十
予告もなく訪れた部屋に、あいつの姿はない。当然だ、遠征しに行って、帰ってくるのは明日なのだから。
座り心地の良いソファに腰掛ければ、しっとりとした皮が吸い付いた。沈み具合も絶妙で、横になると自宅のベッドと相違ない寝心地。若干硬い気もするが、許容範囲内だ。
もふりと、勝手に拝借したジャージの上着を羽織った。袖を通して匂いを嗅げば、ふわりと柔軟剤の香りがする。それから、この家の、あいつの匂い。
「帰って、こねえかな」
ぽつりと呟いて、ソファの上で丸まった。出来るだけ、そのジャージに包まれるよう脚を折りたたむ。目を閉じれば、あたかもあいつに抱きしめられているかの錯覚に陥った。
あいつと付き合いだして、早いものでもうすぐ一年。元から月に一度しか会わない生活をしていたが、シーズンが始まると、テレビ越しに見かける機会の方が多くなってしまった。
画面の奥にあいつが映るたび、たくさんの歓声の中心にいるのを目の当たりにするたび、距離を感じて恋しくなる。
分かっていたことだろう、そもそも住む世界が違うんだ。すれ違って当然、たまに会って、疲労を残したあいつを労わって、気の向くままに抱かれて。それで充分じゃないか。それで満足するべきなんだ。
幾度となく自分に言い聞かせ、納得しようとする。しかし、それは叶わない。
まったく欲張りなもんだ。付き合えただけで奇跡みたいなモンなのに、それ以上を求めるなっての。
あくまで自分は、あいつが一生を捧げようと思える女ができるまでの代用品だ。いつでも切り捨てられるよう、多くを望んではいけない。
「ぁあ……くっそ、」
ぎゅうっと両腕で我が身を掻き抱けば、一層、御幸の存在を感じた。
もっと、ほしい。器の八分目じゃなく、満杯になって溢れかえるほどの愛が欲しい。貰うだけじゃない、こちらからもその背中に手を伸ばしたい。広くたくましい背中にそっと触れて、あわよくば、支えてやりたい。
自分勝手で傲慢な欲が、ぐるぐると胸の中を渦まいていく。
鼻腔を掠める匂いに、ぞくりと肌が粟立った。まったく我ながら変態染みている。
自分を嘲笑いながら、静かにベルトを緩めた。
「ァ、」
下着と肌の間に手を滑り込ませ、萎えたそれを包み込む。加えて、もう一方の手は股をくぐって窄まった後ろに。
瞼を閉じた先に劣情を纏った御幸の姿を映しだし、自慰に耽り始めた。
――何度こんなことをしているだろう。
あいつには知られていないが、留守中に訪れては、そっと自分を慰めている。
『もっと欲しい』
そう直接強請れないツケが回ってきているかのよう。満たされることもなければ、済ませた後、虚無感に苛まれるというのに、犯してしまう。
脚を動かしながら下着とスラックスを脱ぎ、手の動きを速めた。俺を暴いてくるとき、あいつはどうするっけ。
先が弱いのは気付かれてしまったから、なにかと尿道口を引っ掻くように弄られる。それから、痛みすら快感に変わってしまうためか、強すぎる力で裏筋を擦られる。睾丸を揉みしだかれながら後ろを解されるのもしょっちゅう。折り曲げた指の関節で、抉るように腸壁を嬲られることもある。一本二本と指を増やし、三本入ったところで目一杯口を広げられるのも堪らない。
「はぁ、んっ、ふァ……、」
普通に過ごしていれば気にならないが、こうして自慰をしていると指の太さの違いに違和感を抱いてしまう。最初は自分の指から始めたというのに、今じゃ御幸に犯されないと満足しきれない。
あいつの手で、できれば、あいつ自身のもので。
奥深いところを乱暴な勢いで突かれると、途端に悦楽の波に襲われる。夢中で腰を打ち付けてくる顔が視界に入ったものなら、必死に求められていると歓喜で震える。
まだ後ろだけで達したことはないけれど、時間の問題だろう。そこまで体を作りかえられてしまったら、もう女抱けなくなっちまうかもな。
奥には届かないため、仕方なく前立腺を刺激した。
「ひゥ……、っくぅ、あ」
あいつは一発を出すまでが長いくせに、前戯に拘る。
こちらの怒張が反りかえって、今にも達しそうになるまで苛め抜いてからじゃないと入れてこないのだ。むしろ、一回こちらをイかせて、力を緩ませたところで捻じ込んでくることの方が多いかもしれない。
それだけ御幸の逸物は太いってことでもあるのだけれど。弛緩した体でもきつく感じるって、よほどだろ。
一度、あいつのコンドームのサイズ見たとき、無言で背中を蹴り飛ばしたっけ。服のサイズも差があるなと思ってはいたが、なんだあれ。ふざけてんのか。
巨根というほど長くはないが、大口開けないと飲み込めない太さ。よくもまあ、この体はあれを受け入れられているもんだ。フェラするだけでも一苦労。されるの好きらしいから、よくしてるけど。
「っふあ、あっ……、ンぐ、」
徐々に絶頂が近付いてきて、体の様々な部分が痙攣しだす。
そっと下唇を噛み締めて、手の動きを速めた。口を開けたままだと、あられもない声を零してしまう。いくら防音性に富んだ部屋とはいえ、大きな声を出したくない。
