無事に社会人となって、研修を終えた夏の日のこと。
 懐かしい奴から連絡があった。
『都合があうのなら、見に行ってみないか。』
 そんな短文と一緒に、あるチケットの写真が添付されていた。プロ野球の、観戦チケットだ。番号からすると内野席、対戦カードは、――言うまでもないことだとは思うが――どちらのチームにも、高校時代のチームメイトがいる。白州のやつ、上手いこと取ったな。
 感心して三秒、もちろん行くと返信しようと思った。しかし、返信画面を立ち上げたまま指が固まる。フリック操作をして、三文字さえ入力すればいいのに。なんなら、折り畳みの携帯のように、画面を数回叩くだけで文字を打ち込むこともできるのに。瞬間冷凍されたかのように、指先は動いてくれない。
 何を迷っているんだ、絶対出るとは限らないが、知り合いが活躍する可能性が高いんだぞ。応援してやらないと。
 そう言い聞かせるものの、片一方のチームに目が留まって、「行く」と踏み切れない。
 ――その試合には、御幸が出る。
 たった、それだけ。それだけが俺を躊躇わせる。
「いやいやいや、行くだろ、」
 雑念を振り払って、自分に言い聞かせようとも、あいつの顔を見たくないと心臓が騒ぐ。ずっとずっと遠くの、もう届かない世界に行ってしまったのだと、目の当たりにしたくない。
 考えるだけで肺が潰れて、呼吸が苦しくなるんだ。いっそ別の病気だったら良かったのに。恋煩いとか、二十三の野郎が罹ってるなんて、笑い話にもならねえよ。童貞じゃねえのに、「童貞か」なんて言われちまう。
 馬鹿だよな、もうとっくに遠くの人間になってるっていうのに。隣に並べたのなんて、あいつの一生から考えれば、ほんの一瞬。夢幻に近い。
 その夢幻を忘れようと、彼女を作ってみたりもした。実にできた女だったなあ。
『忘れたい人の為に、私を使うのは構わないよ。代わりに、あたしも倉持君のこと、利用するから』
 ずるい女でしょ、と笑った彼女は、強かでたくましくて、格好良かった。就職して、いつの間にか連絡が取れなくなったのが、少しだけ残念だ。今頃幸せにしてるといいなあ、俺は未だに苦しんでるけど、気にせず良い奴見つけろよ。
 過去を思い出しては感傷に浸るのはよそう。ついでに、この期に及んで御幸に会いたい、会いたくないと足掻くのも止めてしまおう。
 さも当たり前のように「行く」と返信した。
 それこそ、一度見てしまえば、いくら手を伸ばしたって、届きやしないんだと実感できれば、徒労の恋慕も消えてくれるはず。そうでなくちゃ、困るんだ。いい加減、過去の感情を清算しないと。
 メールを送信しました、と表示したスマートフォンを鞄に投げ入れた。充電した方が良いのだろうけど、そこまで電池も減ってなかった気もする。どうにかなるだろ。
 ベッドに体を放り投げて、そっと誓いを立てた。淡々と、あるがままを受け入れよう。堅苦しい書類を作っているときのように、取引先の支離滅裂な話をかいつまんで聞くときのように。
 もういい年した大人なんだ、割り切らなくては。
 吸い込んだ空気は、まったく肺に取り込まれた心地がしなかった。

 応援団の声援が球場に響く。ざわめきと、人のごった返す匂いと、グラウンドから漂う熱気と、様々なものが入り混じって、球場の空気をなしていた。
 こんなに賑わっているところに来たのは、いつぶりだろう。しかも、右を見ても、左を見ても、見覚えのある顔が並んでいると来た。
「なーんか」
「どうした」
「皆、来てたんだなって」
「まとめてとったからな」
「ま、そうだよなあ」
 隣は白州だが、斜め前にはノリがいる。その両隣を亮さんと純さんが固めていて、亮さんの隣に丹波さんが座っている。
 他にも青道時代のチームメイトの顔がちらほらと。まだ来ていないが、ゾノも来るらしい。大阪からよくここまで来る気になったな。
 それだけ、俺たちにとって好カードということか。
