七
定時に上がったのはいつぶりだろう。盆明けから馬車馬のように働かされ、今週に入ってからなんて、毎日残業続きの終電続きであった。
出先からそのまま帰って良いと言われた、あの感動ったら。どうせ明日も早いし、山と化している仕事に追われなくてはならない。だからこそ、今晩くらいはゆっくり休もう。
そう思いつつ、コンビニで飯を買った。
気の緩みからか、弁当を選んでいる最中にどっと眠気が押し寄せてくる。コンビニを出て、自宅までの数百メートル、ぶっ倒れることなく帰り付けるだろうか。いや、帰り付かなくてはならない。早く帰れる意味なくなるじゃん。
一応、気付け薬にカフェイン飲料でも買っていくか? しかし、最近頼りすぎている。飲みすぎも体に良くはないんだよな。近々社会人野球の大会もある。あまり、身体を痛めつけておきたくはない。
仕方ない、気休めにしかならないだろうが、缶コーヒーで手を打とう。
色彩豊かな弁当と一緒に、ホットの缶コーヒーをレジに持って行った。棒読みの温めますかに、こちらも棒読みで返事をする。
間もなく光りはじめる電子レンジを見ていれば、ふわふわと眠気が増してきた。単調な動きを見ていたからだろう。ああ、やだやだ、本当に歩きながらでも眠れそうだ。
ビニール袋一つを受け取って、大きく欠伸をしながら自動ドアをくぐった。口を隠すだなんて、そんな上品なことはしない。しようとも思わない。別に誰に見られているわけでもあるまいし。
そのついでに、ぴしりとセットしておいた前髪を掻き上げた。外回りをする関係で、どうしても身なりは整えなくてはならないのだ。オールバックでセットするのは性に合わなくて、普段逆立てている前髪を七・三で分けている。
ぐしゃぐしゃと、固めたそれを解す様に掻き上げた。僅かに前髪が立って、視界も広がったような気になる。
「え?」
「ああ?」
非常に間抜けな声が聞こえてきた。
微睡んだ両目に叱咤を打って、焦点を合わせる。すると、据わり気味の瞳は、ほんの一メートル先に立つ男を捉えた。ぎゅっと眉間に皺を寄せたまま、瓶底並の分厚い眼鏡に釘付けになる。
いや、いやいやいや。偶然にしてはできすぎてるだろ。
そりゃあ去年の今頃、近所のラーメン屋で見かけはしたけど、それから一年、エンカウントしてなかったじゃねえか。
やっぱり世間は広かった。そう安心してたってのに。ぴくりと、左の口の端が引き攣った。
信じられないのと、突然すぎる衝撃とに両目を見開く。逆にピントが合わなくなるってのに、どうして驚くと目を見開いちまうんだろうな。
ぐつぐつと込み上げてくる感情の水面に、唇が波打った。
「っうぉあぁああぅぶぐっ……!?」
絶叫すれば、間髪おかずに肉刺だらけの手のひらで口を塞がれる。べちっという音、ぴりぴりと痺れだす顔の皮膚。冷たくなった自分の指先とは異なり、その分厚い手は温かい。
「はっはっは、いきなり叫ぶこたねえだろ」
へらりとした笑みと、その温もりとが重なって、あらぬ感情まで呼び起されそうだった。ある意味、呼吸が苦しくなって良かったと思う。息ができなかったせいに、すべてを押し付けられる。
「ぐぅ、ぶ……、ぐるっ、ばなぜっ……!」
「あ、悪い」
離せともがきながら、改めて懐かしそうに破顔する男を睨みつけた。
自動ドアの前から移動するためだろう、そいつに引っ張られる動作で、塞がれた唇が擦れる。たったそれだけで、必要以上に熱を感じるときた。ホントもう、離せよ。
――偶然の再会、あの頃と違わない声に、目つきに、眩暈がした。やだなあ、手が、届きそうじゃんか。
解放された瞬間に、秋の冷たい空気を目一杯吸い込んだ。わざとらしく呼吸を乱して、何度も冷気を肺に取り込む。そうしないと、去ったはずの熱にのぼせてしまいそうだった。