「ひっ……、ぁ、あ、っあ」
入れ込んだ指で何度も前立腺を引っ掻き、亀頭と裏筋をまとめて擦った。若干の物足りなさはあるものの、達するのには事足りる。
目の奥から、白い靄が浮かんだ。もうすぐだ。
「――み、ゅき、」
寸前で、愛しいその名を呼んだ。
「なーぁに」
「っひ、ぅあ、あっぁあァぁあ!?」
どぷりと切っ先から白濁が吐き出された。
ついでに幻聴まで聞いた気がする。そんな馬鹿な。上から降ってきた声を確かめるべく振り返ればいいのだろうが、振り返ってはいけない気もする。
どくどくと心臓が猛スピードで血を送り出してきた。おかげで顔に熱が集まる。
唾を飲み込んで、ぎゅうっと体を縮みこませた。
「無視すんなよ、ただいま」
「ぐぬ……、おかえり」
畳みかけられた言葉に恐る恐る首を捻れば、――ああなんでお前がここにいるんだよ――ソファの背に肘をついた御幸が、憎たらしいほどの笑みを浮かべていた。全身にだるさが残っていなかったら、その顔面に平手を打ち付けていたことだろう。
それにしても、だ。
どうして、なんで。お前、ついさっきまでテレビ画面の向こうにいたはずだろう。どうやってここまでやってきたんだ。帰ってくるのは明日の予定で、今日は遠征先に泊ってくるんじゃなかったのかよ。どこでもドアが開発されたとか聞いてない。冗談じゃない。
混乱と動揺と、それから疑問で頭を満たしていれば、どろりと甘ったるく笑った御幸が正面に回り込んできた。
やばい、見られる。もう見られてるけど、これ以上痴態を晒したくなどない。
「なんでいるんだって顔だな」
「だって、ぇ、うそだろ……、っはぁ?」
「虫の知らせ? ともちょっと違うけど。なんか倉持に会える気がして」
「ばかじゃねえの」
「でもいたじゃん。しかもか~わいいことしてくれてるし。無理言って帰ってきた甲斐あったわ」
丁度俺の真ん前まで来ると、御幸は緩んだ顔そのままに跪いた。それでも、寝転がっているせいでこちらの目線の方が低い。
十センチばかり上空から、甘ったるい視線を降り注がれた。頭のてっぺんから足先に至るまで、肌に刺さる視線は舐めるように滑っていく。
そんなに見るなよ、居心地が悪くなってくるだろ。ソファそのものの心地は最高なのに。今すぐにでも、その双眸を潰してやりたい。腕を持ち上げる余裕なくて良かったな、この野郎。
たかたかと走る鼓動に、じっとりと張り付く視線。せめて色に耽っていた顔を隠したいのだが、まだ後ろから指を引き抜いていないし、もう一方の手にはべっとりと精液が張り付いている。どうしろと。ひとまず、このベタつきだけでも拭わせてくれないか。
羞恥と戦いながら御幸を見つめ返せば、おもむろに白濁まみれの右手を掴まれた。
「なに、」
「ん~?」
器用にも片眉だけ持ち上げた御幸は、唇に弧を描きつつ俺の右手を寄せた。いや、俺の手の平に顔を寄せたに近いか。
――厚い唇からちろりと赤い舌が覗き、ぬるりと肌に触れた。
かと思えば、今度はべろり。精液が舌で拭われる。最初は大きく、だんだん細やかな動きで。
手の平についたすべてを舐めとらんと舌を這わせ、それでもまだ足りないと、指の一本一本まで嬲られる。
「っおま、なんで舐めてんだよ、」
「もったいねえなあ、って」
「もっ、たいねえもクソもあるか!?」
「あるって、だってすっげえ濃いもん」
ちゅるっと指先に吸い付いてから、赤ん坊のように口に含んでしゃぶりだす。振り払おうにも、ごつごつとした両手で固定されてしまえば、それは叶わない。
一見拙い動きで、淫靡に絡みつく。
はくはくと口を開閉していれば、すっかりその気になった御幸が情感たっぷりに微笑んだ。
「俺さあ、ちょっと不安だったんだ」
「っは、」
「倉持から、あれしたいこれしたいって言われたことねえなって。いつだって俺がシたいときだし、お前が誘ってくんのも俺が上手く切り出せないときだし。ちゃーんと愛されるか、イマイチ確証持てなくて」
「んに言って、」
「うん、お前が俺のこと好きなのは分かってんだけど、言葉にも、行動にも出さないからさ。もし嫌がってたらと思うと怖かった」
指先を甘噛みしながら、御幸はつらつらと言葉を並べる。何かを堪えているトーンにも聞こえるから、溢れそうな感情を抑え込んでいるのかもしれない。
それにしても、こいつ、気付いてたんだ。俺が故意的に求めずにいたこと、いつかは気付くだろうとは思っていたが、予想よりずっと早い。
自分の感情に鈍いのだから、俺からの矢印に気付くのも時間がいると思っていたが、そうでもなかったらしい。
「けど、杞憂だったな」
一度目を伏せた御幸は、ぽつりと続ける。
男にしては長い睫毛が影を作り、まるで映画のワンシーン。告白の場面に使われそうなカット。
散々なじっていたため忘れていたが、御幸は眉目秀麗の四字熟語にふさわしい外見をしているんだった。うっかり、その姿に、魅入ってしまう。
