閑話

 俺、あの頃、お前のこと、好きだったよ。
 ……うぅん、さっきの、撤回。
 俺、今も、お前のこと――

『送っていく』
 そう言った間抜け面を引っ叩いた帰路。その程度で退く男ではなかったが、「送り狼にでもなるつもりか」と茶化せば、分かりやすく慌てふためいて送り出してくれた。
 自宅までは、おおよそ十分といったところ。カツコツと革靴を歩いて帰ればすぐの距離だ。
 はあ、丸く息を吐き出すと、ぼんやり濁って霧散した。
(や、べえ、うれしいとか)
 緩みそうになる頬を引き締めて、冷たい空気を肺一杯に取り入れた。アルコールが入っているからだろう、師走の下旬のくせに涼しく感じる。体がしっとりと冷えていくのが、なんだか心地いい。
 角を曲がって、取り込んだ息を吐いた。白濁が浮いては消えるを繰り返す。まるで今の気分を示しているよう。
 ――とても、嬉しい。
 もう、結びつくことなどないだろう。ほんの数日前、いや数時間前までは、そう思っていた。何らかの好意を向けられたとしても、こちらのそれと絡み合って、固く結び目を作ろうなど、あるものか、と。
 未だ、浮遊感にとらわれている。夢じゃないかと疑いたくもなる。これで夢だったら、起きたとき泣くかも。何年ぶりかの号泣噛ましそう。いい年した大人が何してんだろ、って我に返って、きっとまた泣く。女々しいったら。
 それだけ信じられないことなのだ。
 だって、そうだろう?

 御幸一也は、プロ野球選手である。

 しかも、今年度最優秀選手となった。話に聞くと、スポーツ誌の取材やテレビ番組への出演、スポンサー企業のイメージキャラの起用、と随分と華やかなことになっている。三、四年前まで、不調で苦しんでいたとは思えぬ活躍ぶりだ。
 一方自分は、なんてことのない、ただのサラリーマン。そりゃあ、高校三年間、同じ宿舎で過ごしはしたけど、あいつの人生と交わったのなんて、たったそれだけ。住む世界が、まるで違うのだ。
 長らく抱いていた、憧憬に近い恋心など、実るわけがない。実って堪るものか。
 あいつのことだ、真摯に寄り添った野球に目途がつくまで、色恋沙汰には手を付けない。落ち着いて、野球以外にも目が向くようになって、ようやく恋をし、結婚へ向かいだす。
 相手はそうだな、プロ野球選手の定番なら美人アナウンサーかな。理想高そうだし、国内外で注目を浴びるモデルってことも考えられる。けど、あいつは存外、家庭的な穏やかさを好んでいる。朗らかに笑う一般女性というのも、ありえたろうな。

 なのに、なぜ。

 冷静さが戻ってきた。吐く息はぬるいし、吸う息は刺すように冷たい。
 なんで、俺にした。あるべき理想の幸福像とは、かけ離れている自分を選んだ意味とは。
 いや、意味なんてないのかもしれない。成人したいい大人と形容したいが、二十四ではまだまだ若造。過ちを犯すことだってある。挫け、後悔し、反省し、そして別の選択肢を掴もうと足掻ける年齢。
 なんとなしに、過去の想いを零してしまっただけ、としたら。
 あの男の将来を思うなら、俺の返答はすべて間違っていたってことになる。そりゃ天才と言われる奴が間違うんだ、俺だって間違うさ。
 自嘲気味に息が漏れた。カコカコ、コンクリートを鳴らす足音は鈍くなる。こんなところで蹲ったら不審者にしか見えねえぞ。しかもクリスマス前ときた、彼女にフラれた空しい男に見られるかもしんねえじゃん。
 どうにか歩みだけは止めず、思考も働かせ続けた。
『あの頃だけかよ』
 十数分前、そう口走った自分を殴りたい。
 好きだった。好きだと言われた。その瞬間だけは、応じることでいっぱいいっぱいだった。なんだそのガキみてえな理論。甘えてんじゃねえよ。
 好きだから受け止めたい。けれど、受け止めたから必ず良い方向に進むとも限らない。
 あの男と、俺の場合は、間違いなく後者だ。本当に好きだとしても、自分は応じてはいけなかった。
 過ぎてしまったことは、もう変えられない。時間を巻き戻すなんて便利な道具、世の中に存在していたら悪用しかされねえよ。助けて、と青い猫型ロボットに縋る幻想が過った。
 真冬の空気が、喉を刺す。
「ど、しよ」
 絞り出された声が、白い靄に包まれた。靄が消える頃には、恐ろしさが背筋を這い上がってくる。
 自宅アパートが見えてきても、安心感は生まれない。ホラーゲームなら、一時の安寧がもらえるはずなのに。セーブして、終わりかと思ったのに、翌日次なる恐怖が襲ってくる。
 結局襲ってくるのか、じゃあ怖いままでいいわ。
 階段を駆け上っても、やはりそれは剥がれなかった。考えてもみろ、その恐怖はどこからやってきた。外からくっついたものだったか? 違うだろ。内側から蝕むように滲んできたものだ。
 アルコールのくれる浮遊感は、どこかに消え去っていた。代わりに鉛玉を埋め込まれた心地がする。
 冗談と退くことはできない。
 かといって、将来あの男の隣に立っていられるとも思えない。いつか、終わりは来る。
 じゃあ、今の自分にできること、とは。
 震える手で鍵を開け、そっとドアノブを掴んだ。静電気がぱちりと痺れを伝えても、痛いと感じる余裕はなかった。
 いやはや、よくもまあここまで歩いて来られたものだな。扉の中に入ってわずか一秒、体が扉伝いに崩れ落ちた。
 情けなさに顔を覆って、思考を再開。何ができる、何をしたらいい。あいつのために、俺は何をしてやったらいい。
 具体と抽象が行き来して、混沌とした頭に一行浮かんだ。

 足枷に、ならないこと?

 疑問符付きのそれでは、あまりに漠然としている。具体的には、どういうことだ。
 ――たぶん、あいつは甘えてくる。それを拒むことは、きっとできない。してはならない。
 一度信頼した相手に裏切られてみろ。裏切るつもりがなかったとしても、向こうは何らかの傷を負う。頭がイかれるとか、人間不信になるまで陥らなくとも、必要以上に他人と距離をとるくらいはするだろう。ただでさえ独りでいるっていうのに、助長してどうする。
 受け止める、まではしなくては。
 代わりに、受け止める、だけ。
 好意は貰うより注ぐ方が、労力が要るらしい。一方通行と気付いて、不毛だと嘆いて、そのうちに飽きて捨ててくれれば。それが最善だ。
 いつでも、あいつが俺を手放せるように。
 それに努めればいい。
 深呼吸をして、水の与えられた恋心を腹の底に押し込んだ。
 そのまま潰れちまえば良いってのに、いつまで経っても消えないんだよなあ、こいつ。非常に厄介だ。持て余してしまう。何年も苦労させやがって。
 だからこそ、扱い方も分かってきたのだけど。
 意識すればするほど苦痛がやってくる。極力、意識の外に置けば良い。押し込むときだけは触らなくてはならないけれど、一度しまってしまえば楽なもんだ。
 あいつの求めに応じても、欲するものを汲み取って、そして与えても、俺自ら求めはしない。
 心に誓った。できるだろうか。悩むまでもない、片思い歴舐めんなよ、できるに決まってる。

 思い返せば、ずいぶん長いこと、恋焦がれてきた。それは今も、きっとこれからも続いていくのだろう。

 ――御幸一也、という男に、心底、惚れているのだから。