***
しばらくして、御幸MVPの朗報を聞きつけた同期に、祝賀会と称して同窓会しないかと、持ちかけられた。一軍経験のある奴は俺に、悔しくも二番手三番手で甘んじていた連中はナベちゃんに。
そりゃあ、俺とそいつは仕事先同じだけどさ、偶然にしては出来過ぎている。間違いなく、幹事にさせようという意図が見える。
まあ、一度も集まった事はないし、めでたいことに代わりはないし。企画するかと、二人で立ち上がった。
あいつにどうこう抱いているモノは一旦しまって、「仲間のために」という名義を掲げる。こうすれば、あいつのことを意識せずに済むと分かったんだ。存分に使わせてもらおうじゃないか。
何か言いたげなナベちゃんに苦笑いを返して、着々と準備を進めていった。
そして今日、思った以上に人が集まった。幹事としては鼻高々。まだこれから二次会があるんだけど、やって良かったと、心底思うよ。
主に一次会を取りまとめたナベちゃんは、二次会が始まる前にしれっと帰宅。明日も早いしな、帰りたくなるのも分かる。俺だって帰っても良いのなら、この心地よさを引っ提げて帰りたい。
けれど、主だった二次会の幹事は俺になっているし、懐かしい面子と過ごすのも嫌いじゃない。徹夜上等、参加する頭数を数え、店を移動した。
――で、今なんだけど。
「亮さん、」
「だめ?」
「だめです」
「なんで」
「純さん、もう死んでます」
「ぅるへえぁあっ、おれぁまだっ」
亮さんの手によって、見事なまでに、純さんが飲み潰れていた。ちなみに丹波さんは、とっくに潰れてぐったりとしている。
おかしいな、亮さんって下戸なんだよな、今もウーロン茶しか飲んでないし。なのに、他の連中を潰しにかかるってどういうことだよ。
潰れたからには、誰かが介抱しなくてはならない。俺は嫌だ。頭痛で呻くだけの丹波さんならまだしも、絡み酒の純さんは本当に嫌だ。沢村あたりに押し付けたい。
大学が同じだったこともあり、沢村は酔っぱらった純さんをあしらうのが非常に上手い。そして、沢村本人はザルを通り越したワク。飲んでも、飲んでもまるで酔わない。
その話を聞いたときは信じられなかったが、今日だって結構な量を飲まされて尚、けろりとしている。潰れないと判断した亮さんが早々に手を引いたほど。
人は見かけによらないもんだ。
「純、止めておけ」
「ぁああン、哲まれとめんらねーぞぉ!」
「……すんません、純さんのこと頼んでいーすか」
「ああ、面倒掛けたな、倉持」
そうこしているうちに輪の中に哲さんが入ってきた。
喚く純さんの襟首をきゅっと捕まえ、もう一方の手でさりげなく亮さんを諌める。おかげで若干亮さんは不服そうな顔をしたが、すぐに仕方ないと別のターゲットを探し始めた。
それはそれで困るんですけどね。言ったところで聞いてはくれないだろう。次の被害者が潰れてしまう前に、また間に入るか。
一息ついて、荷物を置いたテーブルに戻った。店一軒まるまる貸し切っているおかげで、人目は気にしなくて良い。
だが、その分羽目を外そうとする人も多い。適度な範囲にしてくれよ。
ナべちゃんのこと、帰さなきゃ良かったな。俺だけじゃ目が行き届かねえったら。
「やややっ、倉持先輩、お顔が大変曇ってらっしゃる!」
「うるせえ頭に響く」
「ぅえぁ……」
「しょげんな」
どさりと沈むように席に座れば、ぱたぱたと沢村が駆け寄ってきた。ついさっきまで、御幸を含む輪の中央で騒いでいたと思ったのだが。
おもむろに、そちらへ目を向ければ、御幸と降谷がなにかを言い合っていた。同じプロ同士、喧嘩吹っかけあってんのかね。御幸は相変わらずにやにやとしているし、降谷はきゅっと眉間に皺を寄せた仏頂面を浮かべている。
どこかで見たな。テジャヴ。
たぶん、卒業式の頃の記憶と重なるのだ。
だが足りないものあって、それはおそらく隣に腰を下ろした後輩だ。数分前なら、その記憶と一致したのかもしれないが、今の景色は、ピースの足りないジグソーパズルに見える。