間もなく瞼が持ち上げられ、ぱちり、目があった。
ミルクチョコレートよりも甘く、金平糖みたいな輝きを孕んだ、蕩けそうなキャラメル色。
そんなに糖分はいらない、甘ったるくなくていい。英国フィクションのお菓子工場に迷い込んだみたいだ。滑らかな口当たりの癖に、舌には魅惑的な甘みが絡みつく。一口で充分満足できる味なのに、むしろ、それ以上食べたってもたれるだけなのに、つい二口三口と欲張ってしまう。
まずいな、呑まれる。
たっぷりの間と、甘さと、愛欲を纏った声が、鼓膜を震わせた。
「続き、ベッドの方がいいだろ?」
くんっと引っ張られると、縮こまっていた体が起こされる。ずるりと抜け落ちた指に悲鳴をあげそうになった。
それすらもお見通しと蕩けた顔をした御幸は、強引に俺を立ち上がらせ、気障に腰を抱いてくる。たったそれだけで震える自分の体も、どうかしてる。
セレブリティのエスコートとは、きっとこういうものなのだろう。数歩よろめくと、足首に引っかかっていた下着とスラックスは完全に抜け落ちた。
「ぅあっ……」
これで下肢を守ってくれるものは何もない。つい、握られていない方の手で、ジャージの裾を引っ張った。だからどうということもないし、幾度となく無防備なそこは晒している。
「脱ぎたくない気分?」
「っちが、」
「別にいいぜ、彼ジャー姿犯すのも悪くねえし」
むしろ良い。そう続けて人の悪い笑みを向けられる。もちろん目の奥には淫猥な灯りを点けたまま。
ここまではっきりとした欲望を目の当たりにしたのは初めてかもしれない。いつもだと、どこか後ろめたさとか、隠そうとするとか、そういう控えめさが見て取れる。
だが、今日はそれが一切ない。俺が求めてこないという不安が罪悪感を抱かせていたのかもしれないな。それだけは、悪かったと思う。
まあ、それはそれで、別の話。平常時のこいつにすら、体が付いていけなくてひいひいしてるっていうのに、あれ以上がっつかれたら応じるとか嬉しいとか思う以前に、こっちが死ぬ。しかもさっきイったばっかだし。
やばいよな、まずいよな、一度熱を冷まして欲しいのだが、その願いが叶う気がしない。
脳裏を、犯し潰され、狂い乱れるさまが過った。
そうなって堪るものか、どうにか御幸を睨み返せば、それすらご褒美だと言わんばかりに笑い飛ばし、キスをされた。ねっとり舌を絡み取られて、瞬く間に腰が蕩けていく。
「んぅっ、ぁ……、んふ、」
「ん~、っはは、とろっとろ」
「るせ」
「その強気もどこまで持つかな。誠心誠意込めて溶かしてやるよ」
「ヒぁっ!? おい、どこ触って」
腰に回っていた手がするりと下降し、内腿を擦った。咄嗟に御幸の肩にしがみついてしまう。伸縮性のある生地が手の中で歪んで、ぐしゃりと皺を作った。
「……歩ける?」
「はぁ?」
「歩けねえんなら、いつかみたいにお姫サマ抱っこしてやろうかな~って」
「いつかって、なんだよそれ!?」
「あれ覚えて、……ねえか、お前寝てたもんな」
ちゅっと額に口付けてから、御幸はまたもや恭しく膝をついた。掴む位置が低くなって楽なのだが、見上げてくる悪人面を見る限り、今すぐにでも逃げ出さなくてはいけない。かといって、支えを失おうものならその場にへたり込んでしまうのだろうけど。
最悪だ。最悪。
膝裏と背中に腕を回されたところで、諦めてしまえと頭の片隅が囁いた。そういう扱いされたいんじゃない、女みたいに大事にされるんじゃなく、対等にありたいんだ。
そうは思えど、御幸の動きを止めることも、諌めることもできなかった。
せいぜいできたのは、浮遊感を誤魔化すため、そいつにしがみ付くことだけ。
爛々と目を輝かせている割に、ベッドに下ろす動作は非常に丁寧だった。いやこれは、嵐の前の静けさとして恐れ慄いておくべきだろうか。唾を飲むと同時に、ぼすりと上体を押し倒された。
ぎしりとスプリングを軋ませて迫ってくる御幸の顔は、完全に臨戦態勢。几帳面にも、布団は足下に畳まれているから、纏って壁を作ることもできない。ただ、背中をシーツに埋めるしかできない。
本当に、逃げ場がない。
「内股なっちゃって、可愛いな」
「可愛かねえよ、コンタクト作り直した方いいんじゃねえ?」
「ざーんねん、最近作ったのだから、はっきりくっきり見えてます」
にんまりと笑った御幸は、俺が着ていたジャージの前を開いた。その下には第二ボタンまで開けたYシャツ。全裸じゃなくて残念だったな、わずかに落胆の色をにじませた御幸を鼻で笑った。
「そこはさー、素肌だろ」
「期待外れだったな、ざまあみろ」
「まあ、それ着てオナってたことに代わりはねーか」
「しね」
「生きる」
一個一個、上から順にボタンをはずされると、ほとんど衣服が意味をなさなくなる。局部を隠すのは、薄く、比較的柔らかな陰毛だけ。
元から体毛は濃くないと思っていたが、目の前の男と比べると違いは歴然だ。まじまじと見たとき「富士の樹海にスペースシャトル」というフレーズが過ってしばらく笑いが止まらなかった。どうして笑ったか教えてないから、こいつにとっては、未だにあの大笑いは謎のまま。