 ――歴代、青道主将対決。一つ上の代で主将を務めた哲さんと、俺らの代で主将を務めた御幸。その対戦が見られるのだ。集まるに決まっている。
 来ておいて、良かった。これで顔を出さなかったら、亮さん辺りに容赦なくからかわれたことだろう。仮に他の用事で来られなかったとしても、御幸のこと気にし過ぎ、と悪い顔で笑われていたろう。
「……すっげ」
 ぽつりと呟いた声は、雑踏に混ざって消えて行った。
 なにがすごいって、ダイヤモンドが狭く見える。プロはどっしりした体格の選手ばかりだからな。
 自分だって就職して社会人チームに入ってはいるものの、比べるのがおこがましいほどにプロと体格が違う。高校球児と比べようものなら、なおさらだ。
 そうこう考えているうちに試合が始まる。ボールがミットに収まる小気味のいい音がよく響いた。
 先発としてマウンドに立ったのは成宮鳴。そこから十数メートル離れたところにいるのが、件の御幸一也。
 内野席なだけあって近く見えている方なのだろう。それでも、物理的に離れていることに代わりはない。実に遠い。もっと良い席で、近くで見たとしても、距離感を抱きそうだ。それくらい、あいつは遠くにいる。そう、俺には見える。
 ゲームの流れとともに熱気も増して、至る所で歓声が飛び交った。ミュージシャンのライブを見ているかの臨場感。この場にいる誰もがグラウンドに注目して、白球の行く先を追いかける。
 どくんと、深く心臓が脈打った。胸が熱くなる。野球、好きなんだよ、興奮して当然だろ。ただ、それで済ませられない、きりきりと締め付けられる感触もする。つい眉間に皺が寄った。
「っしゃーきたきたきたき」
「純、うっさい」
「あぁあ? 哲が成宮を追い詰めてるってんだ、テンションあがんだろ!」
「それは分かるけど、うるさいことに代わりはないジャン」
 これはいけない、気を抜くと意識がおぼろげになる。
 先輩たちの声にバッターボックスを注視すれば、そこには哲さんが立っていた。上機嫌で饒舌になる純さんに、神妙な顔つきでバッターボックスを睨む丹波さん。亮さんは、悪い顔をして笑っていた。三者三様、それぞれがそれぞれに、あの人に期待の目を向けている。この先輩たちにとって、特別な人なんだ。
 まあ、俺にとってのあいつ、ってのとは違う意味の大きさなのだろうけど。
 打席に目を向ける振りをして、すぐ脇でミットを構えるあいつを見た。プロ五年目はどう勝負を仕掛けるのか。投手も強気、捕手も強気。天才同士のバッテリーは、沈着な化け物にどう挑む。
 こくりと成宮が首を振って、一球、放たれた。

 ――迷いのない、スイング。

 ガツーンと飛んだそれに、大きくスタンドが揺れた。うわ、成宮の歪んだ顔がよく見える。キャッチャーマスク越しに、あいつも苦笑いしてんのかな。
 呆気にとられつつも、感極まりすぎて咆哮しかけた純さんを、亮さんが全力で引っ叩くのが見えた。
 早速すげえもん見ちまったな。脱帽なんてレベルじゃない。感嘆のため息ばかり零れ落ちた。
 いくら才能があったとしても、周囲の奴らだって才能に溢れている。ちょっとの体調不良すら、勝敗を大きく左右する。怪我をしたあいつがめげるのも、仕方がなかったのかもしれない。
「……倉持、」
「ぅおっ、おう、どした」
「今日、調子悪いのか」
「いや、全然。なんでだよ」
「今さっき、酷い顔してたぞ」
「酷い顔ォ?」
 唇を歪めながら聞き返せば、いつもの顏に戻ったのだろう、ふっと白州の顏から心配が消えた。気のせいだったのかもな、なんて苦笑してくれる。
 だがどうにも腑に落ちなくて、自分の顔を揉んだ。
「やめてあげなよ、あの御幸にも敵わない人がいるんだーって、ショック受けてるんだし」
「ちょっ、何言ってんスか亮さん」
「……ああ、そういう」
「おい、白州テメーも納得してんじゃねえ!」