ぴっとそちらを指差しながら、お猪口に口をつける沢村を見やった。日本酒かよ、俺にもよこせ。
「お前さ、」
「んえ、なんでしょ?」
「あっち行かねえの」
「おっれはもう、祝って祝って祝いちぎりやしたから!」
「あっそ……」
「そーゆー先輩こそ、御幸ンとこ行かねえんすか。全然話してねーじゃないスか」
「……幹事だからな、他のことしなきゃなんねんだよ」
「ふぅん?」
テーブルに乗った乾いたお猪口を手に取ると、声を掛けずとも沢村が徳利を掴んだ。すげえ、なんも言ってねえのに注げる体勢になってやがる。
大学時代に純さんに扱かれたおかげか、それとも社会人一年目にして学んだのか。こいつも祖父がいると言っていたから、そのせいで染み付いているのかもしれない。
高校生の沢村からは、到底思いつかない姿。成長したもんだなあ。つい、感心してしまった。
注がれた日本酒は、綺麗に透き通っている。鼻腔を掠める香りは、くどくなく、かといって淡すぎることもない。くいっと煽れば、すっきりした口当たりが広がった。喉を抜ける感触も悪くない。
「へえ、なかなか」
「美味いでしょ~、これ良いやつなんスよ~」
でへでへと笑いながら言ってくるあたり、沢村自身が目を付けた酒なのだろう。飲むときはこいつに店探させるか、穴場を知ってそうだ。
悪くないなと返事をして、今一度店内を見渡した。
誰か馬鹿をやっている奴はいないか、揉めてるところはないか、――亮さんは別の誰かを潰していないか。今のところは大丈夫、一先ず問題がないのに息を吐いた。
すると、増子さんと目があう。突っ伏した丹波さんの隣に座っていて、相変わらず厳めしくも優しい顔をしていた。
増子さんは、丹波さんが回復したらしいのを一瞥し、ゆっくりとした動作で立ち上がる。そして、こちらに向かってきた。
すげー、なんか、懐かしいな。
「懐かしいっすね!」
うわ被った。この野郎。
咄嗟に沢村を睨み付けると、何のことでしょうと首を傾げてきた。
酒を注ぐタイミングは分かっても、空気は読めないままなんだな、クソが。いや、逆に考えるんだ、そうでなくてはコイツらしくない。
文句をつける気にもならず、ため息を吐き出した。そのため息の意味すら、沢村は分かっていないのだろう。説明なんてしてやるもんか。したって首の傾斜を急にするだけに決まってる。
乱暴に頭を掻けば、一部始終を見ていた増子さんが肩を竦めた。この人だって、沢村に逐一説明をしてやる無益さは知っている。だからこそ、何も言うことはない、と竦めたのだろう。
いやはや、本当に懐かしい。ちょっとムカつくくらいに、ここの距離感は変わらない。
「そういえば倉持、お前は御幸のところ、行かないのか」
「ゲ、増子さんまでそれ言うんスか」
「ほらほらほらあ、ちゃんと祝ってきてくださいよ!」
俺に安寧の余地はないのか。あんたらまで御幸のところに行けと言うだなんて。
それほどに、この人たちの中で俺とあいつはセットなのだろうか。どっちかといえば、俺は春市や亮さんで、あっちはそれこそ沢村とか降谷とかと一緒にいる印象強そうなのに。
高校三年間のうちの三分の二、教室が同じだっただけだろ。まあ、そりゃあ、な、スコアブックばかり読んでいたあいつによく絡んでいたとは思うが。
それにしたって、なあ。
「ったく、もう祝ったっての」
「ヌヌヌッ、嘘つきは泥棒の始まりですよ!」
「嘘じゃねえっての、ちゃんと言ったわ!」
「倉持、意地を張るのはよくないぞ……」
「まーじーで! ほんとに! 言いましたよ、オメデトMVPって!」
なんで信じないんだよ、この目で確かめないと信じられないってか。
この口で、その一言だけは伝えた。言ったのは、一次会をした店からここまでの道中であったから、誰の目にも留まらなかったのだろう。あいつは最後尾を歩いていたし、気付かれないのも仕方がない。むしろ、そういう状況だからこそ言えたんだ。