「ん~、すべすべ」
「変態親父か」
「まだ二十四だし」
「……もうじき年取るだろ」
「へえ、誕生日覚えてくれてたんだ」
するりと平らで面白味のない胸を撫でられる。戯れは良いから下触れよ。口を尖らせて御幸の左手を掴んだ。あえて言いはしないが、じぃっと見つめて、そこじゃないと訴える。
「なぁに」
「するならさっさとしろよ」
「お前一回イってるんだし、ゆっくりやろうぜ」
薄皮一枚を撫でるようにと乳輪に触れられると、ぞわり、肌が粟立つ。女性のそれみたいに大きく突出しているわけじゃないのに、くるくるとなぞられると前に張り出しくるような気がした。
じれったい。くすぐったい。
弄る手を諫めようと、強く握った。とはいえ、効果はゼロ。指先の動きは止まらなかった。
「はぁ……、んっ、」
「そういやココ弄ったことねえよな。感じる?」
「わかんね、くすぐったい」
「最初だしそんなもんか」
徐々に描く円を小さくされ、ほとんど乳首の周りを擦られる。おかげで普段は気にならない程度の突起が、ぴんと上を向いた。左側は平らなのに右側だけ存在を主張する。
そっと顔を近づけた御幸が、ふっと笑った。
「ぅあっ!?」
「イイ声~、まだ摘まんでねえのに」
「息がかかったんだ、ってなに口開けてッ」
ぱくり、生暖かさに包まれた。そして指先よりも小さな突起がねっとりと嬲られる。その形を確かめるようそっと舐めたり、平らに潰されるのではないかという強さで潰されたり。じゅるりと唾液で滑らせながら吸い付かれる。
男の乳首を捏ね繰り回して楽しいのか。うっすらと疑問を浮かべつつ、手持無沙汰な両手で御幸の頭を包んだ。まるで吸ってくれと押さえつけているよう。やっぱりしなければ良かったろうか。けれど、ふわりとした髪に指を通す感触は嫌いじゃない。
「ん、っはぁ……、ァ」
「きもひい?」
「べつに、」
「んむっ、我慢すんなよ」
「ふァっぅ」
前歯が突起を挟んだ。一瞬噛み切られる、という恐怖が走るが、そんなことはなく甘噛みを繰り返されるだけ。
突起の中央を弄りながら噛まれると頭の奥がぴりぴりと白くなる。痛くはないが、くすぐったいよりは強い刺激。気持ち良いには届かないが、着実に局部へ熱が運ばれる感触。
つい内腿をすり寄せてしまう。
「っふ、……ぁ、はぁっ……、あ」
「やっぱ感じてるだろ」
「そっ、こまで……、でも、ねえし」
「だって左もびんびんじゃん」
おもむろに顔を離した御幸は、視線をもう一方に向けた。咄嗟に自分も胸元に目を向ける。――そこにあったのは、しゃぶられて赤くなった右側と、まったく触られていないのにぷっくりと膨れた左側。
嘘だろ、そっち弄ってねえじゃん。
自分でするときも乳首は弄ったことねえのに、いくらなんでも、感度良すぎやしないか。
呆然としつつも、自分の片手がソコに伸びた。芯をもって固くなっている突起の先を、そっと指の腹で擦る。すると、やはりぴりりとした痺れが走った。少しずつ擦る力を強め、ぐにぐにと押し潰すかのように弄ってしまう。
もはや御幸に与えられたのより、ずっと強い力で、だ。
「ぁ、あっ、しゅごぃ、らにこれっ」
「もー、自分で弄っちゃってるし」
「っるせ、なんかァッ、びりびりするっ」
「……倉持さあ、痛いの好きだよな」
「っは、何言ってンだよ」
「だってさあ、」
親指でぎりっと乳首を潰すと、御幸の手が唾液まみれの方に伸びた。つんっと先を弾いてから、二本の指に挟まれる。ぼんやりと眺めていれば、くにっと摘まむ力が込められた。
「ぁ?」
「これくらいが、普通の気持ち良いだとするとな、」
そういって、御幸は一拍分間を取る。この程度じゃ、気持ちいいよりくすぐったいに近い気もするのだが、一般的には違うのだろうか。物足りなくてわずかに胸を突き出してしまう。
うっすらと、御幸が笑った。なんだよ、その顔。馬鹿にしてんのか。
ムッとしてしまい、文句の一つでも言ってやろうと口を開いた。
「笑ってんじゃ、」
「倉持のイイっていうのは」
――コレ。
そう言って、ぐちりと指に力を込められた。丸い粒が、指に挟まれて潰される。びりっとした痛みが、真っ先に頭に走った。
しかし、次に襲ってきたものは、というと。
「~~アぁあっ!?」
「はっはっは、痛いはずなんだけどなあ」
「あぁっ、ぅあん、ぁ……」
目の奥で火花が散って、ずんっと腰が重たくなった。イってはいない。けれど、前立腺を圧迫され続けたときのような、苦しい快感が脳みそにべったりと張り付く。
これは、まずい。大変にまずい。というかヤバい。たった数分、弄ったことも弄られたこともない乳首を舐られてコレだ。
達するには至らなかったのも、一度自慰でイっていたからだ。体の部位から集められる熱を一手に引き受けたそこは、今にも壊れそう。わざわざ見たくとも、反りかえっていると分かるくらいだ。触られてもいないのに、だらしなく先走りを零して、ぬらぬらと寝室の淡い光を反射しているに違いない。