「倉持はさあ、御幸のこと買いかぶりすぎなんだって。あいつも人間なんだから、負ける時ゃ負けるんだよ」
 それくらいまでは分かっている。御幸だって弱音を吐くこともあるし、誰かを頼ることもある。超人じゃないってこと、俺が一番分かってる。
 だが、あまりにも普通だと思うと親近感が沸いて、どうにかすれば手が届くんじゃないかと思ってしまうんだ。折角遠くに離れたんだ、これを機に諦めてしまう腹積もりだったのに。一抹の希望を見せてくれやがって。
 じっと亮さんを睨み付ければ、ざまあみろと軽快に笑われた。この程度で御幸を諦めるなというエールなのか、それとも、つまんなくなるからもっと拗れてろということなのか。後者でないことを祈りたい。
「この試合負けたら慰めてあげなよ」
「だからほんと、何言ってんですか……」
「むしろ、成宮のカバーする御幸を労わってやったらいいんじゃないか」
「白州まで……!?」
 勢いよく隣を見ると、薄く笑んで肩を竦められた。
 なあ、白州、お前は気付いてないんだよな、俺があいつにどうこう思ってたこと知らないんだよな。
 亮さん、あんた言いふらしてませんよね。それとも別のところから、噂に聞いたとでもいうのか。
 可能性があるとすればナベちゃんだが、あいつは何となく察している程度で、俺に探りを入れては来ない。ということは、きっと誰にも喋らない。
 他に誰がいただろうか、東条か? そうだよ、東条と白州って外野手同士じゃん、そこか、そこなのか。
 ぐるぐると動揺が駆け巡り、つい、試合から意識が逸れる。わざわざ観戦にしにきたってのに、俺は何してんだ。
 唐突に我に返ると共に、二度目の、大きな歓声が響いた。そして、純さんの、これまた大きな叫び声。
「っぁあああクソ御幸め、かっ飛ばしやがって、やるじゃねえかぁああ!」
 さらに外野の方から黄色い声混じりの声援。周りからも、ざわざわと沸き立つ声がする。至る所から「みゆき」の音がする。なんでその音ばっかり聞き取るかな。
 自嘲しながらも、音に呑まれていく。頭がそれで満ちて、真っ白に、弾けた。
――みゆき、」
「うわ、倉持その顔少女漫画のヒロインみたーい」
「っ亮さん、冗談そろそろやめません?」
「やだ」
「やだじゃなくて」
「面白いお前が悪い」
「理不尽……!」
 バックスクリーン直撃の活躍を見逃したのは惜しいが、涼しげにベースを踏んでいくあいつを見ているだけでじわじわと何かが込み上げてくる。
 これ、あれだ、さっき純さんが感極まったのと同じだ。流石に喚きはしなかっただが、喉元まで込み上げてきた感情の塊をどう逃がせばいいのか分からない。
 とりあえず、息だけでも吐き出そうと、ほんの数ミリ、唇に隙間を作った。
「打ったんかぁああっ!」
「ぅおおわぁあっ!?」
「お、ゾノ、やっと来たか」
「御幸め、ハラタツわあ!」
「て、……ンメー、いきなり背後で叫ぶんじゃねえよ!」
「おう、久しぶりやな、倉持!」
「おう久ぶー……、じゃねえっての、クッソがぁ馬鹿みてえにビビったじゃねえか」
 お前らどっちもうるさいよ。そんな亮さんのツッコミを聞き流したところで、また攻守が交替した。まだ三回が終わったところ、思った以上に、荒れた展開になりそうだ。
 別世界過ぎて、眩暈がする。と、恐れていた。けれど、蓋を開けば、そうでもなかった。
 周りに、この人たちがいてくれたおかげだろう。仲間ってのは良いもんだ、上手い具合に苦しいことを打ち消してくれる。完全に消すことはできなくとも、一人でいるよりずっと濃度は薄くなる。
 そのままあいつに焦がれていたのを忘れさせてくれれば最高なんだけどな。俺の馬鹿げた恋心を知っている人がいる以上、それも無理な相談か。何かにつけて掘り起こそうとして来るし。
 どっすりとゾノが席に腰を下ろしたところで、グラウンドに視線を戻した。
 見に来て、良かった。