今思うと、あんなふうに顔を近づける意味なかったよな。
ゆっくりと歩く御幸の頭を捉えて、形の良い耳に唇をよせて。囁くようにその言葉を紡いだ。
アルコールのせいで高揚していたとはいえ、強引過ぎたろ。出てきた声も、普段よりずっと甘ったるかったし。
今はまだ、酒による浮遊感が残っているから平気だけど、素面に戻ったら悶絶しそう。何してんだ、墓まで持ってくって決めたのに、なに馬鹿なことしてんだよって。
「ぬぅう」
「ンだよ、その顔」
「ほんっとーに言ったんスか」
「言ったっての」
「あぃダっ」
「……なら、どうして、」
疑いの目を向ける沢村の額を弾くと、増子さんが重い声を出した。それから、顔をあげて、顎で御幸の方を指す。これだけ近くにいるから分かるのであって、向こうからは顎で指されたなんて分からないだろう。それくらいに微かな動き。かといって、スルーするわけにもいかない。
仕方なく、視線を向けた。
「――っ!」
ぱっちりと、視線が合う。
驚きで肩を上下させてしまったが、それはあいつも同じであった。まさか目が合うとは思わなかったのだろう。
重なった視線は、一ミリたりともずれやしない。即座に逸らしてしまえば良かったのになあ。一秒、二秒と時が過ぎていくほど逸らしにくくなる。なんの耐久だ、さっさと顔背けろよ。
いや自分がそうすればいいのだが、眼球を上手く動かせないんだ、早く、背けろ馬鹿。
「――どうして、御幸がこっちを見てるんだ」
「やっぱ気のせいじゃないッスよね!? そーなんスよ、あいつさっきからこっちの方チラッチラ、チラッチラして!」
「ぅ……、あ、そうか」
「うが、構ってやれ」
「そうそう、構ってやってつかあさい」
あいつ、もう充分なくらい構われているだろう。わざわざ俺が出向く必要あるかあ?
そうは思えど、じっとこっちを見てくる御幸の顔には、はっきりと構ってくださいと書いてある。お前そんな構ってチャンだったのかよ。独り大好き通り越して、独り愛していたろうが。
あまりにも見つめあっていたせいで、御幸の周囲にいた奴らも俺に気付きだす。下手に騒がれる前に、構ってやるのが吉か。
しかしどう構えと。先ほどはおめでとうと言う目的があったから、平然とあんな真似をしでかせたが、今は特にこれといった用はない。
第一、酩酊まで陥ってはいないが、酒で口が軽くなっているのだ。余計なことを口走ったらどうするんだ。
何を話すか悩む以前の問題。下唇を噛みしめ続けたまま御幸を構う方法ってあんのかな。小突くとか技掛けるとかしか思いつかねえよ。
「倉持、」
「ぐっ……」
「くーらーもーちーせーんぱーい!」
「~~ああもう、わあったよ、行きゃあ良いんだろ!?」
沢村の大声に、ようやくあいつから目線を外せた。
かといって、きっかけとなった沢村を褒めたりなんかしない。駄々を捏ねる幼稚園児みたいに喚いているんだ、むしろ蹴り飛ばすに決まっている。
ぎゃあと悲鳴をあげたが知ったこっちゃねえ。
ムッとしながら、もう一度御幸を睨めば、蕩ける笑みを向けられた。はあ、なんつー顔してんだよ、飲みすぎじゃねえの。
内心、ため息交じりの悪態を吐く。その一方では、心拍数が異常なまでに上がっていく。かっかと顔が火を噴いて、熱いったら。
一歩、御幸に近づいた。
そこでようやく、あいつの隣に気付く。
(亮さんさあ……)
俺を見たその人は、計算通りと腹黒く笑った。そいつMVP取るくらいのプロ野球選手ですよ、なに潰そうとしてんですか。
しかも、よく見れば春市もいる。にやりと笑った顔はそっくりとしか言いようがない。
人の悪い笑みを浮かべる小湊兄弟の、まあ恐ろしいこと。行きたくない、帰りたい。マジ帰りたい。
(クソがっ!)