いつもは余裕がある、というほど冷静に抱かれているわけではないが、今日ばかりは余裕のよの字すら消え失せる気がする。
ああもう、突っ込むならさっさと突っ込んで来いってんだ。そうしたら、お前だって理性焼き切れるだろ。死なばもろとも、俺ばかり我を失って堪るか。
未だに残る痺れをどうにか抑え込み、そっと膝を立てた。狙いは、言うまでもないか。
「ぅえっ!?」
「ヒャッハハ、饒舌でも誤魔化せねえぞ」
「……もう欲しくて堪らない、ってか?」
「ぬかせ、お前こそ入れたくて仕方ねえんだろ」
膝を押し付ければ、ズボン越しに硬くなったそれに当たった。他人の乳首舐めてこんなにしてンじゃねえっての。
不敵な笑みを向ければ、御幸の頬がわずかに引き攣った。バレねえとでも思ったか。それだけ欲情しながら嬲ってきてんだ、気付くに決まってる。
もう一度、ぐりっと膝で刺激してやると、膨れっ面になった御幸はその立てた脚を掴んだ。仕方なく膝の動きを止め、動かしやすいよう脱力する。すると、大きく持ち上げられ、肩に担がれた。自然と腰が浮き、恥部を御幸の眼前に晒す。
見られている。
たったそれだけで、ひくひくと後ろが収縮を繰り返した。
「倉持、そのチューブ取れる?」
「あ? あー……、これか」
「そう、それそれ、サンキュ」
ぐっと腕を伸ばしてヘッドボードから白いチューブを手に取った。ひょいと手渡せば器用にも片手でキャップを開く。
中身は粘性のある液体、ローションだ。いつもの通りなら、手の平で人肌まで温めてからねっとりとあてがってくる。今日もきっとそうだろう。刺激を期待して、かすかに腰が揺れた。
「ごめんな」
「ハ、なんだよいきなり」
「いや、先に謝っておこうと思って」
「謝るって、なに……っ!?」
つん、とプラスチックが後ろに触れた。続けてひやりとした感触。目を見開くと、淫靡に顔を歪めた御幸が視界に入った。
やめろっ。
それを言えたのか、言えなかったのか。上の口は大きく開きつつも、下の口は侵入を拒むように固く閉ざされた。しかし、その程度じゃ、防げない。防ぎようもなかった。
どろり、体内に冷たいジェルが流れ込んできた。
「~~ンあぁあぃあっ……!」
「こんだけいれりゃ充分だろ」
「はぁっ、ンの、クソやろっ」
「でもイイんだろ」
つぷりとさっそく指を埋められると、冷たさで萎えかけた前もすぐに芯を取り戻す。
欲しかった太さ。いや正確にはそれはまだだが、自分のものではない指が入ってくるのが堪らなく気持ちいい。
ローションが馴染むよう、粘りを掻き回しながら腸壁を擦っていく。どこに前立腺があるか覚えているくせに、触れてくれない。ぐにぐにと壁を押しやり、指を増やして入口を広げ、ごぷりと泡を立てるようにかき混ぜる。
「ぁ、ぐしゅぐしゅ、すりゅ、」
「うん、もういっぱい~って溢れてる。入れすぎちゃったな」
「はぁん……、やぁ、まだつめたぃ、アぅ、あっ」
相当量入れられたローションは指を動かすたびに外へ垂れていく。大体は尻の方へ、一部は睾丸に擦りつくように。
滑りを増したソコは水音を響かせながら御幸の指を飲み込む。いつの間にか三本も捻じ込まれていて、相変わらず前立腺を避けながらピストンを繰り返される。
じれったい、もどかしい。最初こそ、骨ばっていて太くて気持ちよかったが、それよりもずっと熱くて大きなモノが欲しくなってくる。
入れてほしい。奥まで突き刺して乱暴なくらい荒く犯してほしい。プライドが盾になって言わずに済んでいるが、これ以上焦らされたら堪ったもんじゃない。
両手でシーツを掴んで、蕩けそうな理性を必死に繋ぎとめた。
「どう、まだ冷たい?」
「ンッ、もっ、もう、もういいから、」
「……ほしい?」
「っ!」
大げさなまでの音を立てながら指が引き抜かれ、御幸が自身の前を寛げた。そこにあるのは膨張して血管が浮き出た男根。久々だからだろうか、いつもより大きく見える。気のせいなのか、溜まっているからなのか。肉壺と化したアナルがそれを欲しがり、ぱくぱくと口を動かした。
「ぁ、う、」
「なあ倉持、ほしいだろ?」
「ぅヒっ!?」
ちゅっと切っ先が触れた。ぐずぐずに解され、滑りも良くなっているため、ちょっと距離を埋めるだけで嵌まってしまいそう。早く早くと、ぬめる口が亀頭に吸い付いた。
ところが、それ以上入ってくることはない。どうして、なんて考えるまでもないな。俺の口から「ほしい」と言わせた上で突き刺したいのだろう。
その状態で、その顔で、俺とシたいのはお前だって同じだろうに。俺に意見求めてんじゃねえよ。
「くらもち、」
「ぅ、」
「前も後ろもとろっとろにしてさ、もう欲しくて堪んないんだろ」
「ぅうう、」
当たり前だ、さっきからお前が欲しいと体中が叫んでいる。入れてほしいのはもちろんだし、全身を愛撫されて夢心地に浸りたいし、口付けてどこもかしこも犯し尽くされたい。