 来ないとからかわれるとか、見に行って踏ん切りをつけようとか、そういう意味じゃなく。好きだから見たい、見たくない、の域を飛び越えて、仲間だったから応援してやりたい、の域に飛びこめた。
 これがいつまで続くか分からないし、いつかまた、手に余る恋心に戻ると思うと憂鬱だが、今だけは、お前の隣に立てていたことを、苦しさなく受け止められるよ。
 隣に立てたことが誇らしいよ。

***

 純さんが喚く前に、俺はこっそり球場から逃げ出した。ゾノがいるから大丈夫、俺一人いなくったって、相手をできる人はいるからな。
 うん、大丈夫。
 何度もそう言い聞かせているのは、結局、成宮や御幸のいるチームが勝ったから。そうなれば、ただでさえ悪い口を、一層荒げて、純さんは愚痴や鬱憤を吐き出す。捕まってしまうと、いつ解放されるか分かったもんじゃない。
 だから、そっと抜け出したのだ。もちろん白州とノリには声を掛けてきた。大興奮のゾノはスルー、亮さんにはさりげなく睨まれたけど、別に恨まれはしないだろう。
 それこそ亮さんには、あと一分、あと一秒でもあの場にいたのなら「おめでとうって電話しろ」と要求してきたことだろう。そんな恥ずかしい真似、してたまるか。

 自宅最寄駅までたどり着く頃には、今日も残すところあと一時間になっていた。何気に移動って時間かかるよな。生温い空気に、息を吐きだした。熱帯夜が訪れるのも時間の問題だろうな。
 もう一度上向きにため息を吐くと、高い鳴き声がした。
 どこから聞こえたって、自分の腹からだ。そういえば飯食ってなかったな。家に帰ってから何か作るのも面倒だ、食って帰ろうかな。
 これといって思いつめてもいないから、何でも食える。この時間帯で開いている店など、限られているが。
 かつかつと足音を立てつつ辺りを見渡せば、何度かくぐった事のある赤い暖簾が見えてきた。深夜遅くまで営んでいるラーメン屋だ。あそこにしようか、外観に反して店内は綺麗で広いし、なにより美味い。
 ほんの少しだけ足を速め、店に入った。
「ぃらっしゃーい」
「えーっと……、チャーシューメンで」
 がらりと戸を開けて覗いた店内は、時間のわりに賑わっている。その大半はスーツを着ている萎れかけのサラリーマン。十年二十年としたら自分もああなるのだろうか。
 心地いい気分が沈みそうなのを押し殺して、奥のテーブルに腰掛けた。
 すると、試合の余韻が体に染みわたっていく。自分がプレーするのも堪らなく楽しいが、見るのもそれはそれで面白い。まして、気心の知れた仲間とあれこれ騒ぎながらだ。楽しいに決まっている。
 その一方で落ち着いてくると、ゆっくりあいつとの距離も見えてくる。背中を押すくらいなら、届かなくはない距離。とはいえ、そう簡単に触れていいのかと躊躇してしまうだけの距離だ。
 次元は同じでも見えている世界はきっと違う。相違が生じた価値観のまま、あれこれ口を出していいものか、いや、良いわけがない。
 つまるところ、見ているだけが丁度いい距離なのだ。その見るは、遠目から見るとか、テレビ越しに見るとかであって、直接面と向かってってものじゃない。
(やっぱり、遠いよな)
 改めて、噛みしめた。そこまでの悲壮は無いが、一抹の寂しさはある。
 何気なくスマホを取り出して見ると、ゾノから「覚えておけ」と、メールが来ていた。しかも三件、同じ内容で。ヒャハッ、無理、たぶん忘れるわ。
 声に出さず、吐息だけで笑えば、すぐにラーメンがやってきた。分厚いチャーシューが四枚に、小さな山を作る白髪ねぎとメンマ。鼻腔を掠める醤油ベースのスープに、また腹が唸りをあげた。
 はいはい、今食べますよっと。
 割り箸を掴んでから、一瞬両手を合わせ、流れるように箸を割った。綺麗に割れると気分いいな。
 具ごと、大きく麺を持ち上げて、二回ばかし息を掛ける。ちょっと熱いくらいが美味いんだ。口内の唾液を一度の見下し、よし、イタダキマス。