腹の底で盛大に吐き捨てて、座ったまま緩い顔をする御幸のそばに立った。こちらを見上げる顔は上気して、いかにも酔っぱらっていますと伝わってくる。
潰される前に俺を呼べて良かったな、この野郎。せいぜい感謝しやがれ。
「ちらちらこっち見てんじゃねーよ!」
「はっはっは、こっち来ねえかなあって思ってさあ」
「あぁそうかよ、お望みどおりに来てやったぞ、喜べ」
「うん。――うれしい」
「ぅ、」
さらに笑顔の糖度が増した。生クリームにチョコレートソースとキャラメルソースぶっかけて、さらにカラースプレーまき散らしたらこんな感じ。
胃もたれを起こしそうな甘さ、もう見つめていられない。誤魔化すついでに、その頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
間抜けな面しやがって、これ以上俺の脈拍と血圧上げてどうするつもりだ。死ねってか。絶対お前より長生きしてやるよ。ああ待て、でもこいつの死に目はみたくねえな。
じゃ、ねえよ、馬鹿。俺のばーか。
彷徨う意識を繋ぎ止めると、つい力が入った。
ぐでんぐでんとされるがままに揺れる御幸の頭。さすがに辛かったのだろう、わずかに唇を尖らせた御幸が、悪さをする俺の手を捉えた。
ぎゅっと手首を掴まれた衝撃に、また大きく肩が揺れる。おいそこ、小湊兄弟、噴き出してんじゃねえ。笑うならいっそ盛大に笑ってくれよ、その方がネタで済ませられるだろう。
「くらもちぃ、やーめろって」
「構ってやってんだ、文句あっか」
「えぇえ、もっと丁寧に甘やかしてくれよ」
「なに馬鹿言ってんだ」
「……さっきは、どろどろに甘かったのに」
「ッハァ!?」
胸騒ぎがした。
手首から伝う体温に、不満を示した厚めの唇に、熱を孕んだ瞳に、まずいまずいと警鐘が響く。今すぐにでも振り払わないと。うぜえって笑い飛ばさないと。
何か言われたらどうするんだ。必死に脳が指令を出すが、腕はぴくりとも動かない。
「さっきみたいに、甘やかせよ」
改めて、御幸は言い直した。ずんっと下腹に痺れを走らせる、重くて、熱くて、艶やかな声で。
駄目だ、このまま声を聞いていると、脳みそが沸騰してしまう。どうにか動く部位を探すと、ぎしりと首を傾けられた。脳に近いせいだろうか。ともかく、目を離すなりしてしまわないと。
これ幸いと、ぐるり、首を捻れば、くすくすと笑い続ける亮さんが目に入った。つい、その涼やかな顔を睨みつけてしまう。
あんた、もしかして、
「俺は何も言ってないよ」
「――倉持、こっち見ろ」
重なった声のうち、縋るようなそれに神経が揺さぶられる。
今情けない顔してんだろうな、自信を持って言える。だって、俺の面を拝んだ亮さんが、珍しく優しい笑みを浮かべているんだ。あたかもがんばれと背中を押しているような、憧れの先輩像を見事に描いたような、そんな顔。
「なあ、くらもち、」
拙い音で喋るなよ。ただでさえ胸がいっぱいなのに、器から零れてしまうだろ。零れたら、もう後には戻れないんだ、分かってんのか。
それでも、首を軋ませながら視線を戻すと、満足したと言わんばかりに御幸は破顔した。
表情筋がまるで仕事をしていない、緩み切った頬。孤を描きつつも、半開きになる唇。目尻も眉尻も垂れてしまっていて、ブラウンの瞳は溶け出しそうなほど熱っぽい。