けれど繋ぎとめたままの理性が「言うな」とブレーキを掛ける。言ってしまったら最後、なし崩しにどこまでもお前を求めてしまう。
そんなの嫌だ、重荷にしかならねえだろ。
言いたくない。言ってしまいたい。ぐるぐると頭の中を駆け巡る。
「ほら、言わないと俺もお前も生殺しだぜ」
「ん、でっ、」
「くーらもちー、」
「んで、俺に言わすっ、ンだ、よ」
ほんの数ミリ切っ先が沈んでは、すぐに抜かれて触れるだけに戻ってしまう。あまりのもどかしさと物足りなさに口が滑りそう。
どうにか言ってしまうのだけは避けて、喉を引き攣らせながら問いかけた。
すると一度きょとんとした顔をして、御幸は瞬きをする。聞きたいから、言って欲しいから、それ以外に何があるんだという、そんな顔。実にシンプルだ。野球以外じゃ、滅多に頭悩ませねえんだったな、忘れてたわ畜生。
余計に言いたくなくなってしまって、下唇を噛み締めた。
「だってさ、」
ぽつりと、御幸の声がした。
かと思うと、怒張の先がぐずりと侵入してくる。喉仏を晒し出しながら声を漏らせば、存外近くに迫っていた瞳と目があった。
なるほど、上体を倒してきたから入ってしまったのか。肩にかけていた脚も下ろされており、御幸と自分の体に挟まれてだらしなく開いていた。カエルの後ろ足のような、単なるM字開脚のような。
雁首を呑みこめそうで、呑み込ませてくれない。目鼻の先にまで近づいた御幸はふにゃりと、緩く笑った。
「俺、お前がぐずぐずになるまで愛したいんだもん」
言い終えると、すぐに互いの唇が歪んだ。擦れ合わせながらそれぞれの弾力を味わい、どちらともなく口を開く。舌の切っ先を触れ合わせれば、とろりと唾液を絡ませながら愛撫が始まった。
握りしめていたシーツを、そっと離す。そして、両腕を御幸の背中に回した。角度を変えながら何度も唇を重ね、とろりと唾が顎を伝い落ちる。
もう、言ってしまおうか。
この甘さに溶けて、沈んでしまいたい。でもその前に、名前を呼んでやりたい。御幸、じゃなく、一也、と。名字で呼ぶ人、名前で呼ぶ人、様々いるが、特別な人に名前を呼ばれるのは一際嬉しいものだ。
唇が離れたところで、そっと耳に口を寄せた。いや、寄せようとした。
「よういち、」
耳元で聞こえた低く蕩けるような声。
先を越された。ずくんと、その響きが腹の底に届く。恋慕と、色欲と、懇願とを込めた声は、沈んだそばから、体中、末端に至るまで染みわたっていく。
ずるい。これは確かに、ずるい。いつだか名前を呼んだときに言われたような気がする。嬉しいし、幸せな気分に浸れるのだけれど、少し間が欲しくなる。頭を整理する時間が欲しくなる。
たかたかと鼓動は逸り、理性の糸が擦り減っていく。
今一度、目があった。声同様に、誠心誠意こもった愛が映ったチョコレート。
ぷっつり、切れた。
「み、ゆき、ほしい」
微かな声は、確かに、その男に届いたらしい。
「――ありがと、愛してる」
囁き返されたと共に、腰が一際高く浮かされた。息を呑む。絶え絶えで、酸素を欲しているはずなのに、ぴたりと呼気が止まった。
涙の膜が決壊する。つ、と水が伝っていった。ちくしょうめ。ぎゅうっと目を瞑ると、猛った熱を色濃く感じて、ぐらり、腰が揺れた。
ああ、クる。
「~~~~ッ」
目の奥が、弾けた。
火花なんて可愛らしいものじゃない。白い世界に突き落とされて、どこまでも浮かんでいけそうな、そんな心地。
あまりに強烈過ぎる快感をどう受け流せばいいか分からない。ただひたすらに、背も指先も、脚も、足の指さえも、ぎゅうっと丸くした。声にならない叫び、もとい喘ぎが、空気の塊となって吐き出される。
「は、っはっは、まじかよ」
「ぁっ、あ、ぅあ、」
半開きの口からは間抜けな音しか出てこない。御幸の声さえ遠くて、ただ、腹の中にねじ込まれた熱だけをリアルに感じた。締め付けてその形を体に刻み、離れたくないとしがみ付く。
もう、上下左右、前も後ろも分からない。
「すげ、なんだっけコレ、ところてん……?」
「ぁん、やぁっ、あっ」
「つーか、おい、おい洋一、大丈夫か」
「はぁんっ……、みぅき、ぁっ、あう」
「っや、べえよな、これ」
何を言っているのかよく分からないが、焦っているのは分かる。久々に入れたのがそんなにヨかったのだろうか。それはそれで光栄な限りだ。
それよりもっと奥を突いて欲しい。痛みを伴っても構わないから、ずんっと腹の奥を圧迫する衝撃が欲しい。早く動いてくれないだろうか。それとも、こちらから動けばいいのだろうか。でも頭も体もぽやぽやと痺れてしまって思うように操れないんだ。繋がったそこの熱だけは鋭利に感じるくせにな。
もっと、もっと。相変わらず頭の悪そうな喘ぎを漏らしながら背中にしがみ付いた。
「い、一回抜くぞ!?」
「ぅえ、」
一際大きく叫んだかと思うと、折角入った陰茎が引きずり出される。激しい挿入出を思わせる動作じゃない、明らかに行為を止める動き。どうしてそんな真似をするんだ。突いてほしいのに。ずぶずぶと捻じ込んで、上から叩き付けるみたいに犯し潰してほしいのに。