――おやじさ~ん、いつもの、」
「おう、いらっしゃい。ちょっと待ってな」
 ずるるっと一口目を啜ると、新たに客が入ってきた。
 会話の様子から、常連と分かる。ちらりと上目遣いにそいつを見るものの、既にカウンターに座ってしまったようで、後ろ姿しか見えなかった。
 見たことはないな。まあ、俺もそんな来る方じゃないし、この時間に来たのは初めてだから、知らなくて当然か。
 チャーシューを頬張って、次の一口を啜った。
「今日も活躍してたねえ!」
「はっはっはっは、大したことないですよ」
「そろそろサイン書いてくんない?」
「嫌ですよ、生活圏特定されるでしょう?」
 ちゅるんと飲み込んだところで、改めてそいつを見る。
 見たことはない、と言ったが、なんだか嫌な予感がする。あの後姿、見覚えがあるのだ。いや、見覚えがあるなんてもんじゃない、明らかに、あの背格好は、という自信がある。
 待て待て、他人の空似かもしれないだろ。サインとかそういう話してる時点でアウトな気がするけど、まだ確かめきってないから。ギリギリセーフ。アウトでもセウトでもない、セーフ。セーフと言ったらセーフ。
 麺を食べるペースが加速した。ちりっと舌を火傷した気がするが、構っていられない。さっさと食って、勘定して、家に帰ろう。
 黙々と咀嚼を続けた。上機嫌な鼻歌も聞こえてくる。微妙に音が外れていて、酔っぱらいかよというほどにリズム音痴。というか、その曲を知ってるってのに驚いたわ。ウォッチ、今何時と言った瞬間、そいつはぐるりと店内を見渡した。時計を探したのだろう。
 やべえ、と焦るままに、首を下げた。
「ヘイ、お待ちっ」
 ごとりと、カウンターにどんぶりが置かれる音。
 その音を聞くころには、もうスープだけになっていた。早食いになってちゃんと味わえてないのは申し訳ないが、こちらにも事情がある。勘弁してくれ。
 両手でどんぶりを持ち、豪快に口付けた。
 ――視界の端で、眼鏡が置かれる。
(うっ、わあああ)
 あのセルフレームは。置き際に僅かに見えた横顔は。
 どうにか噎せずにスープを飲みほして、そいつが振り向かないよう静かに立ち上がった。
 そいつは、今箸で持ち上げた麺に、息を吹きかけているところ。俺があいつの背後を通る時には、きっと麺を啜っている。きっと気付かれない。
 なぜ気付かれないようにしなければならないのか、別にばれても良いだろ、と思う節もある。だが、あいつが近いところにいると思いたくない。久しぶりだななんて声を掛けられたくない。
 やっと遠く離れたところに行ってしまったのだと、目の当たりにできたのだ。早々に覆してなるもんか。
 ずるるっと啜る音を背後に、勘定を済ませる。早く、早く、気持ちばかり急いていく。まったりと喋るおかみさんに、申し訳ないが苛立ってしまったくらい。
「あい、ありがとうございました~」
 言葉を聞きながら、戸口に手を掛ける。勢いよく開き過ぎたろうか。でもここまで来てしまえば、こちらを向いても暖簾の奥にすぐ逃げられる。
「ん?」
 ほら、こっち見た。振り向いていないから分からないが、視線は確かに背中にささった。
 とはいえ、その感覚を察知した瞬間に外に出たのだけれど。
 追いかけるとか、わざわざ外に顔を出すなんて真似、あいつはしない。そこまで周囲に関心がないからな。
 ラーメン屋を出た足は急ぎ続け、家までの道のりをほぼ全力疾走で駆け抜ける。その上、生で聞いてしまった声が、強く背中を押しやってくる。
「こっ、のやろお!」
 せめて店からの方角だけでも、逆であってもらいたいものだ。住宅街は自分の家の方に密集しているから、そんな希望は儚く散るのだろうけれど。
 食後の運動にうっすら吐き気を感じながら、それでも走るのを止められなかった。

 翌年の秋、俺の淡い希望は、見事に砕け散る。
 ――コンビニで遭遇という、実に、間抜けな形で。