天下のプロ野球選手様がなんて顔してんだよ。到底、あの舞台で華々しく活躍しているとは思えない。
「かまって?」
何で、どうして。あざとく首を傾げて、気持ち上目遣いになったそいつを見下ろすも、焦りと疑問符が頭の中を駆け巡るだけ。「構う」の内容なんて、さっぱり出てこない。
早いもので、青道を卒業して、もう六年。
こいつの中の無自覚は消えたもんだと思ってた。実際、九割九分、消失していたのだろう。近所で鉢合わせたときは、元チームメイトとの再会を喜び、楽しんでいる風だったから、きっとそうだ。
けらけらと腹の立つ笑みと、今の情けのない笑み。見比べれば一目瞭然。無自覚なのか、はっきりとその感情に気付いているのか、そこまでは定かではないが、明らかに俺を見る目が違う。
しまったな、耳元で囁いてやったのが間違いだったか。心当たりと言えばそれだけ。
あとは酒のせい? いや、それにしたって、これはない。酒は自制を解くだけ。奥底に眠っていたのを呼び覚ましてしまったのは、俺のせいなのだろう。
ごめんな、それだけは、謝らなくてはならない。
天邪鬼の自分が、それを口にしてやることは、ないんだろうけど。
「だっ、」
「だ?」
「だるっだるの顔してんじゃねーよ!」
「ぅおぶっ!?」
掴まれた手を振り払い、両手を広げて、その間抜け面に打ち付けた。べちっとなる鈍い音。聞いたことあるな。コンビニで会ったとき、こいつに口を押えられたときもこんな音がしたっけ。
もう無理だ、向き合っていられない。慌ただしく踵を返し、元の席へ。
全身を流れる血流は加速の一途を辿る。全身が熱くて仕方がない。どっさりと皮張りの椅子に腰を下ろし、冷めきったお茶を流し込んだ。
「あれ、もう戻ってきたんスか」
「あ、悪いかよ」
キッと声の方を睨むと、そこには皿一杯に料理を乗せた沢村と増子さん。二人して幸せそうに口を動かしていた。
ああ、まあ、そうだよな。花より団子、あんたらの頭はもう食うことでいっぱいなんだな。
それぞれに御幸を祝ってはいるのだろうし、文句はない。いっそその方がありがたい。変わらなさ過ぎて、安心する。
するすると緊張やら羞恥やらが小さくなって、腹の底に沈んでいった。消えはしないけど、大分、和らいでいる。
自然と、言葉が出てきた。
「……俺にもよこせ」
「ん、これめっちゃ美味いっスよ!」
「こっちもなかなか美味いぞ」
「あざーす」
ぱくりと口に放りこむ。美味いな、酒が美味いのも大事だけど、飯が美味いのも大事だよな。
たった今あったことを忘れたい一心で、差し出された料理を次々と口に運ぶ。
「して倉持先輩」
「あー?」
「あいつに酒でも飲まされたんですか」
「なんでだよ」
再び浮かび上がってきそうな感情をどうにか押し殺して、じとりと沢村をみやった。童顔というに相違ない顔は、能天気なまま、大きく口を開いた。
「暗かった顔、真っ赤になっていやすよ!」
にかりと笑った沢村の後頭部に、容赦のない手刀を落とした。余計なお世話だ馬鹿野郎、空気読まないのもいい加減にしろ。
***
御幸は、その日に自覚したらしい。溢れんばかりの思いが、所謂「恋」というものであることに。
言われることはないだろうと思っていた。気付いても、こいつだって言葉にはしてこないだろうと、高を括っていたのだ。だから、それは完全なる不意打ちであった。
そう、まるで――、