やだ。そんなの嫌だ。いやだ。イヤだ。
「やぁあ!」
「うっ!?」
重い脚がようやく動いて、ぐるりと御幸の腰に巻き付いた。離れていかないで、そのまま快感を与えてくれ。お前の熱がないともう駄目になる。
「あ、やだっ、抜くのやだぁ」
「へ、いやだってお前、」
「やらぁっ、もっともっと、みゆきがっ、――かずやが、ほしいっ!」
腰を捉えた脚が滑り落ちそうだが、どうにか堪えて抱き付く。そのうちに抜かれた部分がゆるゆると収められて、ごつりと奥を掠った。これが、欲しいんだ。でももっと激しくて、荒っぽくて、凄烈なのが良い。しがみ付いた背中を、かりかりと爪が引っ掻いた。
「たのむ、からっ」
「~~っああもう、知らねえ!」
御幸が喚いた。と、思う。
すると間髪おかずに腰が引かれ、息つく暇もなく叩き付けられた。口が捲れそうなくらい強引で、恍惚とする質量で腸壁を、前立腺を擦り上げられ、さらには最奥に快楽の衝撃が届く。次々と与えられる快感に溺れるのは辛くて、苦しい。けれど、もっとと強請るのはやめられない。
壊れた蛇口のように精液が流れ出てくる。訪れた絶頂は、いつまでたってもそのまま。イきっぱなし、ってたぶん今の状態なんだろうな。ふと、冷静な自分が、乱れ狂う我が身を見下ろした。
「もっとぉ、ぃんっ、ふぁ……、あふ、」
「んん~、っはぁ……」
「ぁぅ、んむっ……、んンぅ」
厚い唇に塞がれて尚、求め続ける。無我夢中で抱き付けば、中の熱が大きくなった気がした。
「っ明日、どうなっても知らねーぞ」
それを最後に、思考を巡らす余裕は、一ミリも残さず砕け散った。
***
ふわりと、頭を撫でられる感触がした。ふわふわ、ぽやぽや、浮かんでいるような、泳いでいるような。体はいつもの数倍重たいのに、心地だけはなによりも良かった。
「ンっ……」
ゆっくりと、瞼を持ち上げていく。たったそれだけの動きすら億劫なほど、体は疲労しきっていた。なんで、こんなに疲れてんだ。昨日は、仕事して、飯買って、御幸の家に行って。
ああ、そうだ。そうだった。やってしまったのだった。
思い出すのとほぼ同時に、なんということでしょう、とナレーションを入れたくなる絵面が飛び込んできた。とびっきり甘くて、緩み切った御幸の顔だ。
「平気じゃあ、ねえよな。まだ後処理もしてねえし、ごめんな」
「んぅ、」
のろのろと起き上がれば、一層腰の重さが際立った。重い通り越して感覚がない。正座したときに足が痺れて、そのうちに感覚が鈍くなったのと似ている。座っているのも一苦労だ。両手を支えにどうにか起き上がると、困った風に御幸は笑った。
何の気なしにベッドを見やれば、まだ、ぐちゃぐちゃのどろっどろ。自分に至っては何も纏っていないし、御幸だって下にジャージを履いているだけ。まだ起きたばかりなのかもしれない。俺がいつ眠ったのか、もとい、気を失ったのか分からないが、こいつも意識を失うように果てたのだろう。
それだけ、激しかった。ふつふつと記憶が蘇る。主に、理性を飛ばしてからの痴態が、次から次へと脳裏を駆け抜けた。深い、ため息が零れる。
「つら、」
「どっかさすろうか?」
「いや、違う、そうじゃない、死にたい」
「何でだよ!?」
「じゃあ消えたい」
「お前がネガティブになるって、珍しいな……」
「恥ずいんだよ、分かれ……!」
背中に伸ばされた腕を叩き落として、キッと睨み付けた。とはいえ、散々な目にあった直後だ。真っ赤な目元じゃ、凄みも威圧もあったもんじゃない。その証拠に、叩き落としたはずの指先が目元にやってきた。
「目ぇ真っ赤」
「るせえ」
「でも、悪い。俺、今すっげー幸せ」
「性格わっる」
「そう? 恋人にあんなに求められたら、有頂天にもなるだろ」
人差し指が、目元を撫ぜた。ほんの薄皮一枚を擦られる、ただそれだけで背筋が震える。まだ、劣情の名残があるからだろう。目を合わせていたら、また言わなくていいことを口走りそう。そっと視線を落とした。
「……俺は、求めたくなんかなかった」
けれど、求めてしまった。関係を、一歩進めてしまった。俺じゃあ、将来こいつの枷になるなんて分かりきっているのに。大した特技もないし、器量も良くない、柔らかい体も無ければ、朗らかに笑うこともしない、なにより男だ。つり合わない、つり合うわけがない。
自分はあくまで、その相応しい相手が見つかるまでの代用品。思春期の勘違いの延長。何度も何度も、言い聞かせてきたというのに。
「……なんで」
「重いだろ」
「んなことねーよ」
「うっざいじゃん」
「どこがだよ、普段のそっけない態度思ったらあれだけ求められても足んねえっての」
「わかれよ……!?」
「わかんない」
積み上げていたものが崩れていく。小さな綻びすら作らず、遠目から眺めるだけで満足しときゃあ良かったんだ。
あのときの告白を、冗談で流してしまえば良かったんだ。
