。いや、さすがにあいつを馬鹿にし過ぎたろうか。
呆気にとられているうちに、電子音声の終わりが近付く。やべ、どうしよう。何言おう。別に言わずに切っても良いのか。どうしよう。どう、しよう。
ピーッ、甲高い音が、耳に届いた。
「めげてんじゃねー、ハゲッ!」
咄嗟に出た雑言。我ながら、これはない。
気付いたところでもう遅い。勢いよく通話を切って、スマホの電源まで落とした。電話、頼むから、掛け直してくんなよ。
どくどくと逸る心臓。内臓のいたるところが、馬鹿野郎と叫んでいる気がした。