御幸の声が低くなっているのくらい、気付いている。それでも、これ以上進展してしまうのなら、関係を終わらせた方が、ずっとマシに思えてくる。
目元をなぞっていた手が、そっと頭に移動した。起きたばかりのように、ゆっくり、優しく撫でられる。
「なあ、何考えてんの、何に悩んでんの。言えよ、じゃねえとわかりようがない」
言い切った御幸には、きっと後ろめたさや背徳感はないのだろう。だから堂々としていられる。いっそそのたくましさが羨ましい。
一度下唇を噛んで、固く目を瞑った。深呼吸をして、野球馬鹿でも分かる言葉を探す。
「お前は、プロ野球選手で、脚光を浴びて、どう足掻いたって注目はされる」
テレビ画面に何度も映っているのだ、有名人に代わりはない。どこかの企業のイメージキャラクターもしているし、その整った顔立ちから女性ファンも非常に多い。実際、御幸を狙っている女は、世の中に大勢いるだろう。
「その注目には、好意もあれば、悪意もある。御幸一也は男と付き合っている、っつーことを良く思う奴もいれば、悪く思う奴もいる」
そんな彼女たちが、「御幸一也の恋人」が「男」だと知ったら。そうでなくても、この国では、いや、国なんか関係ねえか、同性愛ってのは、偏見に晒される。生産性がない。生命の進化に対する冒涜だ。自分だけなら、いくら言われたって平気だけれど。なあ。
「そう簡単に、お前は折れない。でも悪意のある連中に、お前が後ろ指をさされるところは見たくない」
自分がきっかけとなって、お前が虐げられるのは耐えられない。だってお前悪くないじゃん。こいつが無自覚のままでいられたら、こうして付き合ってはいなかったのだし。
「俺が、お前の汚点になるようなことは、したくない」
そりゃあ、聖人君主でもあるまいし、間違いは犯すだろう。ただ、名が知られているという分、こいつの過ちは即座に全国へ発信されてしまう。偏見が偏見を呼び、野球する上で支障を来たしたらどうする。
「だから、できるだけ都合良くて、そのくせ軽くて、困ったら、いつでも手放せるようにって」
そのときは、躊躇く捨ててくれよ。そう、思って、今までやってきたんだ。もっと欲しい、もう足りない、我儘を言いたくなるのを必死に抑えて、ここまで来たのに。結局、この様だ。
大きく、息を吐いた。
――それは、俺だけではなかった。
「倉持さあ、」
「……んだよ」
「思いつめすぎ」
「っ俺はお前を思って、」
軽く返された言葉に、頭に血が昇った。テメーのために堪えて来たっていうのに、何が思いつめすぎだ。
勢いよく顔を上げれば、予想以上の近距離に、御幸が迫って来ていた。
つん、と鼻先が触れ、間もなく唇が塞がれる。とはいえ、行為中に交わした濃厚なものではない。触れるだけ、互いの唇がわずかに沈む程度、バードキス。
びくりと肩を震わせると、目の前の御幸はふっと笑った。
「なんでそんなに悩んじゃったんだよ。誰かに言われたの、つーか男同士ってそんなに抵抗ある?」
「抵抗、ていうか、」
「そもそもさあ、俺がプロでお前が一般人とか、どうでもよくねえ?」
「よくねえだろ……!」
いくらなんでも、能天気すぎる。そこまで危機管理能力のない奴だったか。それとも、恋は盲目の名のもとに、状況が見えていないだけなのか。
目の前の双眸を睨んだ。
「住む世界が、お前と俺とじゃ、違い過ぎる……」
喉を通った声は、悲痛なまでに掠れていた。震えるのを誤魔化そうとしたからかもしれない。
御幸の両目が、ゆっくりと瞼を下ろした。しかし、両手で包むように頭を押さえられてしまい、距離を取ることができない。こつりと額がぶつかった。瞬きするだけで、睫毛が擦れる。
二度目となる、ため息が聞こえた。
「――同じだよ」
ふわり、鼓膜が震える。
「同じだよ。高校ン時は並んでプレーしたし、今も隣に座ってる。手を伸ばせば触れるし、――なんなら抱きしめることもできる」
瞼を閉じたまま、柔らかなトーンで御幸は言う。それから、するりと片手が背中に降りて、優しく引き寄せられた。
ぺったりと張り付く素肌は、どちらも汗ばんでいて、うっすら火照ってている。
傍の御幸が、滲んだ。
「俺はここにいて、お前もここにいる。だからそんな寂しいこと、もう言うなよ?」
もしかすると、このタイミングで御幸は目を開いたのかもしれない。
けれど、こっちは目を開けていられなかった。ぱたんと落として、ついでに、滴も零してしまう。
「ああそれと。俺、お前手放すつもりないから。もっともっともーっと俺のこと、欲しがれよ。な?」
「ばっかじゃねーの」
数滴落として、落ち着いたところで瞼を開ければ、甘ったるい瞳と目があった。
簡単に情けのない面を晒しやがって。恥ずかしくねえのかよ。自分の顔が、今どうなっているか、それは棚に上げさせてもらおう。
目の前の男に比べると、随分と薄っぺらい唇を開いた。
もう、ため息は出てこない。
「みゆき、」
溢れた言葉は、どれこもこれも、拙い音ばかりだった。